……結局、澪が持ってきた山のような弁当は、二人ですっかり平らげてしまった。あんなに煩わしく思ってたのに。
「さあ唯、食うもの食ったし、遊ぼうぜ!私、ビーチボール持ってきたし、この先の池にはボートもあるんだよ!」
「……食べた直後に運動したら、お腹痛くなるよ」
唯はふと、去年の夏の合宿の澪を思い出す。誰よりも楽しそうに海で遊んでいた澪。
楽しかったなあ。電車に乗って、紬の別荘へ。電車の窓から、律と二人で海に向かって叫んで……。
胸をチクチクと意地悪くつつき回すような記憶は、不意に訪れた大波のような眠気に阻まれた。
そういえば私、夕べもちゃんと寝れなかったんだっけ……。
……目を覚ました時、唯は自分がどこにいるか分からなかった。何か柔らかいものに頭を預けている。
目の周りに眠りの残骸をベタベタと貼り付けたまま、唯は顔をあげる。空は綺麗なピンク色をしていた。周りにいた家族連れやカップルは綺麗さっぱり消えていた。
……あれ?空がピンク?みんなどこ?あれ?
「目、覚めた?」
澪の声で、唯はすべてを思い出す。……しまった、すっかり寝ちゃってた!
「み、澪ちゃん!今何時!?」
「……五時すぎ」
唯の頭がショックで真っ白になる。ゆっくりと、理解したくない事実を頭が飲み込んでゆく。
……台無しにしてしまった。数少ないお楽しみを。澪の休日を。不覚にも涙が目に浮かぶ。
「澪ちゃん……ごめん。本当にごめん」
「ううん、唯、すっごく気持ちよさそうに寝てたし。いいよ。全然問題なし。……それに、唯に膝枕できて気分最高。足痺れたけど」
膝枕。唯の顔が途端に熱くなる。きっと夕日よりも真っ赤になってるだろう。貴重な休日を奪ったばかりか、膝枕までしてもらったなんて。
澪の柔和な微笑みが涙でぐにゃぐにゃに歪む。……澪はその涙を優しく拭ってくれる。
二人は連れ立って歩く。空のピンク色はすでに藍色に取って代わられていた。
「唯。……今日はどうだった?」
「滅茶苦茶だよ。シートは堅いし、ご飯は非常識な量だし、せっかくのお休みなのに寝てばっかだったし」
「ええー……とほほ」
「……でも、ご飯おいしかったし嬉しかった。だから一応お礼言っとく。……ありがと。また誘ってほしいな」
「どういたしまして。次はたくさん遊ぼう」
何度も何度も断ったのに、澪は家まで送ってくれた。細やかな心遣いがたまらなく嬉しい。唯の心に、小さな金色の蝋燭の火が灯される。
「じゃ、明日学校で」
「うん、また明日」
また明日、学校で。もう「あのヒト達」が何をしてこようと全く平気だ。私は大丈夫だ。一人の親友は、千人の赤の他人に勝る。
泣いたりなんかしない。吐いたりなんかしない。
玄関の戸を開けると、憂が待っていた。何時から待っていたんだろう。唯は少し申し訳ない気分になった。
「ただいま、憂。遅くなってごめんね」
憂は返事を返さない。
「……お姉ちゃん、最近部活出てないんだね」
……あちゃ。バレたか。
憂が携帯電話を取り出す。……その手は心なしか震えて見えた。
「……梓ちゃんが、さっき写メ送ってくれた」
え、何?唯はわざと明るい声を出す。そうすることで、胸の蝋燭を守ろうとする。
憂の携帯電話の画面に写っていたものは……唯の学校の机だった。落書きの光る机。
憂が携帯電話を震える手で操作する。画面には違う写真が現れる。机の上の花瓶、散らばるプリントの山、そして……律と紬が唯の席を蹴倒して笑っている写真。
「……それから、これも届いてた」
憂の震える手に、封筒が握られていた。封筒はすでに開封されている。……感心出来ないなあ、憂。他人の手紙を読むなんて。
封筒の中身は……剃刀の刃やカッターナイフの刃。ご丁寧に「説明書」までついていた。よく切れるように研いであります。顔だろうが手首だろうがご自由にどうぞ。
「ねえ、お姉ちゃん。先生に相談しよ?こんなタチの悪い悪戯……」
憂の頬はすでに涙で濡れ始めていた。……止めて。
「さっき、お父さんとお母さんにも電話で言ったから。二人ともすぐ来てくれるって」
止めて。……嫌。
「もしつらかったら、学校変えてもいいって言ってたから。いい高校、二人で探そう?」
嫌……嫌!
「このままじゃ、お姉ちゃんが滅茶苦茶になっちゃう。そんなこと、決して」
「嫌あああああああああああぁぁぁっっ!!!!!」
唯はトイレに駆け出す。
便器をひっつかんだ刹那、彼女の喉は最初の吐瀉物の波に焼き尽くされた。
第二章終わり
雨粒が窓を際限なく叩く。末期の息のような風が嘲笑う。
唯は窓に写る自分の顔を見つめていた。ここ数日で急激にニキビが増えてしまった顔。心なしか顎が尖って見える顔。
不意に彼女は、窓ガラスの自分の顔を激しく殴りつける。だがガラスは割れなかったし、自分の顔は壊れなかった。手に鈍い痛みが広がり、雲散霧消しただけ。
憎しみを爆発させたのは、これで何度目だろう。
憎かった。
変な正義感から妹に自分の「事情」を密告した梓が憎かった。
何の断りもなく親に報告した妹が憎かった。
仕事を放り出して、学校へ乗り込んでいった両親が憎かった。
自分に同情したすべての人間が……憎かった。
朝のホームルームで、律と紬が職員室に呼び出された。
教師が二人の名前を呼んだ瞬間、実体のないねっとりとした矢が一斉に唯に向けられた。
やっぱりね。唯は机に向かってぽつんと呟く。トイレに行ったり床に倒れたり、大忙しの相方。
机の落書きは、すでに全部消した。同情の原料を残しておきたくなかったから。
憂の携帯電話に入ってる写真は消した。家に届いた物騒な刃も、憂のいない間に捨てた。
二人が戻ってきたのは、一限目の授業が終わりを迎える頃だった。ざわざわとしたお喋りが止み、机の下で携帯電話をいじっていた者は顔を上げる。
……先生がいくら注意しても改善されなかったのに。二人ともすごいね。教職の才能あるんじゃない?唯は黙々とノートをとりながら、そんなことを考えていた。
ストイックにノートをとり続けているおかげで、来月の頭にある期末試験は少しいい点が取れるかもしれない。唯はそんなことをおぼろげに考える。
……無理か。私のノート、ページが何枚もなくなってるし落書きだらけだもん。何冊かトイレで泳いでたし。
休み時間になった途端、二人の周りに人垣が出来る。まるで宇宙から帰ってきたかのような好待遇。
「ねえ、どうなった?何か聞かれた?」
「やっぱりアレの件だった?」
「うん、アレの件。参っちゃうよ。しつこいんだもん。いわゆる誘導尋問ってやつ?」
「私ら何にも悪いことしてないのにねー」
「クラスメートを正しい方向に指導してあげてるだけなのにねー」
「被害妄想ってやつだろ?なあ、ムギ」
「……」
「ねえ、平沢さん」
紬が唯の机の前に仁王立ちする。やられるかもしれないな。全身の毛穴がぷつぷつと開き、警告の声をあげる。
「私とりっちゃんさ、来年推薦狙ってるのよ。二人で一緒の大学に通う夢があるのよ」
ざわざわとした話し声が、ぴたりと止む。クラスの全員が、紬に漂う危険な予感に飲まれる。
「それなのに、停学になったらどうなると思ってるの?他人の夢を台無しにしたいの?そんなに他人の不幸が楽しい?」
「……違う。チクったの、私じゃない」
「……はあ?何言ってるか聞こえない。てか臭いからしゃべらないで」
頭に重く鋭い頭が走ったと思ったら、鼻に鈍痛が走る。不覚にも涙が零れ落ちた。紬が唯の髪を鷲掴みにし、顔面を何度も何度も机に叩きつける。
「……鼻、どうしたんだ?」
教師が問いかける。……ある程度の想像はつくくせに。
「階段で転びました」
腫れ上がった唯の鼻は、職員室の臭いに抗議している。昼食と印刷紙が混ざった不快な臭い。
今は昼休み。今度は唯が職員室に呼び出されていた。……覚悟はしていたが、やはり面倒なことになった。
「……それじゃあ、もう一度聞くけど、本当にいじめはないんだな?」
「ありません」
いじめ、という言葉が酷く滲んで聞こえる。場違いな冗談のように思える。
「お前の妹さんが見せてくれたケータイ画像……あれは何かの間違いだった。本当にそうなのか?」
「はい。あれは三人で悪ふざけしていたのを、私の後輩が勘違いしただけなんです」
「しかし、机に落書きがされていたとか、カッターナイフの刃が送られてきたとか……」
「証拠はお手元にありますか?」
嘘はすらすらと出てきてくれた。教師も本気で問い詰めるつもりなどないのだろう。ありきたりな質問しかよこしてこない。
蛇がゾロゾロ出てくると知りながら藪をつつく間抜けはいない。そういうことだ。
それにしても。唯は胃液でボロボロになった歯を食いしばる。何で私は被害者のような扱いをされなければならないんだ。
被害者には同情が集まり、加害者には非難が殺到する。
私は同情なんかいらないのに。黙って非難を浴びるだけでいいのに。
あずにゃんも憂も、みんなどうしてわかってくれないんだろう。どうしてわかったつもりで行動するんだろう。
教師におざなりな挨拶をし、唯は自分のクラスに戻る。
待ち構えていたように、死ね死ねコールが始まる。
割れるような自分を出迎えてくれる声。どこからかペットボトルが飛んできて、耳元をかすめる。
……先生に聞かれたら、今度こそアウトだよ。
唯は胸の中でぽつんと呟き、席につく。誰かが待ち構えていたかのように机に跳び蹴りをかます。
……澪ちゃんにも聞こえてるだろうな。この死ね死ねコール。どう思って聞いてるのかな。
唯はふと、そんなことを考える。
彼女は結局、私に共感しているかもしれないけど、同情はしていない。そう思うと唯の中で澪の株価が少し上がるのだった。
放課後。唯はズキズキとした鼻の痛みをお供に教室を出る。もうギターのケースは持っていない。憂をごまかす必要がなくなったから。
最も、帰宅が夕暮れ近くになるのは今までと変わらないが。
最近は憂も両親も彼女の顔を見るたびに、あれやこれやと余計なことを言ってくる。死ね死ねコールの方が遥かにましだ。
だから彼女は、わざとゆっくり帰る。
「おい、唯。一緒に帰ろうぜ」
澪が駆けてくる。唯は彼女の端正な顔を見て……すぐに顔を逸らす。だって腫れた鼻を見られたくないし、それに……何でだろ、わかんない。
「別にいいけど」
唯は素っ気なく言う。私、本当にひねくれてて嫌な奴。
「腕、組んでいい?」
「またターゲットにされるよ」
「じゃあ手、繋いでいい?」
「何でハードル上げてくるの?」
澪が強引に唯の腕を掴む。掴まれた腕から、奇妙な感覚が全身に広がる。
澪の長い黒髪が唯の肩を何度も何度もこする。制服ごしだから何も感じないはずなのに、それはたまらなくくすぐったかった。
「そんなにくっつかないで、歩きにくい」
「あ、そのセリフ、どっかで聞いたぞ」
「……澪ちゃんの思考回路って、どうなってんの?」
二人は薄暗いアーケードを抜け、明るい午後の日の光を全身で堪能する。ありがたいことに、今年の梅雨は雨が少ない。
「唯はこの後どういう予定?」
「久々にゲーセンでいおりんと遊んでこようかな。しばらく行ってないし」
「じゃ、二人で河原でも行こう」
いやはや、実に見事なスルースキルだ。
河原の草は湿っぽくて、とても座れたものではない。なのに澪ときたら、草の上に大の字になる。
……本当、猫かぶり。学校じゃ大人ぶってるくせに。胸だって私よりずっと大きいくせに。
「気持ちいいなぁ。いい詞が書けそうな気がするよ」
「……その辺、犬の糞あったよ」
「見えない聞こえない。もし本当なら今から川に頭からダイブする」
「嘘」
いろんな音が耳をくすぐる。野球を楽しむ少年達の歓声、自転車のベル。
「なあ唯。……何でいじめってあるのかな」
澪がぽつんと呟く。唯は草の上に腰を下ろす。スカートが湿っちゃうけど、まあいいか。
「またいつものくだらない冗談?」
「いや、これは意外に、いやかなりマジ」
しばらく二人の間に沈黙の帷が降りる。帷は簡単に破れそうで、意外と丈夫に出来ている。
「……前に、こんな映画見たんだ」
やがて唯がぽつりぽつりと話し始める。
「ある平凡なおじさんが、何気なく追い越したトラックに命を付け狙われる話。けっこう怖かったよ。トラックの運転手の顔が最後まで見えないんだ。
私、それ見て思ったんだ。トラックの運転手がすごく楽しそうだ、って。おじさんの日常を滅茶苦茶にするのが楽しくて楽しくて仕方ない、って感じだった。
りっちゃんもムギちゃんも同じ。誰かの日常を滅茶苦茶にして遊んでるだけなんだよ。日常を壊された人が崖から転落して、遥か下の海でじわじわと溺れ死ぬのを観察したいだけ。
……もちろん、溺れ死ぬ人にしてみればたまったもんじゃないけどね。
私、最近こうも思うんだ。りっちゃんもムギちゃんも、次に崖から落ちるのは自分だって怖がってるんじゃないか、って。だから自分じゃない誰かを生け贄に捧げて助かろとしてるんだよ。きっと。
……本当に馬鹿みたいだよね。いくら生け贄を捧げたって無駄なのに」
唯は話し終えると、喋りすぎたことを恥じるように顔を背ける。
澪は長いこと何も言わなかった。ようやく口を開いた時には、すでに日は沈み始めていた。
「唯も詩人だね。崖だの海だの」
「……もう」
唯は膨れっ面をしてみせるが、胸は清々しさに満ちていた。溜まって淀んでいた言葉を全部解放したせいかもしれない。
……別にいいじゃん。海の上だって。
翌日。
霧のような雨をやり過ごして、いつものように下駄箱を開けた唯は、久しぶりに違和感を感じた。
いつもはこれ見よがしに入っている画鋲がない。紙屑の一つもない。最近は連日のように即席ゴミ捨て場になってたのに。
胸の中をぐるぐると渦巻く違和感と一緒に、自分のクラスに向かう。……座席は全くの手つかずだった。おまけに自分を見つめるクラスメートの視線が変わっている。
試しに机に鞄を置きっぱなしのまま、教室から出てみる。……誰も手出ししない。
あれ?
渦巻く違和感を持て余していたら、和が声をかけてきた。……何年かぶりに彼女の声を聞いた気がする。
「唯、おめでとう」
「……おめでとう、ってどういうこと?」
「だから、ターゲットから解除されたのよ。あなた。よかったわね」
和の言ってる意味が飲み込めない。こんな時に限って、私の頭は飲み込みが悪くなる。
「……じゃあ、そのターゲットとやらは?」
「今は新しいのがいるわ」
和はそう言うと、はっと何かに気がついて唯の後ろに隠れる。……まるで汚いものを避けるように。
ざわり。
唯の胃の内側を、誰かが箒で掃いた。
毛穴が開き、否定の声をあげる。
頭の内側が蒼白く冷たい感覚に襲われる。
嘘だ。
和が逃げた人物。皆が露骨に避ける人物。
嘘だ。
……秋山、澪。
……嘘だ!
心臓が肋骨を破り、喉元で鼓動を打つ。感覚を失った手は小刻みに震えている。足は力を失い、なすすべもなくだらんとしている。
授業中、唯は頭の中のノートに何度も澪の顔を描いては消した。自分の代わりに消しゴムの的になっているであろう澪の顔を。
……私は、何を動揺してるんだ。よかったじゃないか。もう何もひっくり返らないし、何も壊されない。
それにあいつは、猫かぶりの嫌な奴だ。だからあんな目にあって当然なんだ。
だから唯、恐れるな。今日からクラスメートと楽しくおしゃべりするんだ。部活も再開するんだ。
唯は何度も何度も自分にそう言い聞かせる。けれども、心臓はしかるべき場所に帰ってくれなかった。
最終更新:2011年04月26日 18:06