前にこんな映画を見たことがある。

何気なく追い越したトラックに命を狙われる男の映画。

ちょっとした行為で、他人の日常はいとも簡単に破壊できる。そんな話だった。


みんな誰かの日常を破壊したがってる。

みんな誰かを崖から突き落としたがってる。

みんな誰かが絶望の海でじわじわと溺れ死ぬ様を見たがってる。


みんな崖の上にいたがってる。


衣替えの季節、じめじめと鬱屈した六月の始め。

唯は突然、崖から突き落とされた。


いつものように遅刻ぎりぎりに教室に入った瞬間、唯は何か違和感を感じた。

何かがいつもと違う。

唯は教室の入り口に立ち止まり、眠い目を皿のようにして即席間違い探しゲームをする。

……答えはすぐに見つかった。

彼女の机がない。

そして、

彼女を見つめるクラスメートの目が違う。

目が違う。

そう、彼女を見つめる何十個もの目が違う。

日陰の湿った土のような、塵芥を食らい這い回る爬虫類のような目。初夏の鬱屈した空気を濃縮したような目。

やな感じ。そう思いながらも、唯は軽音部の仲間達のもとへ向かう。

「りっちゃん、おいーす」

砕けた口調の朝の挨拶をよこす。だが、返事はかえってこなかった。そのかわりに例のジメッとした視線がきた。

あれ、おかしいな。そう思いながらも、唯は自分の椅子にかけ、紬に声をかける。

「ムギちゃん、今日のお菓子は」

「りっちゃん、次の授業は移動だったわね」

「おお、行こうぜ行こうぜ。二人で」

二人で、という部分にやけに力を込めて律が返事を返す。

「……ええー、何それ。二人とも待ってよぉ」

唯は文句を言う。だがその言葉は席を立ち、ノートや筆箱を片手にすたすたと逃げる二人にあっさりと捨てられた。

……捨てる。まさにそうだ。会話は言葉のキャッチボールだ、と前に誰かに聞かされた。唯の投げたボールはあっさり捨てられた。

机のない自分の席から、唯はゆっくりと教室を見回す。

何十もの視線が、唯に刺さっていた。だが唯が見つめかえすと、視線の矢は簡単に抜け、目は四方八方に逃げる。まるで臆病なメダカのように。

……なんだか瞼が熱い。唇が震える。理解したくない事実を、頭が勝手に咀嚼して味わう。


唯は光栄ある「大当たり」を引いた。


口の主な三つの機能。呼吸をする機能、ものを食べる機能、そして言葉を発する機能。

唯はその日、三つ目の機能を利用することがほとんどなかった。それは彼女にひどい違和感を与えた。

違和感。それは自分の机を発見した時にも感じた。彼女の机はトイレのど真ん中で行き場をなくして戸惑っていた。

トイレに机。こんな状況でなければ、なかなかにシュールで面白い構図だったかもしれない。……実際、「みんな」にとっては面白いのだろう。

「みんな」の中に律や紬が含まれていることを考えると、唯の喉は小魚の骨が刺さったような痛みを訴えるのだった。


机を運んで教室に戻ると、彼女の鞄の中身が床にぶちまけられていた。リップクリームや携帯電話、教科書といった細々としたものが慣れない床で縮こまっている。

それはまるで鞄の腸や内臓のようで。唯は嫌な想像を打ち消すようにそれらを鞄につめてゆく。

それから、重い鞄を手に移動教室に向かう。彼女の行く手にいた同級生は皆露骨な仕草で彼女を避けた。

教室ではすでに律と紬の二人が座っていた。彼女たちの両隣にはすでに先客がいた。律の大ざっぱにプリントが詰められたクリアファイルと、紬の小綺麗なノート。

唯は彼女たちから離れた、一番前の座席に腰掛ける。目は絶対に合わせないようにする。きっと楽しそうな観察の視線にぶつかるから。

代わりに鞄をごそごそと探る。何かを探しているふりをする。

……おかげでこれから探さなくてはならないものがわかった。一限目の授業で使う教科書。

唯は鞄を手に、迷子の教科書を探しにいく。視線が彼女を追い立てる。

結局教科書は見つからなかった。と言うより探せなかった。

鞄を抱えて教科書を探している姿を見られたくなかったし、自分の教科書がどんな有り様になっているか知りたくなかったから。

教師に教科書を忘れたと伝えた時、唯は確かに周りの空気がさざ波のように笑いで揺れるのを感じた。……彼女の肌は空気に敏感になっていた。

肝心要の教科書がないので、唯はその授業に全くついていけなかった。……最もあろうがなかろうが変わらなかっただろう。全く集中することができなかったから。

一番前の席を選んだのが間違いだった。彼女の後頭部目掛けて、四方から千切れた消しゴムが飛んでくる。

あるものは髪にあたり、あるものは耳にあたる。

消しゴムの欠片は容赦なく無防備な唯に襲いかかる。たまに広げたまま出番のないノートの上にこれ見よがしに着地する。

……みんな止めなよ。消しゴムが可哀想だよ。

そうだ。可哀想なのは消しゴムであって私じゃない。唯はそう思う。と言うより思いこむ。

同情を求めたらすべてを失うだろう。かつて聞いた歌の歌詞にそんなものがあった。

他人に同情されるなんてまっぴらだ。ましてや自分に同情するなんて……。唯はそれ以上は考えないようにする。

やたらと長い一限目がようやく終わり、唯は誰よりも早く自分のクラスに戻る。

途中、和とすれ違った。和は唯の姿を見るやいなや、露骨に進行コースを変える。駆逐艦から逃げまどうボートのように。

……なんでよ?

和ちゃんはクラス違うんだよ?生徒会の役員なんだよ?

私の……幼なじみなんだよ?

不意に視界が歪む。唯は大げさな仕草で欠伸をして、滲んだ目をごまかす。ちょうど教室の鍵を持って来たクラスメートの視線から。

教室に入るとすぐ、唯は違和感に捕らわれる。……さっきから私は違和感ばかり。さあ問題。今度はどこにおかしな点があるのでしょう。

……簡単。さっきの授業の教科書が私の机の上に置いてあります。

……水浸しで。

自分に同情する人間は屑だ。かつて読んだ小説の文句を唯は心の中で何度も何度も唱える。唱えた言葉は心の外壁に塗り固められる、心はきっと強くなるから。

だが、目を塗り固めらる言葉なんか、ない。

だから唯は走った。軟弱な自分の目を見られたくなかったから。「あのヒト達」には、特に。


トイレの個室に駆け込み、唯は喉の奥に詰まっていた氷を溶かしにかかる。

涙が次から次へと溢れ出る。嗚咽がこらえられない。便器をつかむ自分の手が、激しく震えている。


喉の氷は溶けて生暖かい液体となる。液体は容赦なく涙となり頬を濡らす。

どれくらいの時間、そうしてトイレに籠もっていただろう。涙で滅茶苦茶になった顔をそのままに、唯は携帯電話で時間を確認する。

二限目が終わっていた。すでに休み時間になっていた。

……嘘。それじゃあサボりじゃないか。どうしよう、先生に謝りに行かなくちゃ。唯の体中を冷や水のような焦りが駆け巡る。

顔をペーパーで乱暴に拭い、唯は数十分ぶりにトイレの個室から出てくる。出てきた瞬間、澪と顔を合わせるが無視する。

教師の厳しい叱責の言葉をやり過ごし、唯は自分のクラスに戻る。

もはやお馴染みになった違和感。彼女の机と椅子が倒されていた。机の中にだらしなく突っ込まれたプリントには足跡。

……先生が来るまで、このままにしておこうか?唯はそう考える。だがその考えはすぐに彼女の選択肢から払い落とされる。プリントの足跡を払うよりも素早く。

同情を求めるな。唯は何も言わずに机と椅子を助けおこし、プリントの山をかき分ける。

何か濡れたものに手が触れる。さっきの教科書だった。氷が再び喉に詰まる前に、唯はそれを鞄から取り出したビニール袋に入れる。

それからは繰り返し。

授業中は消しゴムの的。

机を離れれば倒されたりなくなってたり。

昼食は半分も食べられなかった。クラスメートがわざとらしく机にぶつかって邪魔をするから。もっともそうでなくとも、食欲なんてとうに失せていたが。

……ごめんね、憂。

放課後。唯は鞄とギターケースを片手に音楽室とは逆の方向に歩き出す。ケースはチョークの粉まみれだ。……ギー太に手出しされてないだけマシか。

軽音部に顔を出す気はない。と言うより出す気になれない。

ひょっとしたら、私の前にムギちゃんが水道水の入った無機質なコップを置くかもしれない。あるいは何も置かないかもしれない。あるいは椅子が四つに減っているかもしれない。

……無断欠席、か。あずにゃんは怒るだろうな。軽蔑するかもしれないな。

いつもよりずっと早い時間に帰ったら、憂は何て言うだろう。自分は何て返せばいいだろう。

言い訳を考えておかなくちゃ。澪ちゃんに急用ができた。りっちゃんが風邪でダウンした。ムギちゃんが……

りっちゃん。

ムギちゃん。

「……っ、……っく、ひっく……」

彼女のダムはとうに崩壊していた。川は氾濫し、唯の目を水浸しにする。

泣くなんて、馬鹿みたい。

結局その日彼女は、ゲームセンターで夕方までの時間を潰した。プリクラの一台もなく煙草臭い、律と一緒なら決して入らないような店で。

慣れない格闘ゲームやアクションゲームに、際限なく硬貨を突っ込む。何人もの格闘家を火炙りにする。何人もの兵隊をマシンガンで撃ち殺す。

「あのヒト達」もこうしてゲームを楽しんでるんだろうな。唯はふと、そんなことを考える。

そうだ。あんなのはただのゲームだ。私がいじってるこの機械と同じ。私の髪に消しゴムが当たれば100点。耳に当たれば500点。

2000円が財布から消え、制服がすっかり煙草臭くなった頃にようやく退店する。

入り口で、自分と年がさほど変わらないであろう少年とすれ違う。すれ違いざま、ギターケースが少年の肩にぶつかってしまった。少年が舌打ちする。

少なくとも、私は透明じゃない。

唯は彼に感謝した。

それから一週間後。彼女の日常は全く別のものに変形していた。真夏の熱に曲げられた鉄道のレールのように。

授業中は千切られた消しゴムをやり過ごしながらノートを黙々と取る。休み時間はトイレや保健室。放課後はゲームセンター。

休み時間に鞄とギターケースを手にトイレに行く様は、さぞかし奇妙に映るだろう。唯は見られることを恐れていた。最愛の妹に見られることを。

軽音部に出席していないことは、まだ憂にバレていない。梓が報告すると思っていたのだが。

もしかしたら、律か紬か、あるいは他の誰かが口止めしているのかもしれない。それは彼女にとってつらいことだったが、同時にありがたいことだった。

放課後。その日も彼女は、音楽室とは逆の方向に歩き出す。

その日は頭の上に「うっかりしていた」クラスメートが黒板消しを落としていった。おかげで彼女の髪は妙に堅くなっていた。

まあ、お弁当に落ちなかっただけマシか。

今日も私のいおりんに会いに行こう。でもそろそろお小遣いがヤバくなってきたな。

……私の、だって。あはは、馬鹿みたい。

昇降口で、澪とすれ違う。この一週間、澪とは何度かすれ違った。澪はいつも彼女の方を見ていたけど、唯は気にも止めなかった。だってどうせ

「待てよ」

澪の声が聞こえた。だけどそれはどうせ私に向けられた声じゃない。だから聞こえないのと同じ。

……「どうせ」に力を込める自分が嫌だ。

「待てったら。唯」

自分の名前を誰かが口にするのを聞くのは久々だ。それは唯をひどく混乱させた。透明な水に落ちた青い絵の具のように。
唯は立ち止まり、澪の方を振り向く。澪は両手を腰にあて、少し怒った顔をしていた。

「どうして最近、無視するんだよ」

青い絵の具が唯いっぱいに広がり、かき回される。私をからかっているのかな?ゲームは次のミッションに進んだのかな?

唯は構わずに歩き出す。一日中ゲームにつきあってやったんだ。これ以上つきあってやる必要もあるまい。

「待てったら、おい!無視するなっての!」

澪が乱暴に唯の腕を掴む。そういえば、誰かに直に触られるのってずいぶん久しぶりな気がする。

「今日も練習に行かないのか?それくらいは答えろよ」

「行かないよ。当たり前じゃん」

当たり前。言ってから唯は失敗したと思った。彼女の頭の中で、この後の澪のセリフの予想が浮かんでは消える。

……何で当たり前なの?ねえねぇ、何で?もしかして自分がいじめにあってるとか思ってない?被害妄想なの?ねぇ、どうなの?ねぇったら……

「そっか、じゃあ私も行かないよ」

「……はぁ?」

「だって、唯だけサボるのってズルじゃん」

「ズルって……ベースは一人しかいないんだよ。わかってる?」

「ツインギターだって、一人欠けたらツインギターじゃなくなっちゃうよ」

唯の中の青い絵の具は、汚いカーキ色に変わる。何でこの人は、ここまで私を苛立たせるんだ。だいたい、私はもう一週間も他人と話なんかしてないんだ。察してよ。

「……勝手にしたら?別に私が決めることじゃないし」

唯は突き放すような、低い声で言う。その頃には彼女の声はずいぶんと低くなっていた。

毎晩枕を濡らしているせいかもしれない。煙草の煙に満ちたゲームセンターのせいかもしれない。


唯は靴を下駄箱から取り出す。それから、靴をひっくり返して中で待ち構えていた画鋲をばらまく。画鋲は怯えたネズミのようにあちこちに散らばる。

今日は画鋲と一緒に、手紙が何通か入れられていた。唯はそれを全部取り出し、封も開けずに屑入れに放り込む。

「おい、手紙じゃん。読まないのか?もったいない」

澪はまだ、彼女につきまとっていた。唯の頭の中に「うんざり」の四文字がでかでかと浮かぶ。

「……読みたいなら、どうぞ」


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