純「梓…」

梓「え、何…」

私は泣いていた。


人間は誰しも皆感情を持つ。

外的な世界だけで無く、内的な世界に対しても。

それは深い深いものだ。

『その中身を私にも教えて頂けないだろうか?』


普通の人はその内3割を言葉に出来るか。

それを得意とする人は5割ぐらいは言語化出来るかも知れない。

その全てを言語化出来ないからか、その抱く感情の中身ゆえだろうか。

それとも自分を取り巻く世界のせいだろうか?

人はいつしか感情を忘れる。

でも、その曲は私に感情を想起させた。

その曲は冷え冷えとしていた私の心に温もりを届けたんだ。


梓「この曲は…?」

純がスリーブを放ってよこす。

その白いスリーブには大きくプロモオンリーの文字が印刷されており、
曲名とレーベル名とアーティスト名だけが印刷されたステッカーが遠慮がちに貼ってあった。

レーベル名はHTTレコーズ。

アーティスト名は平沢唯。


梓「え、あ…?」

純が座り込んだ私の肩に手を置く。

純「これからどうして行きたい?」

答えるまでも無いよね。

純「で、連絡取るの?」

梓「よしてよ。そんなの向こうだって求めて無いでしょ」

純「じゃあ、どうすんの?」

梓「向こうから連絡が来る様にすれば良いんだ。私、曲作るから」

そうだ、当然の事だけど、自分でも何かしなければならないんだ。

純はやれやれと言う感じの反応。

ふん、その内驚きでグレイス・ジョーンズのSlave To The Rhythmみたいな表情になるようにしてやるから。

私はいつも使っているバーにバンドメンバーを呼び出した。

梓「お久し振りです」

ベース「うん、仕事はひと段落着いたんだ?」

梓「ええ」

ピアノ「そっか、良かったね」

ドラム「じゃあ、またライブもやって行けるね」

梓「あ、あの、これからの活動に関してなんですけど…」

ドラム「おー、熱心」

ベース「ライブ出来なくて欲求不満が溜まってたりして」

ピアノ「デリカシー無いぞ」

ベース「うは、ごめんね、中野さん」

私はこの人たちを頼りにしなければならないと言う事実に少し陰鬱になるとともに、
この人たちが提案を了解するだろうか、と不安にもなる。

梓「いえ…」

ドラム「で、どうする?今まで、大体一月に一回だけだったけど、回数増やしたいとかそう言う感じ?」

そう言う事じゃない。

そう言う事では無いんだ。

梓「あ、あの…」

---

深海に落ちて行くような感覚。

息が苦しい。

私は魚人間になる。

深呼吸しろ。

水を吸い込め。

えら呼吸で生きていけば良い。




梓「ライブじゃなくて、その、レコーディングして見ませんか。
それで、どっかのレーベルに送ったりって…、駄目…ですかね」

ピ、ベ、ド「ん?」

三人が一様に驚いたような顔をする。

ドラムはちょっと呆れたような表情で、それから可哀想なものを見るように。

ベースは少しの嘲りを含んだ表情に。

ピアノは困ったような表情で私に言い聞かせるように。

ピ「いや、うん。一つの方針としては良いんじゃないか?
でもさ、今の日本で僕らがやってるような音楽がどれぐらい流通してるかって、中野さんは分かってる…、よね?」

昔のようにピュアにそのジャンルを追及出来る状況じゃないって事が言いたいの?

でも、世界にはあるジャンルでちゃんと過去に対するリスペクトを持ちながら、
現代に耐え得るものを作っている人たちもいる。

そう言うものはちゃんとあるのだ。


ベース「もしかして、『クラブ』ジャズみたいな感じで、って事かな」

ベースが少し嘲るようなニュアンスで語り出す。

お前は黙ってろ。

ベ「DJ的だか何だか知らないけど、そう言う切り取り方って逆に先人に対するリスペクトが無いし、ちょっと、中野さんの考え方には賛成出来ないなあ」

偏見に満ちた通り一辺倒な解説ありがとう。

返しはこうだ。


ジャズとは何か?

知るか!

ハッ!

ジャズとはコーンフレークに入ってる塩漬け豚だ。

ジャズとは何か?

知るか!

ハッ!

ジャズとは風呂のベルだ。

ジャズとは何か?

知るか!

ハッ!

ジャズとはトイレットペーパーで巻かれたジョイントだ。


ド「中野さんには悪いけど、ウチはライブ感を追求したいし」

うるさい。

私は何でこんな奴らが頼りになるなんて思ってたんだ?

何でこんな奴らと何かをやろうとしてたんだ。

純への対抗心?

もう我慢出来ない。

ただ、私は…。


梓「ジャズだけって、それはそれで素晴らしいものかも知れないですけど…」

私は、息を大きく吸い込む。

深海へ潜るために。

梓「それ、ちっとも格好良く無いですよね?楽しく無いですよね?少なくとも私はごめんです」

私は呆気に取られているメンバーを尻目に駆け出す。


---


私は、この人たちとは違う世界に生きるんだ。

サラバイバイ。



結局、純に頼る事にした。

持つべきものは親友だ。

純「で、どうするの?」

梓「機材を貸して頂けると…」

純「どんな感じの曲作りたいとか、もうはビジョン出来てるの?」

梓「いや…、まだ…」

純「機材の使い方は?」

梓「それも教えて頂けると…」

純は大きくため息をつく。


いや、そう言う態度は傷付くんだけどね、こっちが悪いのも分かるけど。

純「じゃあ、合宿でも組みますか!」

梓「は?!」

純「だって、私二週間後にって事で、友達にリミックス作業頼まれてるし」

な!?

純「だから、作業追い込みで、梓に教えてる暇とか惜しいし」

にゃっ?!

純「私がやる作業の一部始終を見てるのも勉強になるよ!」

梓「随分とスパルタ方式のような…」

純「何か言った?」

梓「いえ、何も…」

純「そうだ、ついでに会社も休んじゃえ!一週間ぐらい」

結局、私は三日だけ有給を取った。


高校時代私はとても熱心に音楽をやっていると自認していた。

実際、先輩達の音楽の取り組みには何時もイライラさせられていたものだ。

だけど、それはとても一面的な音楽への取り組みでしか無かったのだと、純の作業を手伝っていると感じさせられた。

でも、そんなのはささやかな挫折に過ぎない。

自分の頭の中で鳴り響く音を一人で形にする事。

音楽を構成する要素をどう組み合わせ、どうシンクロさせるか。

それはこれまで漠然としか捉えていなかった部分であり、
それこそが今私がしなければならない問題なのだ。


例えば、今私が唯先輩の前にノコノコと顔を出して、これは凄く図々しい言い方だと理解出来るのだけど、
「うん、一緒にやろう」なんて唯先輩が言ってくれたと仮定する。

これはそれ自体凄く幸福なことだ。

だって、またあの魔法のような時間を生きる事が出来るんだから。


でも、きっとそこで待っているのは、
『中野梓は何の実力も無いくせに、平沢唯に上手くくっついて音楽が出来る振りをしている』なんて言う、
現状ではそれを否定する事が出来ないような周囲の評価だろう。

だから私は、そんな声が出て来ないように、予め奴ら掃討しておくようなチャレンジをしなければいけないんだ。

繰り返されるちょっとした焦り(つまり思うように音を捉えられないこと)の中で私は音を形にしようと苦闘していた。

時には、自分の楽器の経験が邪魔をする事もあった。

これは唯先輩の二枚目以降のジャンルレスな別バージョンを聞くたびに、
一から構想を練り直さなければならなくなる事と大きく関係していて、本当にきついことだった。


私の生活サイクルは激変した。

仕事、純の家に直行、作業。

純の家から出勤。

純「おやすみなさい」

梓「じゃあ、私は行って来るから」

まあ、こんな形で生活自体は重ならなかったんだけどね。


そんな生活を続けた結果、二ヵ月後に何となく形を掴めるようにはなっていた。
(純の助けが大きかったなんて絶対言わないけどね)

リズム、ベースライン、コード、ギミック、自分が出したい雰囲気。

私は仕上げとして、唯先輩の曲を聞いて受けた衝撃を、あの魔法の何分の一かでも再現出来たらと言う願いを、
再び自分はこの世界に戻るのだと言う決意を、そう言う色んなソウルを注ぎ込むようにギターを弾いた。


もう、今日の仕事のことは考えられなかった。

そのままミックス作業に突入。

既に、朝と言うよりは昼と言った方が良いような時間になる頃、最後の作業は完了した。

曲を聴き直すことも無く、私はベッドルームにフラフラと入っていくとそのままベッドに倒れこんだ。

私の身体の下で、毛玉が何か『フギャッ!』と言う音を立ててたけど、私は疲労の方が勝って、そのまま眠りに落ちた。


梓「ああ、もう夕方かぁ…!?」

私は目を覚まし、そして自分の目の前にある渋い顔をした純に驚く。

梓「何で、純?」

純「そこから?!」

梓「え、だって…」

純「私が寝てたら、梓が倒れこんで来て、そのまま爆睡した。
私はまったく眠れなかったけど、優しい私は『梓作業で肉体精神両面ともが疲れてるんだろうなー、
もちろん私も疲れてるんだけど』なんて思って、今、梓が起きるまでこの姿勢を保持してたから」

梓「何か恩着せがましい…」

純「いや、これぐらい許されるでしょ。それより、も…」

ん?

純「早くどけー!!」

うわわっ?!


---


純「で、早く聞かせてよ」

…。

純「早く」

梓「恥ずかしい…」

純「は?」

梓「いや、だから…」

純「はぁ…」

分かってるよ。

こんなとこで恥ずかしがってるようじゃ駄目って事は。

で、でも、助走期間だって必要でしょ?

何事もソフトランディングが重要と言うか。

梓「あ、あの…、取り合えず、隣の部屋にいるんで…」

純は少し呆れたような顔になる。

純「ばーか」


私はソファでサードを抱いて、純が部屋から出て来るのを待っていた。

少し長めの曲だけど、幾らなんでも30分と言うのは長過ぎ無いか?

あまりにへぼいから、私にどう言う言葉を掛けたら良いか分からなくて…。

ああ!そんな事ある訳無い!

とは、言い切れないからね。


---


梓「あ…」

純「感想は聞かないの?」

梓「どう…、でしたでしょうか…」

純「うん、良かったと思うよ」

イエィ!

純「色々拙い部分もあるけど、それも味でしょ」

梓「それ褒めてんの?」

純「うん」

梓「あんま、そう聞こえないんだけど」

純「私は作曲を専門に勉強した訳じゃないし、ミュージシャンと言う訳でも無いからね。それに、聞き方はどうしても一般的な人とは違っちゃうから」

…。


純は少し困ったような顔をして、それから私の肩に手を掛ける。

梓「純…?」

純「でも、それでも、感情を喚起するものはあったから!」

痛い!

痛いよ、純。

純「だから、だから…、これ送ってみなって!」

梓「う、うん…」

ひょっとしたら、これは自分の望んでいたレベルのものでは無いかも知れない。

完成した時の高揚感が私を満足させたのでは無いかと、少し怯えながら再生する。

そうでは無かった。

魔法はちゃんとそこにあった。

まだ、辿々しさの残る稚拙なものかも知れないけど、そこにはあったのだ。

私は言葉に出来ない愛しさを感じて何かを抱きしめたくなって、でもドアのところに立っている毛玉に抱きつくのはどうかと思って…。

でも、結局純に抱きついた。

梓「純ーっ!」

純「よしよし、良く頑張ったねー…」

私はレズでもバイでも無いつもりだけど、こう言う感覚になる事って時々あるでしょ?

それに、純は親友だし…。

おかしくないよね?

ないよね?


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