「一体何がしたいのさっ」

あ、思わず口に出てた。
それまでわたしから目を逸らしてりっちゃんがビクッとしてこっちを向いた。
これじゃりっちゃんの思う壺だと思いながらもスイッチが入ってしまうと止められない。
湯呑みをテーブルに叩きつけながらわたしはもう一度叫んだ。


「一体何がしたいのさっ」

「落ち着けよ。目が据わってるぞ」

これが落ち着いていられるかっ、
…と言ったつもりが舌がもつれて意味不明な言葉になった。

りっちゃんはわたしからまだお酒の残った湯呑みを取り上げると、
新しい湯呑みにウーロン茶を注いでわたしの右手に持たせてまたそっぽを向いた。

わたしは右手をそのまま振り上げて、りっちゃんに向けてウーロン茶をぶっかけた。


りっちゃんは、うわっ、と小さな声をあげてこっちを見た。

「やっとこっち見たね」

「…」

「何かわたしに言うことあるでしょ」

あーあ。聞いちゃった。
向こうから話させようと思ってたのに、やっぱダメだった。

「…わたし、人生の岐路をあやまったよ」

「は?」

「…今日は人生のしょーねんばだったのに」

「どういうことだよ」

まーた澪ちゃんに怒られる。憂はどう思うかな。
怒るかな、泣くかな。呆れて何も言わないかもね。

「もういいや。寝よ。明日も早いでしょ」

「待てよ」

「もう待ったよ。もうじゅーーーぶん待ったよ」

「ごめん。言い出せなくて。言わなきゃと思ってたんだけど」

「何。早く言って」

「わたし…




 中国に行くことにした」




え?



「ごめん、意味がよくわからないんだけど」

「ああすまん。つまり…転勤、つーかなんつーか。前から声はかけられてたんだけど、いい機会かと思ってな。上海に行くことになった」

「いつ」

「来年の春」

「帰ってくるのは?」

「わかんね。2、3年で帰るはずが、ずっと向こうにいる人もいるし」

りっちゃんはわたしから目を逸らさなかった。
それなのに今度はわたしが目を逸らしてしまった。

酒瓶から湯呑みに、残りをすべて注いで一気にあおる。





「この2ヶ月いろいろ考えた」

わたし達のまわりはみんな大人になっていったろ。
学生時代みたいに同じ服を着て、同じ場所に通って、毎日はしゃいで遊んだ友達も、
今はそれぞれみんな“立派な”大人になった。
変わらない気分なのはもう、わたし達ふたりだけじゃん。

こうしてわたし達ふたりでつるんでバカやって、
昔のまま何にも変わらないつもりでいたし、それが楽しかったし、実際そうだったと思う。
ずっとこのままででいたかったけど、一生そういうわけにもいかないんじゃねーかって…

りっちゃんは湯呑みをぎゅっと握ったまま、訥々と語った。

「唯が結婚する、って聞いてさ。
 わたしも変わらないと、って思ったんだ」

「海外赴任、ってことは栄転じゃん。すごいねりっちゃん」

「ハハ…ところがそーでもねーんだな。
 ウチの会社、今や中国よりも東南アジアの方に力を入れ始めてるからな。
 出世コースってわけじゃないんだな、これが」



どうだろう。
りっちゃんはさ。きっと自分で思ってるよりゼッタイ優秀なんだと思うよ。

元気だし、場を盛り上げてまわりを楽しくするの得意だし、人の気持ちがわかってやさしいし、誰かのために一生懸命になれるし。
りっちゃんの明るさが、きっとみんなを幸せにしてる。そうに決まってる。
りっちゃんの頑張りはちゃんと評価されてるんだと、わたしは思う。そうじゃなきゃおかしい。

ま、頭は悪いけどさ。おバカだけどさ。いい年こいて“瓦”と“かわらけ”間違えてるけどさ。




でも…話を整理すると、これはサヨナラのための旅行ってことになるんだろうか。
高校時代から続いたわたし達の関係が、もうすぐ終わりを迎えようとしているんだろうか。

「今までみたいに毎日顔合わせることはできなくなるけどさ。
 一生の別れ、ってわけじゃねーし。どこにいてもわたしはわたし、唯は唯だろ?」

そう言ってりっちゃんは笑って見せた。
笑顔がうそっぱちだってすぐにわかった。
だって、ニッ、っていうわたしの好きなやつじゃないもん。
それなのにわたしも、うその笑顔で応えてしまった。ニッ、ってなってないやつ。




少しづつさ。歯車はズレていくんだよ。
何にも変わってないつもりでも、生活が変われば人は少しづつ変わっていくんだよ。
そうして長い時間が経ってから気付くんだ。
ああ、昔とは違うんだ、って。

いいとか悪いとかじゃない。
仕方のないことだってわかってる。
昔に戻りたいってわけでもない。ただ…

たださみしかった。

なんか急にいろんなことを思い出してきちゃって、さみしくなった。




「りっちゃんは、
 結婚とか考えてないの?」

「結婚かー…中国でいい人見つけられたらな」

「そーいやりっちゃんって浮いた話ないよね」

「まーな。だってわたし、彼氏とかいたことねーし」

「え? ウソ? マジで?」

「マジだよ。だから唯にそんな話一度もしたことなかっただろ?」

そうだ。
そういえばそうだ。言われて初めて気がついた。
いっつもわたしの恋バナばっか積極的に聞いてくるくせに、りっちゃんの恋バナをちゃんと聞いたことがなかった。
恥ずかしがってごまかしちゃうか、モテないモテないってその繰り返しばかり。








「…好きな人とか、いないの」

「好きな人かー」

「案外、ずーっと想ってる人がいたりして」

わたしの冗談には耳を貸さず、
りっちゃんは湯呑みに残ったお酒をクッとあおり、横を向いて大きく息を吐いた。

綺麗な横顔だった。
ほんのり桃色に色づいた頬から、視線が離せなかった。

…モテないわけない。
りっちゃんに、男の子が寄ってこないわけない。
いくらで付き合うチャンスはあったはず。
それなのに…




「好きなタイプは?」

「なに? なにこれ? 中学生みたいなこと聞くなよ」

「いいから答えて」

そうだなぁ…と目を閉じて腕を組んで考える。

「えーっと…な。わたしの好みのタイプは………っとその前にトイレに…」

「逃げないで。早く言ってよ」




どうせウケ狙いで有名人の名前とか言い出す気だろう、
そんなこと言ったら、お尻に敷いてるサブトンで思いっきりはたいてやろうと右手で端を掴もうとした瞬間、りっちゃんが大きく目を開いて言った。




「唯」

「え?」




「だから唯だってば」

冗談にしてもそう出られるとは思っていなくて、掴んだサブトンの端から右手が離れた。
はたくタイミング、なくしちゃった。




「話は合うし、一緒にバカやってくれるし、わたしのことわかってくれるし、楽しいし」

指を折りながらりっちゃんは喋り続けた。
顔が赤いのはアルコールのせいか、照れているからなのか。

いや、照れ屋のりっちゃんのことだ。冗談でもめちゃくちゃ照れ臭いに決まってる。
早くツッコんであげたほうがいいかな。

でもわたしは、黙ったままりっちゃんの言葉の続きを待った。




「もし…もしも、の話だけど、わたしか唯のどっちかが男だったら、とっくに唯にプロポーズしてたかもな。
 あ、これ昔似たよーなことムギに言われたっけ?」

「…かんけーないよ」

「ん?」

「男とか女とか」

「…え?」

「今のほんと?」




「…あ、ごめん。つまんないこと言って。
 わり。わたし、トイレ」

そう言って立ち上がったりっちゃんの浴衣の裾をグッと捕まえた。
酔ってるせいもあってか、つんのめったりっちゃんがドスン、と倒れて布団の上に転がった。

「いってー…おいコラ、なにすんだよ」

「ねぇ、答えて。さっきの本気?」

「怒ってんのか? 悪かったよ、変なこと言って」

わたしは立ち上がろうとするりっちゃんがの上にまたがると、両手で肩を掴み上半身を押さえつけた。

「お、重い…それに足、浴衣めくれてる。パンツ・・・丸見え」

りっちゃんは抵抗しようとするけれど、両肩を押さえつけられて立ち上がることができない。




「さっきの」

「・・・」

「うそなの?」

「・・・」

「ほんとなの?」

「・・・」

「答えて」

「・・・」




りっちゃんは黙ったままなかなか答えてくれなかった。
だけど目を逸らそうともしなかった。だからわたしは待った。
待つのは慣れてるつもりだから。
神戸にはいかなかったけど、むしろこっちの方がしょーねんばだった。




5分? 3分? 1分?

いや、30秒かもしれないし、10秒…いや5秒くらいだったかも。




時間の感覚がわかんなくって、それは永遠みたいに長く感じた。
その間心臓はドクンドクン鳴りっぱなしで落ち着かない。




大きく息を吸って、吐いてを繰り返す。
狭い部屋の中に、わたしの呼吸音だけが響く。
今いる場所が高い山の上みたいに酸素の薄いところに思えた。




りっちゃんが息する音が聞こえない。
だけどもふたり、見つめ合ったまま。

りっちゃんのしっかり開かれた瞼の内側から、薄く透明感のある瞳がわたしを射抜いていた。




「ほんとうだ」




そしてたった一言。

その一言で今までわたしの内側にまとわりついていたものが全て洗い流されていくのがわかった。




「いいよ」

「いいよ、…ってなにが?」

「わたしでよければ」

「それって…えっと…」




「結婚しようよ」



見つめあったまま時間が止まる。

りっちゃんが小さく頷くのが見えた。

けれどわたしが覚えてるのはここまで。

なぜならそのあと、飲み過ぎが祟ったのか、マウントポジションのままりっちゃんの顔に盛大にゲロをぶちまけて、倒れちゃったから。

布団やら浴衣やらなんやらは全部りっちゃんがひとりで片付けてくれたらしく、次の日は朝食も取らず早々に荷物をまとめると、冷たい視線を投げかけてくる仲居さんにペコペコ頭を下げながら、二人で宿をあとにした。後日請求されたクリーニング代は想像以上だったけど、こういうときのために小金を貯めてきてよかったな、と二人、頷き合った。

★★

「別れたって本当か」

二児の母になったばかりとは思えない鋭い目つきがわたしを睨んでいる。

「まぁその、ね。ちゃんと先方には断っておいたから。
 ごめんね。いろいろ骨を折ってもらってたのに。うまくいかなくて」

「相性、っていうものがあるからうまくいかなったこと自体は仕方ないよ。
 でもな、その理由だよ」

昔に比べてスレンダーに見えるのは、大きく膨らんだお腹が元どおりになったせいなのか。
一緒に歩いてるとちらちら男の子たちの視線が鬱陶しいのは昔から変わらない。
今も向こうの席の男子高校生たちがこっちを見てはひそひそ何かを話してる。
とても30半ばの子持ち人妻には見えないんだろうなー、澪ちゃん。



「おい、聞いてるのか」

「ああ、ごめん聞いてるよ」

「この先…どうするつもりなんだよ」

「だから言ったじゃん」




仕事をやめて中国に行く。
りっちゃんと一緒に。
もう一度繰り返すと、澪ちゃんは理解不能だといった感で大げさに頭を抱えてため息をついた。

「だーいじょぶだってばぁ」

「何が大丈夫なんだよ…言葉は? 中国語しゃべれるのか? 仕事は? どうやってお金稼ぐつもりだ? 律だってずっと向こうにいるわけじゃないだろ。日本に戻ってくるときはどうするんだ? ご両親にはなんて言ったんだ? 憂ちゃん心配してたぞ。それに…」

ふんふんと鼻を鳴らして話を聞く。
前まではあんなにムカついた物言いにもちっとも腹が立たなかった。




「はぁ…疲れた」

明日東京に帰る、って言ってたよね。そんなに疲れて大丈夫? 帰れる?
言いたいことを言うだけ言い切ったからか、澪ちゃんはもう一度大きくため息をついて、ミルクティーを一気に飲み干した。

「それだけ喋ったら喉乾いたでしょ? なにか頼む?」

「お前な…いや、もういいや」

「呆れた?」

「限界を通り越した」

「そっかぁ」

えへへ、と笑いながらVサインを作ると、澪ちゃんは今日はじめての笑顔を見せてくれた。




「唯さ。聞きたいことがあるんだけど」

「なーに。パフェおごってくれたら答えてあげる」

「いや…おごらなくても答えてくれよ」

「内容によるねー。内容によってはデラックスパフェ」

「自分の年齢考えろよ。吹き出物できるぞ。自重しろ」

「いてっ」

澪ちゃんがかるくわたしの頭にチョップした。




「…あのさ」

澪ちゃんの表情から笑顔が消えた。

「唯、律のこと、好きなのか?」




その言葉の意味するところはきっと、普通の友達同士の“好き”じゃない、っていうのは澪ちゃんの顔を見ていればすぐにわかった。

「んー…よくわかんない」

「ごまかすなよ」

「ごまかしてないよ。本当によくわかんないんだ」




人を好きになる、という気持ちがわたしにはよくわからない。
りっちゃん、澪ちゃん、ムギちゃん、あずにゃん。和ちゃん、憂、さわちゃん。お父さんにお母さん。
もちろんみんな大好き。けいおんもギー太も大好き。
大切だと思える人はたくさんいる。大切だと思えることもたくさんある。大好きなものはいっぱいある。

でもたぶんそれとは違う“好き”があるみたい。わかるんだけどわからない。




何人かの男の子とも付き合ったこともある。
手をつないで、キスをして、抱きしめあって、セックスをして。
一緒にいて楽しくて、安心できて、ああこれが“好き”ってことかな、って感じたことはある。

でも気がつくといつもダメになってる。わたしから別れを切り出しことは一度だってない。
いつの間にかあんまり会わなくなって、そーいや最近会ってないや、とか思い出した頃、相手から“他に好きな人ができた”とか言われる。特になんとも思わない。そういうもんか、って思うだけ。


学生時代は他に楽しいこともたくさんあったし、働きだしてからはりっちゃんと遊んでばっかりだったし、彼氏がいたらいたで楽しいけど、いなくてさみしいと思ったことなんて一度もない。

誰かに会いたくて、そばにいて欲しくて、耐えられなくなったことなんてない。
その人のことばっかり考えて、頭の内側に貼り付いて離れなくって、ぐるぐるぐるぐる回り続けて、心臓がきゅ〜って苦しくてたまんない…なんて今まで経験したこともなかった。

だからわたしはひとりで生きていける。
ひとり、っていうか彼氏とかいなくても、って意味ね。そう思ってた。でもね…



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