階段の先を見上げると、暗闇に雨粒が光って見えた。
地下鉄構内を出て地上に上がる。パラパラと降っている弱い雨。
同じ電車から降りた人たちは、次々と傘を開いて駅を出て行った。
あちゃー。朝、家を出るときは降ってなかったのにな。
天気予報はいつもロクに見ていない。
毎朝テレビをつけてるはずなのに、こういうことばっかり。
見ているようで肝心なことを見ていない。いつまで経っても成長しない。
ま、こんなこともあろうかといつも折畳み傘を入れっぱなしにしてるんですけどね!
してるよ成長、これぞ大人の証。
いぇい。勝利のぶい。
…
……あれ。
………ない。
しまった。
思い出した、昨日バックの整理をしたっけ。
ああそーいや今日はイヤに肩が軽い気がしたんだ、と途方に暮れて夜空を見上げると、
イエローの水玉模様が現れた。
「傘、持っていかなかったろ」
「お、気が利くね〜。りっちゃん隊員」
わたしは、ニッ、と笑顔を向ける。
「まぁな。唯隊員のことだからゼッタイ傘忘れてるって思ってな」
りっちゃんも、二ッ、と笑顔で応えた。
わたし、このりっちゃんの笑顔、好きなんだよね。
持つべきものは折畳み傘より頼りになるともだち。
いぇい。勝利のぶい。
「今日の戦果は?」
「上々なら雨の夜にひとりで帰ってくるわけないじゃん」
合コンのあった日、りっちゃんは必ずその日の首尾を聞いてくる。
わたしが苦い顔をしたときほど、好奇心満々で嬉しそうな口調のりっちゃんに、つっけんどんな返事をする。
ちいさな雨粒が傘に当たってぱらぱらと音を鳴らしていた。
「そりゃそうだ」
「まったく見る目ないよねー、こんな美女をほっとくなんて」
「美女、ねぇ…美女以前にねぇ…」とりっちゃんが渋い声を出す。
「何が言いたいのさ?」わたしは尖った声で答える。
「いつも言ってるだろ? いくら誘われたからって、三十路過ぎが二十代前半に混じって合コンはキツイ、って」
傘の下からりっちゃんのいじわるな笑顔が覗いた。
楽しそうな声だ。わたしがモテない話をするといっつもこんな調子。りっちゃんのクセに!
りっちゃんめがけてくるっと傘を回すと、水滴が四方に散らばった。
りっちゃんは傘を倒して飛沫を防ぐ。ちぇ。
別にそんなモテないわけじゃないし。彼氏だってちゃんといたことあるし…ここ三年はご無沙汰だけど。
大体りっちゃんも人のこと言えないじゃん! たまには浮いた話のひとつでも聞かせてみなよっ!
「アラフォーのりっちゃんに言われたくないよっ」
「お前もあとちょっとで四捨五入すりゃ40だろが」
「ふふん。今夜は“24”って言ったら、だぁれひとり疑う様子すらありませんでした!」
りっちゃんは呆れたように大きくため息をついた。
「…10はサバ読みすぎ。つか、バレてたからダメだったんじゃねーの?」
「どーだろ? ま、いーんだよ。いい男を後輩ちゃんに譲ってあげるのも先輩の役目じゃん」
「はいはい」
合コン後はいっつもこうやって反省会。けれどその反省が次回に生きた試しはございません。
ま、いーけどね。くるくると傘を回しながら歩く。
水が飛ぶからやめろって、と言うりっちゃんを無視して、傘を回しながら歩いた。
玄関先から灯りが漏れている。
駅から家まで、歩いて五分。走れば三分。傘がなくてもなんとかならなくもない距離だけど、秋の夜寒を雨に打たれて風邪でも引いたら元も子もない。ありがとね、りっちゃん。
わたしとりっちゃん。
大学卒業後、地元で就職したのはけいおん部の中でわたし達二人だけ。
りっちゃんは毎日のようにウチに遊びにやってくる。
ウチの憂やりっちゃんとこの聡君が結婚してからは特に。
先に帰った方が料理作って待っていて、二人揃ったらお酒飲んでお風呂入ってそのまま寝て起きて出勤。
その繰り返し。
気分は学生時代そのまんま。独り身の女二人、気楽でいいね。
閉じた傘をふるふると振って雨粒を飛ばし、閉じずにそのままドア横に立てかける。
「今日は豆乳鍋だぞ。今夜はちょっと寒いし」
同じようにりっちゃんもふるふると傘を振って雨粒を飛ばし、ドア横に立てかけた。
「ありがと。悪いね、いつも」
「いーえ。こちらこそ。今日は早番だったからな」
りっちゃんが仰々しく頭を下げてみせる。
その拍子にわたしの赤色の傘がツーっと倒れて、りっちゃんの黄色の傘に寄りかかっていった。
扉を開けば発泡酒がずらっと並ぶ冷蔵庫。
「そういえばさぁ、澪ちゃん帰ってきてるって?」
たまにはちゃんとしたビールを飲みたいなぁと思いながら、発泡酒を手に取る。
酔ってしまえばなんだって一緒だもん。でもメーカーにはこだわるけど。
「あー、そうだっけ」
「もうすぐなんでしょ。澪ちゃん、二人目」
「あー、そうだっけ」
ぷしゅっと小気味よい音がキッチンに響いた。
テレビは、日本人テニスプレーヤーのなんとか大会決勝進出にはしゃいでいる町の人たちの様子を映していた。
この人、確かまだ二十歳そこそこだよね。立派だなぁまだ若いのに。わたしには関係ないけど。
「久しぶりに会えないか、って連絡きたんだけど」
「へー、そうなの」
りっちゃんはソファーに寝っ転がったままテレビに見入っている。
切り替わった画面に映る女子アナ。美人だけど、最近ではみんな似たような顔ばかりに見えて、誰が誰だかよくわからない。
りっちゃんがチャンネルを変えた。
「お。ムギんとこの会社。また株あがってる」
「ふぅん。景気いいんだ」
数字ばかりずらずら並んでいる画面を見ても何一つ面白いと思えない。
今後どれだけ歳を重ねても、こういうことに興味を持つ自分は想像できないなー。
りっちゃんは案外そうでもないらしく、たまーに日経とか読んでる。
一度教えてもらおうとしたことがあったけど、全く意味がわからず余計イヤになった。
とりあえずムギちゃんの会社の株価がやたらと大きな数字だったことだけは憶えてる。
結婚式豪華だったもんなぁ。政治家とか芸能人とか、人間国宝まで来てたし。
ムギちゃんの結婚式。
あまりに大きく広すぎな会場、わたし達はその隅っこに四人固まって座った。
宮殿のような会場にはじめはテンション上がりまくりだったとわたしとりっちゃんも、知り合いがわたし達以外には誰もいなくて、あとは琴吹家関係のアッパークラスの人たちばかりだと気付いてからはずっと大人しくしてた。
澪ちゃんとあずにゃんは初めから緊張でガチガチで、澪ちゃんは自分の格好が場違いじゃないか何度も何度もわたしに尋ねてきた(わたしに聞かれてもわかるわけないじゃん)。とにかく小さくちょこんと座ってご馳走を食べた。
真ん中の一番きらびやかな席に座るムギちゃんは、あまりに遠かった。
新郎新婦の席に近づこうにもいろんな人が入れ替わり立ち替わり挨拶に来てたせいでなかなか近づけない。笑顔を貼り付けていろんな人に頭を下げ、手を振るムギちゃんはムギちゃんじゃなくて「名門琴吹家のお嬢様」だった。
ムギちゃんの家庭環境からすれば、結婚はプライベートな出来事じゃなくて仕事の一環みたいなものだったのかもしれない。隣の新郎さんが優しそうな人だったのは救いだった。
結局ムギちゃんに声をかけられず、式が終わって四人、帰りに白木屋で飲んだ。
披露宴の料理はおいしかったけど、名前も知らない横文字のご馳走より、チェーンの居酒屋のホッケの方がわたしは好きだ。
それはきっとムギちゃんだって同じはずだ。
骨についた身を残さず余さず丁寧に箸でより分け口に運び、満面の笑みで頬張ってはハイボールのグラスを傾けた彼女のことを思い出していた。
みんなも同じことを考えてたんだと思う。
友達が、ずっとそばにいると思ってた友達が、実は全然別の世界の人だったって知らされて、
お祝いしなきゃいけないのになんだか寂しさの方がずっとずっと強くて、
四人で終電まで飲んだ。
『来てくれてありがとう。声かけられなくてごめんね。』
次の朝届いたムギちゃんからのメール。
今度また飲もうね、って返事をして以来、ムギちゃんとお酒を飲む機会はない。
作り物の笑い声が耳に入ってふと我に帰る。
いつの間にか番組が変わってた。バラエティになってる。
喉の渇きを感じて発泡酒に口をつけた。
お風呂上りの乾いた身体に、アルコールが染み込んでいく。
発泡酒はひと口目がいちばんおいしい。一日の最後のしあわせ。
株価がどうのこうのはわかんないけど、消費税が上がってビールが買いづらくなるのだけは実に困る。
ムギちゃんにお願いしたら、なんとかしてくれるだろうか消費税。
いや、ほんとになんとかなりそうだから怖い琴吹家。
「それでさ。りっちゃん、時間とれない?」
「なにが?」
「澪ちゃん」
「あー、そうだなぁ。考えとく」
テレビを消して、りっちゃんが立ち上がった。
「帰るわ」
「珍しいね。泊まってけばいいのに」
「いや、今日はやめとく。あんまり帰らないとうるさいからさ。親も、聡も」
「車で送るよ。雨降ってるし」
雨の音は聞こえない。
降っているかもしれないし、やんでいるかもしれない。
口に出して言ったことはないけれど、
りっちゃんが帰ると言ったときは引き留めるのはやめようと決めていた。
「ビール。飲んでるだろ」
「平気だよ。ひと口しか飲んでないもん」
「ハハ…だとしてもダメだよ。化粧落としちゃったろ? 人前に出られる顔じゃねーつーの」
「大丈夫だよ。眉毛だけ描けばなんとかなるよ!」
「そういう問題じゃねーって。自分の年齢わかってんのか?」
りっちゃんは軽く笑いながら部屋着のパーカーを脱いで丁寧にたたむと、コートを羽織ってバッグを手に取った。
「次、いつ来る?」
「明日はちょっと遅いかも」
玄関のドアを開けると、まだ雨がかすかに降っている。
どうせ毎日ウチに来るってわかってても、次はいつなのか必ず聞く。
「わたし、明日早番なんだよね。なんか作って待ってるよ」
「悪いな。また連絡する。それじゃ」
「筑前煮でいいかな」
「おっけー」
りっちゃんは左手の親指と人指し指で丸を作ってみせると、傘を広げて歩いて行く。
暗闇に姿が見えなくなるまで見送り、わたしは扉を閉めて鍵をかけた。
一人きりになると、時計の針の音がやけにうるさく聞こえるのはなんでなんだろう。
半分以上残った発泡酒を一気に飲み干すと、洗面所に足を向けた。
さっと軽く眉だけ描いて、じっと鏡の中を見つめる。
ほのかに赤らんだ顔をしたわたしがそこにいる。
ほら。いけるじゃん。
今日だって24歳でまかり通ったし、こないだ河原町で声かけてきたお兄さんには女子大生に間違われたし、街を歩けば未だにちょこちょこナンパもされる。
今日も仕事でポカミスやらかして、“平沢お前、新人みたいなミスするなよ”って上司に…
いろんな意味で実年齢よりはゼッタイ若いはずのわたし。
わかいわかい!
…
若さにこだわってる時点で若くないか。
…あ、小じわ発見。
げ、枝毛も見つけちゃった。
わわ、こんなとこにシミ出来てる…
毛穴が……うん。何も見なかったことにしよう。見なかった。なーんにも見なかった。
あんまり鏡に顔を近づけると、見たくないものばかり見つけちゃう。あーイヤだ。
お肌も人生も曲がり角。
平沢唯、独身、非処女、34歳(あともうちょいで35歳)。
★★
天井をぐるんぐるんとプロペラが回っている。
随分大きな窓から燦々と太陽が降り注ぐ、秋の午後。
昔よりちょっとだけ髪の短くなった澪ちゃんが、
「今日はちょっとあったかいな」と言いながらストールを外した。
「どのくらいだっけ」
「八ヶ月」
「あれ? あずにゃんの結婚式以来会ってなくなかった?」
「ああ、お腹のことかと思った。会うのは梓の結婚式以来だな」
澪ちゃんは笑いながら目を細めたけど、目尻に皺なんて全然ない。
陽に照らされてきらきらしてる黒髪は相変わらず綺麗で、
ゆったりしたグレーのマタニティワンピースがとてもよく似合ってる。
「唯は梓とは連絡とってるのか?」
「んーときどき。会ってはいないけど。ライブやらなんやらで全国を飛び回って忙しいみたい」
たんぽぽコーヒーを飲みながら、澪ちゃんは遠い目をして窓の外を眺めた。
「そっかぁ。すごいよなぁ、梓」
「放課後ティータイムの中から一人だけでもプロに出たんだからね」
ばんばんテレビに出たり、CDが売れたり、というわけではないと言っても、音楽で生計を立ててることに間違いないもんね。
わたしも一緒に注文してみたけど、別においしくもなければ不味くもないなぁ、たんぽぽコーヒー。
大学を卒業して一旦は一般企業に就職したあずにゃんが、本格的に音楽の道を目指して会社を辞めたのは働き始めて三年目のことだった。
あずにゃんは東京で働いてたから、その頃はもう全然会ってなかったけど、どんなに仕事が忙しくっても毎日ギター触ってたんだって。すごいね。わたし、卒業してからはろくにギー太、弾いてあげてない。
組んだバンドは放課後ティータイムと同じ五人編成。結婚相手は同じバンドのギタリスト。ギタリスト同士のカップルかぁ。
もし放課後ティータイムでプロ目指してたら、わたしがあずにゃんと結婚してたかもねー。なんちゃって。
「そっちの方は順調なの?」
「そっち?」
「お腹」
「ああ、最近よく蹴るんだよ。元気そのもの」
「そっか。今度もこっちで産むんだ」
「うん。最初と同じところの方が安心できるだろ。憂ちゃんもいるし。
上の子の面倒を親が見てくれるし、旦那といるよりもよっぽど助かるよ」
そう言って笑う澪ちゃんは、なんだか全然知らない人に見えた。
ゆっくりとお腹をさする。そういえば澪ちゃんとこの上の子の名前なんだっけ?
えーっと確か女の子で…ああ、スケート選手みたいな名前だっけ。好きなんだけどなぁ子供。でも顔も思い出せない。
憂は、国立大学の看護学科に進学した。
大学が離れ離れなのは寂しかったけど、憂が自分で考えて選んだ将来の夢を応援したかった。
そして大学卒業した後、希望を叶えて桜ヶ丘の病院の看護婦さんになり、数年してそこのお医者さんと結婚した。
ご近所さんだけど、家は別々。そりゃ結婚すればね。子供は一人。
そうそう。最近じゃ、憂と間違われることもなくなったなー。
「しあわせそうだね」
思わず口に出た言葉が、嫌味っぽかったんじゃないかと気付いたけどもう遅い。
「まぁ…それなりに」
澪ちゃんはあまり気にしてないみたいだった。と思う。たぶん。
「ところで唯。律のことなんだけど」
「なに」
澪ちゃんから笑顔が消えて声のトーンが下がる。
その瞬間、言われることになんとなく想像がついて、白けた気分で窓の外に視線を泳がせた。
「アイツ、あんまり家にも帰ってないんだろ。友達の家に入り浸りだって律ん家のオバさんから聞いてさ。唯のことだと思って。迷惑かけてゴメンな」
「なんで澪ちゃんが謝るのさ」
等間隔に植えられたイチョウの木は黄色と緑のグラデーションがかった色合いを見せている。
一昨日、昨日、今日、明日。
一日一日の変化は小さくて、何も変わっていないように思えるのに、
いつの間にか葉色はすべて黄色に変わり、
もうしばらくすれば落葉して歩道を全て黄色に埋め尽くす。
「え、あ…まぁ。ともかくあんまり甘やかさないで、言うときは言わないとダメだぞ」
「言うって何を」
窓の外から視線を戻して澪ちゃんを見た。
わざと素っ気ない口調で喋ったセリフの効果があったのか、ちょっと気圧されたのか、ひるんでつまらせながらも澪ちゃんは続けた。
「いや…帰る家があるんだからちゃんと帰れ、って。いつまでも学生じゃないんだから。いい大人だろ。アイツも」
「大人のすることにケチつけるのは大人のやることなの?
わたしはそうは思わないなぁ」
今度は明らかに不愉快な顔になって黙り込む澪ちゃん。
顔に出やすい性格も、怒ったら黙る性格も変わってないね。
とは言っても久しぶりに大事な友達と会ったのに、イヤ〜な感じになるのは耐えられない。
胎教?にもよくないだろうしね。
「わたしも親がドイツに行っちゃったし、憂も結婚したし、ずっと一人で退屈なんだよ。
ほら、ウチの方が駅に近くてりっちゃんも便利だって言うし。別に迷惑でもなんでもないよ」
「唯が良くても律にはよくないだろ」
「そうやって勝手にりっちゃんのこと決めつけるの、どうなのかなぁ」
ダメだ、我慢できない。
「…田井中のオバさんも聡も心配してる」
りっちゃん。来なくて正解だったね。
「聡くんが結婚してお嫁さんもいて子供もできて、りっちゃん実家に居づらいんでしょ」
「それじゃ、まるでオバさんや聡が律を追い出してるみたいじゃないか!」
前の席の女の子たちが、ぎょっとしてこっちを振り向いた。
わたしはヘラヘラと愛想笑いを浮かべて頭を下げてみせる。
「澪ちゃん、落ち着いて。別にそんなこと言ってるわけじゃなくて。
さっきも言ったけどもうりっちゃんだっていい大人じゃん。やりたいようにさせといたらいいんじゃないかな」
「そんなこと…お前ら自分の年齢考えたことあるのか?
これからの人生どうするつもりだよ。結婚は? 出産は?
先のこともロクに考えずにその日暮らしでブラブラしていい年になっても家族や友達に心配かけて…一人で生きてるつもりなのか?!」
別に間違ったことを言われてるとは思わない。
世間の人はみんなそう言う。
「大体律は就職を決めるときだって……」
「え、なに? りっちゃん就活は割と頑張ってたじゃん。内定もいくつか取れてたし」
「そうじゃない。最終的に地元に帰る、って決めた理由が……まぁいいよ、この話は」
あ、そ。
いや、こうしてはっきり口に出して言ってくれるだけ澪ちゃんは正直だからマシだ。
ほとんどの人はこういう“世間の常識”とぴったり寄り添った考えをしているくせに、
それをちっとも口には出さず、わたし達に理解のあるフリをしながら遠巻きにどこか哀れんだ視線を投げかけてくる。
「わたしはさ、律のことも唯のことも心配なんだ」
澪ちゃんの声がすっごく遠く遠くから聞こえる。
昔はすぐ隣からベースの音が聴こえてたのに。
「憂ちゃんもさ。すっごく心配してたぞ。唯が将来のことどう考えてるのかわかんない、って」
憂…そんなこと澪ちゃんに相談してたの。
直接わたしに言えばいいのに。そんなことも言えなくなってのかな。わたし達。
結婚して、子供ができて、別々に生活するようになったら家族じゃなくなっちゃうのかな。
憂。わたしは…それなりに楽しくやってるよ。
仕事もまぁ、失敗もするけどそこそこうまくやれてるし。
不安がない、って言ったら嘘になるけど、欲を言えばきりがないし。
憂や澪ちゃんや…他のみんなみたいに立派じゃないかもしれないけど。
「実はな、今日は唯に大事な話があったんだ」
よく見ると澪ちゃんの目頭が潤んで赤い。
これまでの会話のどこにそんな気持ちになるポイントがあったのかわたしには想像もつかない。
本気で心配してる? そう思うと心の中がどんどん冷え冷えとしていく。
フジツボに怯えて泣いていた、あの可愛い女子高生は今目の前にはいない。
「唯、結婚しないか」
あら? わたし、プロポーズされちゃった。
困っちゃうな。
あーなんか寒いや。
片手をあげ、店員さんを呼び止めると、ホットコーヒーをブラックで注文した。
最終更新:2015年11月27日 19:09