なぁ、律。覚えてる?
私は、覚えてるよ。
………
…………
「なあ、律」
「なんだ?澪」
「私たちもさあ…いつか恋人ができたり、結婚したりするのかな?」
「…なんだよ、急に」
「いや…なんか不安になるじゃないか。一生ひとりだったらさみしいなー…とか」
「大丈夫だろ、ほとんどの人が結婚できてるんだから」
「でも…」
「それに澪なら選びたい放題だろ。モテてたんじゃん、中学の時」
「自分の好きな人と恋人になれなきゃ意味ないだろ」
「…ま、そりゃそうだな」
「そうだよ。好きな人とじゃなきゃヤダよ」
「ん?待てよ。てことは…
…自分が好きになった相手も自分のこと好きじゃなきゃダメってことか?」
「…うん」
「…」
「…」
「それ、めちゃくちゃハードル高いだろ!」
「だから心配してるんだよ!」
「ああー!私ゼッタイ無理だ!恋人も結婚もできる気がしない!」
「私もだ…」
「だいたい私のこと好きになってくれる奴なんて…
…ホントにいるのかな…想像できねーよ…」
(そんなことないと思うけど…)ボソッ
「何か言った?」
「言ってない!」
「…はあ」
「…はあ」
「…」
「…」
「…じゃあさ、こうしよう」
「?」
「30歳になった時、お互いに恋人もいなくて結婚の予定もなければさ…」
「…なければ?」
「私たち二人で一緒に暮らそう!」
「縁起でもないこと言うな!」
30歳で未婚なんて、別に珍しくもない時代だけどな。
私は律の頭をはたいた。
それはいつもの光景だった。
そして、二度と戻らないしあわせな少女時代だった。
*****
1月14日。
この冬初めて降った雪が、生まれ育った町を銀世界に変えていた。
私は桜ヶ丘に帰ってきていた。
大学を卒業して以来、お盆とお正月にさえ帰ってくることがなかった、
久しぶりの故郷。
雪がどんどん降ってくる。
コートにマフラー、耳あてまでしているのに体が震える。
こんなに寒いところだったっけ?
まるで私の知らない町みたいだ。
母は迎えに行くと言ってくれたけれど、私は断った。
久しぶりの桜ヶ丘を、私は歩いて帰りたかった。
帰り道、少し寄り道をして懐かしい家の前で足を止めた。
ピンポーン。
インターホンを鳴らす。
このベルを鳴らすのは何年振りだろう?高校時代以来だから…
『はい、どなたですか?』
「あ、澪です。秋山澪です。お久しぶりです」
『澪ちゃんって…あの澪ちゃん!まぁまぁまぁまぁ久しぶりね!!今玄関開けるわね!』
ぱたぱたと家の奥から駆けてくる音がして、ガチャッと扉が開いた。
何年振りだろう。
久しぶりに会う田井中のおばさんは、相変わらず元気でキレイなままだった。
「うわぁ~澪ちゃん久しぶり!綺麗になったわねぇ…でもどうしたの、突然?」
「お久しぶりです。すみません急に来たりして…」
「何言ってるの、全然構わないわよ!何かあったの?」
「ちょっとこっちに帰ってくる用事があったものですから…律、いつも何時くらいに帰ってきますか?」
「最近忙しくしてるみたいだからね、今日もたぶん…帰ってくるのは遅いんじゃないかしら」
「そうですか…」
「ごめんね。もしかしてあの子、澪ちゃんと約束してた?」
「いや!違うんです。私も何も連絡してなくて…本当に急に帰ってきたものですから…」
「そう、悪いわね」
「いきなり顔見せてびっくりさせてやろうかなーって思って…また私の方から律に連絡してみます」
「家で上がって待っていてくれてもいいのよ?」
「いえ、でもウチで両親も待ってますから…じゃあ…」
「あ、そうだ澪ちゃん」
「はい?」
「お母さんから聞いたわよ。おめでとう」
おばさんはにっこりと笑った。
私はそれに応えるように曖昧に笑いながらお礼を言った。
律は去年の春、桜ヶ丘に帰ってきたらしい。
転勤で勤め先がこの近くになったそうだ。
元旦に届いた律からの年賀状でそれを知った。
私は律に会いに帰ってきた。
律に会うためだけに。
伝えなくちゃいけないことを伝えるために。
*****
どうやら私はまわりの人とはちょっと違うらしい、ということに気がついたのは、
大学生活も終わりに近づいた頃だった。
通っていた大学は女子大だったけれど、
高校生とは違い、さすがは女子大生。
恋人を持つ周囲の友人たちは少なくなかった。
恋愛?
私にとってそれはあくまで物語の中のお話。
自分から遠く離れたことだと思っていた。
私以外のけいおん部のメンバーも、大学に入りたての頃は私とそんなに変わらないくらいの意識だったと思う。
だって晶が高校時代の先輩とどうこう~、なんてレベルの話で盛り上がるくらいだったから。
でもまわりの環境は少しづつ変わってゆく。
部活やバイト、晶たちの高校時代の友達。
人脈が広がるにつれて、私たちも少しづつ男性と接する機会が増えていった。
2回生の夏頃だっただろうか。
私たちの中で初めに恋人ができたのは律だった。
なんだか急に私のまわりの世界が変わってしまいそうで、
とても恐ろしいことのように思えた。
けれど、まず初めに打ち明けてくれた相手が私だったこと、相手の男性は私は勿論、唯もムギも梓も知っている人だったことは、まだ救いだったかもしれない。
対バンで知り合ったその人は、元気いっぱいドラムを叩く律に惚れたんだってさ。
生まれて初めて男子に告白された律が私にこのことを相談してきたときの、
真っ青で追いつめられたような表情が忘れられない。
てっきり必修授業を落として留年でも決まったかと思った。
律は「なんて返事したらいいかわからない」って言ってたけど、
律も相手に好意を持っていることは知っていた。
私は背中を押してやった。
心の内側はバラバラになりそうだったのに、努めて平静を装い、
親身に相談に乗る頼りになる親友を演じていた。
私は律の不幸を願う人間にはなりたくなかった。
でも、精一杯の笑顔を作ろうして…
泣いた。
涙が止めらなかった。
私の泣き顔を見て律も泣き出した。
変な奴。
生まれて始めて告白されて恋人ができたっていうのになく奴があるか…バカ。
二人はうまくいっていた。
見ていてこっちが恥ずかしくなるくらい。
でも、恋人ができたからといって、
律と私たちの関係には、大した変化も見られなかった。
少しだけいっしょの時間は減ったけど、
お菓子を食べて、くだらないことおしゃべりで盛り上がって、みんなで演奏して…
律は律のままだった。
私は安心した。
律はどこにもいかない。
恋人ができたって何も変わらない。
私の隣にいてくれる。
律は私に彼のことをよく話していた。
付き合いが長くなるにつれ、主にそれは愚痴になっていったけれど、
聞かされる方になってみれば、それはのろけ以外の何物でもなかった。
律の彼からもよく、相談を受けた。
喧嘩の仲裁も何度立ち会ったか知らない。
こいつらが結婚することになったら、ご祝儀の2割くらいはもらう権利があるんじゃないかと思ったくらいだ。
唯はこう言った。
「澪ちゃんは二人のキューピットだね!」
ムギは言った。
「結婚にはご両親だけじゃなくて、澪ちゃんのおゆるしも必要ね♪」
梓は…別に何も言ってなかったかな?忘れた…。
『本当に結婚することになったら、誰より先にまず私に報告しろよ。約束だぞ』
…なんて笑いながら話を合わせて言ってみたっけ。ハハ…
そしたら律の奴。照れちゃって…
『結婚なんて…先のことは…わかんねーし……』
バカ。律のバカ。バーカ。
私が二人を結びつけた。
律に恋人ができたことで、一緒にいる時間は減ったけれど、
却って親友としても結びつきは強くなった…
そうだろうか?
律は律のまま、ずっと変わらない?
そんなバカな。
人は変わる。律も変わる。
律の中には私の知らない律が生まれ始めていた。
私は気づいていた。
私が知らない律。
彼だけが知っている律がいること。
少しづつ少しづつ律は変わってゆく。離れてゆく。
私が二人を結びつけるほど、律は私から離れていった。
なあ、唯。私はさ、キューピットなんかじゃない。
ピエロだよ。
私は耳を塞いだ。
私の心の内側の、奥の方から響いてくる音を遮るために。
気づきかけた真実から目をそらし、
反対に深く深く奥の方にしまい込んで、
そっと扉に鍵をかけた。
*****
3回生に進級する頃になると、みんなそれぞれに決まった恋人ができた。私にも。
他人から見れば、それは自然なことなのだろう。
私だっていつまでも高校時代の人見知りの秋山澪じゃない。
男子とだって普通に喋る。それくらい平気になった。
やさしい人だった。
一緒にいて楽しい人、私を大切にしてくれる人…それが私の恋人。
まだあの頃はウブだったから、好きだと言われるまで相手の気持ちには気がつかなかった。
彼を異性として意識したことはなかった。
ましてや付き合う相手として考えたこともなかった。
でも嫌な相手じゃなかったし、断る理由もないと思って私は首を縦に振った。
私もこの人に恋をするのだろうか?
これから好きになってゆくだろうか?
私が告白を受け入れる返事を伝えると、彼は大げさに万歳して喜びを露わにした。
それから…二人で一緒に出掛けたり、手をつないだり、キスしたり、
セックスもした。
普通のカップル。「まともな」…大学生のカップルだった。
でも、それがなんだというのだろう。
昔、夢に見ていた恋物語を自分自身で体感しているような感覚は一切なかった。
いつか訪れるのではないか、と期待していた彼への恋情は、
姿を現す兆しすらいっこうに見せなかった。
大人の恋と子供が憧れていた恋は別物なの?
決まったレールの上を走るように、お約束事をこなしてゆく。
デートして、キスして、セックスをして…やがて結婚でもする、
結婚したら子を産み、育て、年をとり、死ぬ。
大人の恋とは社会的営みの、「まともな」人生の通過点でしかない…。
それが普通?
レールから外れたところにある恋は存在するのだろうか?
あったとして、存在を許されるのだろうか?
結婚もできず、出産もできず、周囲に祝福されず、世間に承認されず、蔑まれ…「まともに」生きていれば約束されるはずのしあわせすら手放して、それでもそうせざるにはいられない、そんな恋はあるのだろうか?
手をつないで二人で出掛けることすら憚られる恋なんて…
私にはわからなかった。
恐ろしかった。
そんなことは考えたくなかった。
みんなと同じように生きよう。
そうだ、それが「まともな」生き方だ。
私は、恋をしていなかった。
いや、恋をしたかったんだ。
「まともに」生きていくために彼に恋をしたかった。
でもできなかった。
そんな私と反対に彼は…私の「恋人」はそうではなかった。
たぶん…本当に恋をしていた。
彼は…今になって思えば…強い愛情を注いでくれていたんだと思う。
いつも私を楽しませようと精一杯頑張ってくれていた。
そして、 私が微笑むと、本当にしあわせそうに笑ってくれた。
私は人として彼に好意を持っていた。
彼となら、ずっと一緒にいてもいいかもしれない。
それくらい彼に好意を持っていたのだ。
けれど、それでも。
私は彼に恋をしていたわけではなかった。
私は「男女交際」という舞台の上で、恋人役を演じているだけだった。
あるとき彼はこういった。
『キミが何を考えているかわからない』。
彼の私に向ける熱情に対して、私の彼への態度は、実に冷静であり続けた。
次第に彼は、私の自分に対する愛情の注ぎ方に不満と不信を募らせていった。
彼は誠実だったんだろう。そして賢明だった。
私が自分に対して恋情を持っていないこと、今後も持つ可能性がないことを悟った彼は、自ら幕引きを買って出た。
どうやら私は、与えられた役を上手く演じられていなかったみたいだ。
「恋人」という役柄を上手く演じきれば、
「結婚」という次の舞台に上がることを許される。
それは世の中の約束事。
けれど私は失敗した。
こうして、大学卒業を前にして私は初めての恋人と別れることになった。
私は一滴の涙も流さなかった。
みんなは泣くこともできないくらいショックだったのだ、と思ったのか、
やさしい言葉をかけ、慰めてくれた。律は一晩中側にいてくれた。
でも私はちっとも悲しくなかったのだ。
だって私は「失恋」していないもの。
私は「まともに」生きることを願った。
外れることが怖かったから。
レールに乗って。
自然に。普通に。
「まともな」恋がしたい。
人一倍恋に憧れていたはず私は、外れることを恐れ、自分の恋に背中を向けた。
それとは反対の遠いところへ、必死に走ってゆこうとしていた。
*****
1月14日、夜。律とのメール。
…今、桜ヶ丘に帰ってきてるんだけど、明日会えないか?…
返事はなかなか返ってこなかった。
これほどメールの返事を待ちこがれるのは、初めてケータイ電話を持ったとき以来のような気がした。
日付が変わる頃になり、ケータイがブルッと震えた。
律からの返事。
…返事遅れてゴメン!澪、帰ってきてるのか!会おう会おう!!夜なら空いてるから大丈夫だ、せっかくだしどこかでおいしいディナーでも…
…何かっこつけてんだ律。普通のところでいいよ、そうだ!久しぶりにMAXバーガーはどうだ?…
…えーっ!この年になって晩飯がハンバーガーって…
…文句言うなよ、いいじゃないか久しぶりなんだし、高校生の気分に戻って、さ…
…まぁ澪がそういうなら、じゃあ18時な、遅れそうになったらまたメールするからな!…
…ああわかった、じゃあな、また明日…
律と会える。明日、律と会える。
いや、もう今日だったな。
*****
社会に出てから、私は何人の異性と付き合っただろうか。
年齢を重ねるに連れて、どうやら私は異性の目から見てなかなか魅力的に見えるらしい、ということを学んだ。
それと同時に付き合い方、あしらい方も覚えていった。
私は恋を知りたかった。
「まともな」恋。
しあわせな恋。
私も、彼も、まわりのみんなもしあわせになる恋。
よかったね、って祝福されて、ありがとう、って返事ができる…そんな恋。
最初のときと同じように、不快ではない相手からアプローチがあったときは、なるべくそれを受けることにした。
一緒にいる時間が増えてゆく過程で、恋とは何かわかるかもしれない。
そうして何度同じことを繰り返しただろうか。
でも、どうしても私には恋ができない。
自然に恋ができない。
「まともに」恋ができない。
私が付き合った相手は、全員向こうから言い寄ってきたくせに、
別れを告げるのも全て相手からだった。
いや違った。
別れを告げることなく別の女と付き合いだした男もいたな。
比較的長く付き合ったこともある。
共に過ごした時間が長くなれば情が湧く。
たまには、この人となら結婚してもいいかもしれない、と思っていた男もいた。
でも相手はそうじゃなかった。一緒にいる時間が増えるほど、
相手の男は私の心の内にある空虚に気づいてしまったのだろう。
この女は自分を見ていない。そう気がついたのだろう。
自分と向き合ってくれない相手とはこれからも一緒にいられない。
その男も賢明だった。
学生時代に付き合った男と同じように、私が相手を見ていないこと、
今後もその可能性がないことを知って、離れていった。
確かに私は相手の男をきちんと見ていなかった。
今まで付き合ってきた男たち、誰一人とも向き合ってこなかった。
私は見つめていたのは、少女の頃、胸の中に宿った幻だけだと気がつき始めていた。
でもそれは幻。
現実になることはない。
「まともに」生きていくために、現実にするわけにも、いかない。
最終更新:2015年01月18日 23:06