「それであなたはどこの部活に入部をするか、まだ決めていないのね?」と
和はいくぶん批難するような口調で言った。でもそれは、別段おかしなことではない。
彼女は僕の相手をするときは、いつも同じような口調で話しかけてくるのだ。

僕はうなずく。

それから手に握ったボールペンの先で、何かの『しるし』みたいに三度ほど机を叩いてみせた。
和は僕のペン先をじっと見つめると、またため息をついてから口を開いた。

「学校が始まってから、二週間も経っているというのに」
「そのとおり」と僕は言った。「でも実際のところ、どこの部活もあまり魅力的には思えないんだ。
運動はもともと得意じゃないし、文化系のクラブも名称と活動内容との間に乖離を感じることが多い」

和はわざとらしくため息をつくと、わかったわと言った。
「こうしてニートが出来上がっていくのかもしれないわね」
「あるいは」と僕は言った。
「でもね、唯。一ついいかしら?」と和は言った。「あなたは確かにこれまで何の部活にも所属してこなかったし、
何の活動にもおよそ本腰を入れて活動をしてきたことがなかった。
それは一つの事実であると同時に、しかしあなたが受け止めるべき一つの『傷』でもあるの」
「傷」
「傷よ」と和は言った。「それはいつかあなた自身を苦しめることになる。きっと」

「部活に入らなかったことが、かい?」
和はうなずいた。何かを証明するように、とても慎重に重たくうなずいた。
「それをあなたはいつかきっと実感することになる。そしてそのことによって酷く苦しめられることになる。
だから悪いことは言わない。いい? きっと部活に入りなさい」
僕は肩をすぼめてみせた。
和は目を閉じて静かに首を横に振った。


和が僕の前から姿を消したのはその翌日のことだった。
彼女は忽然と、まるでダストシューターに投げ込まれた生ごみみたいに、呆気無く僕の前から姿を消した。
だけれども僕はこれといって動揺はしなかったし、そのことについて心を激しく痛めるようなこともなかった。
彼女が遠くない未来に僕の前から姿を消してしまうということは、ほとんど『予定調和』にすら思われた。
彼女は消えるべき存在だったのだ。あるいは彼女は消えてこそ、本来的な価値を得るものだったのだ。
僕はそれを、ごく自然に理解していた。
そして同時に、彼女が永遠に僕の前に戻ってこないであろうことも、
僕はとてもよく理解していた。それは月曜日の次が火曜日であることのように確実で、普遍的なものごとですらあった。

僕は昼食のサンドイッチを食べると、掲示板を確認するために校舎の外へと出ることにした。

掲示板には部員募集をしている部活動のポスターが貼り付けられている。
僕はその中の『軽音部』というポスターに目を留めると、口から小さく息を吐き出した。
取り立てて印象的な配色であったわけでも、あるいは奇抜であったり下品であったりしたわけではない。
それでもそのポスターは何かしら僕の『中枢』を刺激するキッチュさを保持しており、
僕は目を留めないわけにはいかなかった(世の中にはそういう種類のポスターというものが、確かに存在しているのだ)。

僕はポスターを見つめながら制服の胸ポケットに手を伸ばし、最後の一本だったマールボロを取り出し火をつけた。

僕は『軽音部』と頭のなかで考えてみた。
すると僕の頭はほとんど瞬間的に一匹の羊の幻影に囚われた。

羊は広い草原の上に、器用に二本の足で立ち、僕に向かって笑みを浮かべていた。そして両手を叩き合わせている。
疑問に思った僕は羊に対し「何をしているんだい?」と尋ねてみた。
羊は「軽音楽だよ」と答えた。迷いのない口ぶりだった。

常に小物で「俺のセンス最高www」ってアピールする様子は紛れもないハルキスト


「君が手に持っているそれは何だい?」
「ミハルスだよ」と羊は言った。「君たちはカスタネットと、呼ぶことが多いかもしれない。
いずれにしても同じようなものさ。叩けば音がでる。原理に何一つ難しいことなんてない。音が出れば救われる」
「音が出れば『傷』にはならない」
「『傷』を恐れるのならば、ね」

 僕はうなずいた。「君は、僕が軽音楽をやるべきだと、そう考えているんだね?」

「どうだろう」と羊は答えた。「私は実際のところ、どちらでもいいと思っている。
君が軽音楽に興味をもったのならやればいいと思うし、そうでないならやめればいい。
オーストラリア人に混じってクリケットをしてもいいし、
あるいはヘルメットを被って学生運動に身を投じてみるのもいいかもしれない」
「あいにく、学生運動に興味はないんだ」

「知っているよ」羊は当然のことのように言う。「私は何でも知っている。君に纏わることならば、なんでもね」

「僕は軽音楽をやってみようとおもうよ」
「そうかい」羊はどちらでもよさそうにうなずいた。「そうしたいならそうすればいい。
私は止めることもしなければ、勧めることもしない。すべては君の道だ」
「ありがとう」

僕はその日のうちに入部届を書き上げると担任の教師に提出をした。
担任の教師はパスポートをチェックするオーランド空港のクルーみたいに
極めて実際的で事務的な態度で僕の入部届を確認すると、
さっそく今日から部活に参加してみたらどうだと言った。僕はわかったと言った。

部室の入り口では、僕の噂を聞きつけたのだろう一人の女性が待っていた。
女性は僕の姿を確認すると小さく微笑み、少しばかり目を輝かせた。
黄色いリボンで髪を留めているせいで額が顕になっており、
それは僕にバスタブいっぱいに詰まったつるつるのゆでたまごを連想させた。


「あなたが入部希望者の『平沢唯』さんね」
僕はうなずいた。
すると女性はどことなく得意げな表情で微笑んだ。「『テンポが悪くて使えないドジなあなた』が、入部してくれるのね?」
僕は肩をすぼませた。「酷い言われようだ」
「でもあなたの実態に則している」
「あるいは」と僕は言った。「ところで君は、どこで僕の実態を把握したんだい?」
「職員室で見掛けたのよ、それだけ」
「それだけ?」
「そう――」女性はうなずいた。「それだけ。でもわかるの、私にはね」


僕は部室の中に案内されると間もなく紅茶とケーキを差し出された。
紅茶はおそらくクオリティシーズンのダージリンファーストフラッシュ。
非常に香り高く、鼻を抜けるような爽やかさがあった。きちんと手順を守り丁寧に抽出をしないと、決して演出すことのできない味わいだ。

一方のケーキは作ってから一週間ほど寝かせたダンキンドーナツのような酷い味がした。
僕はわずかに顔をしかめると、慌てて口の中のケーキを紅茶で流し込んだ。

部室には先ほどの黄色いリボンの女性以外にも二人の女性がいた。
一人は真っ直ぐなロングヘアをした黒髪の女性で、
もう一人は手入れを怠った牧草地みたいな眉毛をした女性だった。


「平沢さんはどんなバンドが好きなの」と先ほどのリボンの女性が僕に尋ねた。
他の二人も、興味深そうに僕の回答を待っていた。
僕はしばらく考えてから「ストーンズ」と答えた。「それにビートルズ、ディープ・パープルもたまに聞くよ。
オアシス、U2、デュランデュラン……でも正直に言ってどのバンドが特別に好きということはない。
僕にとって音楽というものは常に激しいローテーションの中にあるんだ。いわば季節みたいに」
「紅茶の茶葉みたいに」
「そのとおり」僕はうなずいた。「時期によって流転していくものなんだ」

「なら――」とリボンの女性は言った。「好きなギタリストはいるの?」
「とても難しい質問だ」と僕は言った。「でも好きな猫の種類なら言える」
「猫?」
「そう、猫。僕は雨の日の昼下がりに、窓の外を見つめながら寝返りをうっているスコティッシュフォールドが好きなんだ。
それは何よりの自由の象徴で、しかし制約された社会の不平等でもある」
「あなたって変わった人ね」
「どうだろう」
「でも、とっても素敵よ」
ありがとう、と僕は言った。

その後、彼女たちは僕に簡易的な演奏を見せてくれた。
曲目はT.レックスのイージー・アクションだった。
きっと"20th century boy."を演奏しなかったのが、彼女たちなりの精一杯のプライドだったのだ。
彼女たちの演奏はごく控えめに言って聞くに耐えないものであったけれども、
僕は終始指でリズムを取りながら耳を傾けた。彼女たちは演奏が終わると僕に感想を求めてきた。

「どうだったかしら?」とリボンの女性が言った。
僕は「よかったよ」と言った。「アウシュヴィッツの中みたいに閉鎖的で、だけれどカティーサークのように底抜けていた」
「あなたって本当に変わってるわね」
「ひねくれてるんだ」
「そんなことないわ」と女性は首を振った。「ただ、欠落しているだけよ」
「そうなのかもしれない」と僕は言った。

彼女たち三人が僕の前から姿を消したのは、それから三日後のことだった。
部室には彼女たちの残した楽器が、まるでノモンハンに置き去りにされた兵士のヘルメットみたいに
悲しげに転がっていた。僕は誰もいない部室で彼女たちが残した楽器に触れてみた。
するとまたも、僕はかの羊の幻影に襲われた。

羊は僕に言った。「君はとても後悔しているんじゃないかな?」
「後悔。どういう意味だろう?」
「『傷』についてだよ」
「傷」と僕は初めて聞く英単語を読み上げるみたいに言った。
羊はうなずいた。「君はこれからも、ずっとそうやって失い続けていく。
何を手に入れても、あるいは何を手に入れた『つもり』になっていても、
そうやって永遠に零れ落ちる人生を歩んでいくことになる。
それはすべて『傷』が原因だ。君が『傷』を克服しようとしない限り、君の喪失は永遠に続いていく」

「喪失が続く」
「それが嫌であるのなら」と言うと、羊はミハルスを叩いた。「君は『傷』を癒やさなくてはいけない」
「どうやって?」
羊はミハルスをもう一度叩いた。そしてそれっきり二度と口を開くことはなかった。

あれから十五年の月日が経過し、僕は冬のサンタルチア駅にいた。
鼻の先が凍りそうな寒さの中、僕はダッフルコートに両手をしまったまま改札口を見つめていた。
すると一人の女性が歩いてきた。女性はパステルピンクをしたグッチのファーコートに身を包み、
マライア・キャリーみたいなサングラスを掛けていた。
彼女は僕の姿を見つけるとサングラスを持ち上げ、僕に小さく会釈をした。
サングラスの向こうに見えた瞳は、僕が予想していたものよりもずっと小さくて、はかなげであった。

「本当に来たのね」と女性は言った。
僕はうなずいた。「そうする必要があったんだ」
「本当かしら」
「本当だよ」
「なら、唯」と彼女は言った。「覚悟はできているということなのね。もう後戻りはできないわよ」
僕はうなずいた。
それからはっきりとした口調で告げた。
「ようやく決心がついたんだ。軽音楽をやってみよう、って」

《 けいおん 完 》