『急転直下だったわね』

「そうだね。まさかプロポーズされてたなんてなぁ…
 なーにも言ってくれないんだもん」

『わたし、恥ずかしいわよ…柄にもなく婚活パーティーだとかお見合いだとか勧めちゃって…』

「確かに柄じゃないね」

『うるさいわよ』


左手にケータイ。
右手にはりんご。
手のひらの上で軽く回転しながら、くるっくるっとりんごが跳ねる。

今日は別に食べたいとも思わなかったのに、気づいたら買い物カゴに入れてしまっていたりんご。

和ちゃんからたくさんもらったりんごもまだ残っているというのに。


あの日は月曜だったからその週は一週間…憂は朝は早くに家を出て、夜は遅くに帰ってくるようになって、生活は完全にすれ違いになった。
夕飯も外で済ませて帰ってくるし、朝は食べずに出かけて行ってしまう。

ここでだらしがない様子を見せたら「それ見たことか」と思われるに決まってる。
わたしはいつも以上にきちんとした生活を心がけた。たぶん、まぁそれなりなんとかなっていただろうと思う。

仕事が休みのはずの土曜も朝早くに出かけて行って、帰ってきたのは22時過ぎだった。
うるさいことを言うつもりはなかった。心配じゃない、って言えば嘘になるけれど、心配だ、って口にするのも嘘っぽい気がした。

わたしはリビングでおもしろくもないバラエティ番組を見ながら、ギー太を弾いていた。
鍵が開く音で憂が帰ってきたことはすぐにわかったけれど、玄関まで迎えにいくことはしなかった。


「ただいま」


リビングに入ってきた憂は、わたしの方を見ずに言った。


「おかえり。ごはんは?」

「いらない、済ませてきた。それとねお姉ちゃん…」

「うん、なに?」

「結婚するから、わたし」


突然のことにわたしは何にも言い返せなかった。
そのままお風呂に入ろうとする憂を押しとどめて詳しい話を訊こうとしたけれど、憂はただ冷めた顔で、


「寒いからお風呂に入りたいんだけど」


って…。今まで憂を怒らせことはなんどもあるけれど、輝くベスト1ってくらいの顔だったね!


『アンタ、バカなの?まぁ、知ってたけど』

「バカじゃないよ!親しき中にも礼儀ありだよ!」

『ハイハイ。わたしに連絡があったのは次の日だったわ』


りんごは赤いほうがよく熟しているだっけ?
でも熟してるとあんまり日持ちしないって、聞いた気もする。忘れた。


憂にちゃんとした相手がいた。
付き合ってる…といえるかどうかは微妙だけど、ときどき二人で食事をしたり、比較的仲の良い同期入社の男性社員。実は1年以上前に一度プロポーズされたことがあったらしい。
そのときは丁重にお断りしたみたいなのだけど、相手の方は随分と憂にベタ惚れだったらしく…アプローチは続いていたそうです。
ま、憂に結婚を言い寄る男の一人や二人、いない方がおかしいよね。自慢の憂ですから。


『同期の出世頭で、それなりにちゃんとした人らしいわよ』

「へぇー」

『…アンタ。姉としてもっとちゃんと興味持ちなさいよ』

「持ってるよぉ〜…えぇっとあれ?ナニさんだったっけ?」

『米澤さんよ。せめて名前くらい覚えておきなさい…マッタク』


わたしには、りんごの色や形を見て、それがおいしいか、判別できない。


姉としてわたしがすべきこと。
ちゃんと妹をしあわせにできる男なのか、どうなのか、姉として見極める責任。

そんな大それたことができるかできないかよりも。
憂の結婚相手がどんな人間かってことよりも。

憂がわたしから離れて遠くへ行ってしまう、というを受け入れることができるか、それが今の自分の課題。

りんご。あの音がもう、聴けなくなる。


「ねぇ、和ちゃん」

『何よ。あんまり長電話してるほど暇じゃないんだけど』

「わたし、姉失格かも」

『…………大丈夫よ。あなたは自分で思ってるよりずっとちゃんとお姉ちゃんしてると思うわ。他ならぬわたしが言うんだから間違いないわよ』

「…ありがと。じゃあね、和ちゃん。長電話ごめん」

『いいわよ。相談したいことがあったらなんでも言って。
 それじゃ、おやすみなさい』ピッ


なんでも言って、か。

もう一度和ちゃんに電話しようとして右手を滑らせ、りんごが落ちた。
ゴトン、と聴いたことのない音を立てて。


ムギちゃんが消えた。


それを教えてくれたのは、未登録の電話番号からの留守録だった。
昔会ったことのある、執事さんの声だった。

行き先は、知らない。
何も教えてはくれなかった。

憂に聞いてみたけれど、菫ちゃんも知らないらしい。

誰にも行き先を告げなかったのだろうか。
どうしても誰にも見つかりたくなったのだろうな。

もっとちゃんと、まわりを不幸にしない、真っ当なやり方があったような気もするけれど、わたしにはわからない。


自己犠牲によって世界を救った勇者は、英雄として称えられる。

じゃあ、その逆は?


りっちゃんは言った。


『世界中が敵になっても、わたし達だけは味方でいよう』


あずにゃんは言った。


『離れていても、どこにいても、わたし達は放課後ティータイムです』


わたし達は遠くまで来てしまった。
あの頃は思いもしなかったくらい遠くまで。
気がつかないうちにいろんなことが変わってしまっていた。

憂は落ち込んでいた。


「ごめんなさい…紬さん」


最後に会ったあのとき、ひどいことを言ってしまった、謝ることができなかった、と。

いいんだよ、憂。

あんなことはムギちゃん自身がいちばんわかっていただろうから。


ムギちゃんにもらったりんご酒、まだ結構残ってる。
今夜、飲もうかな。


わたしにはもう、祈ることしかできなかった。


「どうか どうか ふたりが しあわせに なりますように」


風が吹いて、果実が揺れた。
目を逸らそうとしても、気がつけばまた、見つめている。

それは、わたしの目の前でゆらゆらと揺れて続けている。


「ただいま…」

「今日は遅くなるんじゃなかったの…あ。髪」

「ん。切っちゃった。どう?高校生に見える?」

「…若返ったとは思うけどそこまではちょっと……。
 でも似合ってるよ。お姉ちゃんにはそれくらいが一番似合うと思う」

「さすがに高校生は無理かー、いやいや制服着たらまだまだ…」

「やめときなって。大学生ならいけると思うけど」


久しぶりに憂の笑顔を見た。
でもまだぎこちなく、不自然な作り笑いだ。こんな笑顔は見たくない。


「今日あれ、和ちゃんの言ってた…」

「ああ、あれ。行かなかったよ」

「え…じゃあどこに」

「米澤さんに会ってきた」

「……なにそれ」

「結婚、できないって言って断ってきたから」


憂の表情が一気に強張っていく。


「ちょっと待ってよ。なにそれ。来週向こうの実家に挨拶いく予定なんだよ!」

「行く必要なくなってよかったじゃん。手間が省けて。
 あ、アップルパイ買ってきたよ。食べる?」

「ふざけないで。なんで!なんでそんな勝手なことしたの!?」

「…りんごが」

「…え?」

「りんごが美味しくないの。味がしないの。音も気に入らないの」

「……なに、言ってるの?」

「憂の買ってくるりんごが食べられなくなるの、困る」

「……冗談はやめて。本当のことを言って」

「うそじゃないよ。
 他のことはなんとかなっても、りんごのことだけはダメそうなんだ。
 だから困る。憂が結婚していなくなったら、困る」

「わたしに結婚勧めたのお姉ちゃんじゃない!」

「ごめん」


憂はケータイを取り出して慌てて電話をかけようとする。


「やめときなよ、あんな男」

「黙ってて!」

「わたしと憂の違いもわかんないような男。やめておきなよ」


憂がケータイを触る手を止めて、私の方を見た。
手がぷるぷると震えている。


「結構長いこと一緒にいたんだけど、ぜんっぜん気がつかなかったよ。
 一体あの人、憂の何を見てたんだろうね。憂の何に惹かれたんだろうね。
 同期なんでしょ?長年毎日同じ職場で一緒に働いてきたのにね」

「…ひどいよ。そんなのひどすぎるよ」

「わたしが言うだけじゃダメだと思ったんだ。憂が直接断らないとダメだって」

「だからって…やっていいことと悪いことがあるでしょっ!!」

「ごめん。結婚勧めたくせにこんなことして、悪いと思ってる。でも…」

「聞きたくない。いまさらそんなこと、聞きたくないよ」

「お願い聞いて」

「いや!」


憂は両手で耳を塞いで座り込んだ。


「憂がムギちゃんに言ってたでしょ。『覚悟』って。
 できたよ、『覚悟』。
 遅くなってごめん。こうなる前にちゃんと憂に言えなくてごめん」


わたしも腰を下ろして、憂の背中をさすった。
憂はふさぎ込んだまま、わたしの方を見ようともしない。


「こうなっちゃったらさ。行動を起こすのが遅ければ遅くなるほど大変なことになるって思って。だから、今日…」

「………せめて相談してほしかった」

「聞いてくれないと思った」

「…………………」

「ごめん。遅くなってホントごめん。わたしバカだからこんな風になるまで自分の本当の気持ちがわかんなかった。覚悟ができてなかった。
 いまやっとわかった。和ちゃんのおかげかもしれない」

「…もうちょっと早くに言ってくれたらよかったのに」

「ごめんね」


ゆっくりと抱きしめる力を強めていく。
憂の身体の震えを落ち着かせるように。


「…もう結婚勧めるようなこと、言わない?」

「言わない」

「…ぜったい?」

「うん。ぜったい言わない」

「…ずっと、一緒にいてくれる?」

「いるよ。ずっと一緒にいる」

「…やくそくだよ。ずっと一緒にいるって…」

「うん。やくそくする」

「ほんとに…?………ほんとのほんと?」

「……ほんと。本当だよ。約束する。
 憂がいてくれたら。憂がいてくれるだけで。それでいいの。
 ほかにはなんにもいらない」


ようやく憂が顔をあげた。瞳は潤んで真っ赤になっている。


「………泣き虫」

「………バカ。お姉ちゃんのせいだよ」

「あ、でもひとつだけ、お願い。りんごは憂が買ってきてね。約束だよ」

「……うん」

「…寒いね。一緒にお風呂入ろうか?久しぶりに」

「………バカ」

「………エヘヘ」


秋の夜風が窓をガタガタと揺らした。
時計の針が、カチカチと静かに時間を刻んでいる。

わたしは手を伸ばして目の前の果実を掴むと、
力を入れてぎゅっと捻り、それをもぎ取った。


紅葉が本番を迎えたわたし達の街は、どこもかしこも観光客でごった返している。
今日は月に一度のお出かけの日。
賑わう街を歩くのは楽しいのだけれど、行きも帰りも電車は人でいっぱいで、それだけはちょっとご勘弁。


「つーかーれーたー…」バタンキュ

「お姉ちゃん、玄関で寝っ転がるのはやめてね。
 ソファのところまでがんばろ」

「…ガッテンです」


のそのそと立ち上がり、重たい身体にむくんだ足を引きずって歩く。
ようやくソファにたどり着き、コート脱いで、ボフン、と寝っ転がる。
フードの部分に入り込んでいたのか、銀杏の葉がこぼれ落ちた。


「今日観た映画、面白かったね」

「澪さんが苦手そうな映画だったね…」

「原作全部買っちゃおっかなー…」


街はもうクリスマスの装いで、イルミネーションや巨大なツリーで華やかに彩られていた。
この季節には子供の頃も戻ったように、ウキウキした気持ちになる。


「もうすぐ、クリスマスだね」

「12月に入ったら、ツリー出そうね。今年は雪、降るかなぁ」

「あー!そうだプレゼント!考えなくちゃっ!」

「……お姉ちゃん。そういうのはわたしがいないところで言ってよ」

「…あ、そだね。ごめんごめん」テヘ


ふと、昔、我が家でクリスマスパーティーをしたことを思い出した。
あのときはまだ、あずにゃんはいなかったな、和ちゃんがプレゼント交換に海苔を持ってきたんだっけ。さわちゃんはいつの間にかウチに入り込んでて…憂は一発芸してくれたんだよね。りっちゃんもムギちゃんもたのしそうだったな。


「澪ちゃんは今でもサンタ服似合いそうだなぁー…」

「どうしたの?突然」

「ううん。なんとなく思い出しちゃっただけ。元気にしてるかなぁ、澪ちゃん」

「そうだね…元気だと、いいね」


あれからどうしているだろう。
いつかまた、むかしみたいに。みんなで騒げる日がやってくるといいな。


「あの…お姉ちゃん、ちょっといいかな?」

「どしたの憂?もじもじして?」

「本当はちゃんと当日に渡さなきゃいけないって思ってたんだけど…
 今年はケンカしてたし、もういいかと思って買ってなくて…
 だから昨日、仕事早く上がって…」

「えっえっ」

「これ…プレゼント。誕生日の。遅れてごめんね」

「ういぃー…ありがとぉ…。今年は貰えなかったからめちゃくちゃ落ち込んでたんだよぉー…」

「な、泣かないでよ。大げさだなぁお姉ちゃんは…」

「あ、開けてもいい??」


包装紙を丁寧に外していく。中に包まれていたのは、赤いベルトが可愛らしい腕時計だった。
りんごの家をモチーフにした、愛らしい時計。


「かわいい…」

「特別高価なものってわけじゃなくてごめんね。気に入ってくれると嬉しいんだけど…」

「ありがとぉういー!とってもうれしいよぉ!」

「そ、それでね。実はわたしも…」


憂がバックから取り出しのは、わたしにくれたものと色違いの腕時計だった。


「それって…」

「うん、お揃い。
 お姉ちゃんとね…何かお揃いのものが欲しかったの」

「うい…」


わたしは思わずぎゅうっと憂を抱きしめた。
強く強くつよーく。


「いたいよお姉ちゃん…」

「あ、ごめんごめん」

「でも…喜んでくれてよかった」


わたしの腕時計と憂の腕時計。
同じ時計が、同じ時を刻む。


ソファからたち上がって、台所へ向かう。
冷蔵庫を開けると、りんごがひとつだけ転がっていた。
燃えるように赤い色をした、りんごだった。

わたしはその最後にひとつだけ残った果実を取り出す。


「あ、お姉ちゃん、それ、もう古くなってるかも」

「うん。でも大丈夫だよ、きっとおいしいよ」


耳元に近づけて、いつもするように、コンコン、と指で鳴らす。
耳の奥に、りんごの音が響く。


「ほら、いい音がする。憂の音だよ。だから大丈夫」

「…ホント、りんご好きだよね。お姉ちゃん」

「うん。だい好き」

「………わたしも」


それからがぶりと、果実を囓る。


「やっぱり、りんごは憂の音がするのでなきゃ、ね」


そう言ってわたしは、囓ってある部分をそのまま向けて、果実を憂に差し出した。
憂は何言わずに唇を寄せると、わたしの囓った上の部分から勢い良く、
果実にガブッと噛り付いた。


「どう?おいしいでしょ?」

「…うん。お姉ちゃんの味がする」


わたしはもう一度果実を口にした。
憂の囓った上から、がぶりと。

口の中いっぱいに、甘美な蜜が満ち渡っていく。

それは、憂の味だった。