くるっくるっと回転しながら、手のひらの上でりんごが跳ねる。

一旦宙に浮いたりんごが落下して、ずしっとした重さが手のひらにつたわる。
それと同時に、ぽんっぽんっと小気味のいい音を立てる。
わたしはその音がなんと言えず好きで、なんどもなんども聴きたくなる。

そうしてりんごはなんども跳ねる。


「お姉ちゃーん」


声をかけられて気が逸れたせいか、りんごは手のひらから滑り、ゴテン、と重さを感じさせる音を立てて床に落ち、バウンドして転がった。


「…食べ物で遊んじゃ、ダメだよ」

「えへへ…ごめん」


頭を掻きながら苦笑いする。


「りんご、食べたいの?柿も買ってきてあるけど」

「りんごか柿か…悩むところですが……………ここはりんごで!」

「お姉ちゃん、最近りんごにハマってるよね」

「柿も梨もみかんも好きだし、おいしい果物はなんでも好きなんだけどね。最近のマイブームはりんごだね。
 憂は?りんご飽きた?」

「ううん。わたしも好き」


憂は満面の笑みで答えてくれた。


「そっか。よかった」


ほっとして、わたしも一緒に笑う。


「中でもいちばん好きなのはね…憂が選んだりんごかな」

「それって品種とか、そういうこと?」

「うーん、っていうか。他のところで食べたり、誰かにもらったり、わたしが自分で選ぶのより、憂が買ってくるりんごはずっとおいしい気がするんだ」

「確かに選んで買ってきてはいるけどね。色のつき方とか手触りとか重さとか…」

「ああ、音もいいよね」

「音?」

「ほら、こうやって」


まだ下の部分に青さの残るりんごを耳元に寄せ、コンコン、と叩いてみせた。


「…うん。やっぱり憂の音がする」

「わかんないよ、お姉ちゃん…」


憂はちょっと呆れたように笑う。


「わかんないかなー。憂の音なのにー…」


と、しゃべりながらわたしはそのままりんごにかぶりついた。
シャリっ、と新鮮さを思わせる音がする。


「う〜ん、おいし〜い。ほら、今のシャリって音も憂っぽい音だったでしょ」

「いや…だからわかんないよ…。
 それにそんな食べ方、お行儀悪いよ」

「こりゃ失礼しました…でもこうやって丸かじりするのもなかなかおいしいよ?」


そう言ってわたしは囓ってない部分の方を向けて、りんごを憂に差し出した。
憂はちょっと困った顔をしつつもりんごを受け取ると、両手に持って唇に寄せ、赤い部分を小さく噛った。


…やっぱり憂の音がする。


「どう?おいしいでしょ?」

「うん…たまには悪くないかもね。でもやっぱりお行儀悪いからちゃんと剥いて食べよう?」

「ちぇー。じゃあいま囓ったところだけよけて剥いちゃうね」

「わたしが剥くよ」

「ん。たまにはわたしがやるよ。任せて!」

「そっか。じゃあ、お願い」


わたしは食べかけのりんごを受け取って席をたった。
台所に移動して憂がこっちを見ていないことを確認すると、もう一度りんごを囓った。


…うん。憂の音だ。


雲ひとつない真っ青な空。
太陽の光が燦々と降り注いでいる。

秋の一日一日は、昨日とはなにも変わらないようで、夏が遠のき、冬が着実に近づいてきていることを感じさせる。
朝、家のドアを開けた瞬間。外の冷気に身を震わせる回数が増えた。
季節は確実に、移ろいつつある。

けれど今日の暖かな昼の日差しは、そんな変化を忘れさせてくれるようなやさしいものだった。

反対側のホームにやってきた電車は、観光客でいっぱいだ。
まだ紅葉には少し早いと思うのだけど、寒すぎない今くらいの気候の方が、旅行には最適なのかもしれない。
わたしたちは観光客とは逆の方へ向かう電車に乗り込んだ。


「お姉ちゃん、座りなよ」

「大丈夫だよ、憂が座って」


混みすぎてはいないけれど、二人分座れる席は空いていなかった。
お互いに譲り合いはしたけれど、結局二人とも座ることはなく、立ったままだった。

まだこの季節には少し早いと思うのだけど、気を利かせすぎな電車内には暖房が入っているようで、暑苦しくってかなわない。


「そういえば和ちゃん。なんだって?」

「…ん。大したことじゃなかったよ」

「ホント?だってわざわざ憂だけ一人呼び出すなんて珍しいじゃん。
 来週はわたしが呼び出されてるんだよ。
 …わたし、何か和ちゃんに怒られるようなことしたかなぁ?」

「心配してくれてるんだよ、和ちゃんは」

「心配?ちゃんと働いてるからニートじゃないし、無駄遣いも控えて貯金もしてるし、お菓子も食べすぎないようにして健康には気をつけてるし……なんだろう?」

「…和ちゃんに会えばわかることだよ。それに心配してくれる人がいるってことはしあわせなのかもね」

「そうだねぇ…和ちゃん、ありがとうねぇ…」


わたしは電車の中で手のひらと手のひらを合わせて目を瞑った。南無三。
「和ちゃん、生きてるからね」って憂にたしなめられた。



無駄遣いは控えてる、というのは無計画にお金を使わないように気をつけている、という意味であって、まったくお金を使わないわけじゃない。
ひと月に一度(主にお給料日の後)はこうしてふたりで繁華街に出かけるのが平沢家の暗黙の了解であり、月末の二人の楽しみになっている。

セレクトショップで秋冬物の新作をぐるっと見て回った後、映画館に寄って(ちゃんと前売り券買ったよ)、最後はちょっとお高いところで外食をする。

それがいつも定番のコース。頑張って働いているご褒美だもん。立派に社会人やってますから!ふんす!

ただ、この日はちょっとイレギュラーな出来事があった。

映画館を出て夕食に行こうかとしているときだった。
セレクトショップで見かけた靴を買うかどうか、映画を観終わった後も憂はずっと悩んでいた。
そんなに欲しいならわたしがプレゼントしてあげようか?って言ったけど、お金のこと以上に、真っ赤な色をしたヒールの高い靴が自分に似合うかどうかで悩んでるみたいだった。

似合うよ、きっと。

本心からそう思うんだけど、とっても軽く聞こえてしまいそうだったし、実際見事に履きこなされてしまうと、姉のわたしより大人っぽく(いやもうわたし達は誰がどう見ても大人なのだけど)なっちゃいそうなのがシャクで、黙って笑っていた。

そう。
悩んでる憂は、可愛いのです。

そんなときだった。
聞き覚えのある声がわたしの名を呼んだ。


「唯ちゃ〜ん!」


楽しそうに手を振って、こちらに駆けてくるのは、ムギちゃんだった。

大学を卒業して以降、今度こそ進路がバラバラになったわたしたちは、それまでのようにいつも一緒ではいられなくなった。
とはいえ、卒業後しばらくは頻繁に連絡を取り合ったり、時々はみんなで集まってたりもしていた。
…バンド活動もナントカカントカ頑張って、解散だけはしないように、って地道な練習だけは続けていた。

それは時間とともにだんだん少なくなっていったけれど、それでも近況は報告しあい、たまに会ったときは昔と何一つ変わりのないようにはしゃいで楽しんだ。


「ムギちゃん!」
「紬さん!」

「うわぁ〜まさか唯ちゃんにばったり会っちゃうんて!憂ちゃんも久しぶり〜」


憂がムギちゃんと会うのはどれくらい久しぶりなんだろう。
卒業後の集まりは放課後ティータイムの五人で集まることばかりだったから、本当に大学を出てから初めて会うくらいなのかもしれない。

こうして偶然出会うのも何かの縁。
せっかくだから、三人でご飯を食べていこうということになった。

わたしは憂の方をちらっと見た。
愛想笑いじゃなくて、本当にムギちゃんとの再会を喜んでるみたいに無邪気に笑っていた。
月に一度の二人きりのお出かけが邪魔された、なんて少しも思ってない様子に、わたしは胸をなでおろした。


「ムギちゃん、さっきの人たち、大丈夫だったの?」

「大丈夫大丈夫!気にしないで〜」


三人で入ったのは焼肉屋。
焼肉屋なんて、憂と二人じゃまず入らない。職場の飲み会やけいおん部のみんなと会う時、つまりは比較的大人数で行くところってイメージがあったから。
でもお肉、好きだけどね。


「おうちの方だったんですか?」

「うん。今実家に帰ってきてるから。でもいいのよ。ホント」


ムギちゃんはとても楽しそうだった。
どんなことにも好奇心旺盛で、見るものすべてに目をキラキラと輝かせて、世界の全てを楽しんでいた、あの頃と何一つ変わらないように。
そりゃわたしも憂も楽しかったよ。久しぶりに友達にあったら楽しいに決まってる。

でも…盃が進むにつれて(ムギちゃんがお酒だい好きだってことはとっくの昔に知っていたけれど)少しづつ雲行きは怪しくなってゆく。


「すみませ〜ん、注文いいですかぁ?生大ひとつくださ〜い。それと…唯ちゃんと憂ちゃんは?」

「あ、わたしはいいや…まだ残ってるし」

「わたしはりんごサワーを…」

「えっ!憂ちゃんなのにウイスキー飲まないの!?」

「はぁ……」

「じゃあ憂ちゃんの代わりにわたしがウイスキー飲むわ!」フンス!


…と、ムギちゃんは酔っ払いのおじさん顔負けなギャグとともに高らかに宣言すると、天まで届けとばかりに左手をまっすぐあげた。
そして大きな声で店員を呼び止め、白州のロックを追加注文した。せめて水割りにして欲しかった。


「つ、紬さん、お酒強いんですね」


「お酒に強い」「お酒が好き」「たくさん飲む」は、似ているようで違う。
ムギちゃんは確かにこの三つが当てはまる……けどね。いくら強いって言っても限界ってものはあるわけで、それをオーバーするまで飲んじゃ、ダメなわけですよ。

ちなみに憂は前半二つ。いつもガンガン飲むわけじゃなくて、その場に合わせた酒量。今日はムギちゃんがいるから割と飲んでるけど、顔色は全く変わっていない。
わたしは真ん中の一つだけかなぁ。ちなみに我が家ではもっぱら第三のビールです。節約節約。


「あ〜。こんなに飲むの久しぶり。ほら。実家にいるとあんまり飲ませてもらえなくて」

「そりゃあ一人娘が毎晩へべれけになるのに黙ってる親はいないだろうね」

「今日は大丈夫なんですか?」

「土曜日に酔ってない方が人として不自然だと思うの〜」グイッ


それは偏見だよ……。そんなわたしの心の声を無視して、ムギちゃんは左手に大ジョッキを持つと、急角度でそれを傾けた。


「唯ちゃん、大人っぽくなったよね〜。髪を伸ばしてるせいかしら?」


急に話題を変えるのは、酔っ払いの特徴であるような気がします。


「ムギちゃん、それこないだみんなで集まったときもおんなじこと言ってたよ」

「え〜、そうだったかしら。いいじゃない褒めてるんだし」

「憂ちゃんも大人っぽくなったね。髪型が変わらないのに」


それはナニかな?わたしが大人っぽく見えるのは髪型のせいだけってことかな?


「え、あ、はい…まぁ、実際もういい歳ですから」

「二十代もあと一年だものね。早いわよね」


遠い目をして呟くようにそう言って、ジョッキの残りを飲み干した。
そうしてからスッと左手をあげる。


「…白州のロック、まだですか?」


呼び止められた店員は、少々お待ちください、と言って足早に立ち退いた。


「最近、どう?」


どうやらまた話題が変わるらしい。


「どうって何が?」

「決まってるじゃない?」

「ああ、そういう話かぁ。変わらずだよ、ずっと」

「憂ちゃんも?」

「はい、変わりませんよ」

「そう」


頼んだお酒がまだやってこないので、ムギちゃんは手持ち無沙汰な様子だ。左手で箸を持ち、カチャカチャと鳴らしている。ムギちゃんには珍しく、行儀が悪い。

お酒がなくたってお肉は美味しい。鍋奉行なムギちゃんはお肉の焼き加減や焼く順番にもこだわりを持っている方だけど、お酒が入ってくるとそれもだんだん適当になってくる。
そうなればここぞとばかりにわたしは自分のペースで肉を焼く。ビールもおいしいけど、お肉もおいしい。そうだ、デザートにアイスも頼まなくっちゃ。


「わたしね」


騒がしい店内で慌ただしく動き回る店員を見ながら、ムギちゃんは言った。
わたしは上カルビを絶妙な具合に焼いてみせることに夢中で、憂は野菜が焦げ具合が気になっているようだった。


「結婚するんだ」


憂、これいい感じだよ。カルビ好きでしょ。ありがとお姉ちゃん、しいたけもおいしそうだよ。うへぇーしいたけかぁー。好き嫌いはだめだよ。はぁい…。
わたし達姉妹は、網の上の肉や野菜に夢中だった。


「来月末」


注文したお酒がようやくやってきた。
ムギちゃんはわかりやすく目をキラキラさせると、


「はい、乾杯しよう乾杯!」


左手でグラスを持ち上げ、7、8回目になるんじゃないか、っていう乾杯をせがんだ。


「ちょっと待って」

「とりあえず乾杯しようよ」

「さっきの、なに?」

「さっきの、って?」

「結婚の話ですよ」


憂はムギちゃんの方を見ずに言った。
野菜だけじゃなく、今度はわたしに代わって肉の焼け具合にも気を払っている。


「一応言っておいたほうがいいかな、って」

「一応って…それに来月末って…いくらなんでも急すぎるよ」

「急じゃないよ。結構前から進んでた話だから」

「じゃあなんで言ってくれなかったの?それにムギちゃんは…」

「ああ、ダメになっちゃったの」


ムギちゃんが左手に持ったグラスを揺らすと、からんからんと氷が音を鳴らした。
白州はもう1/4くらいしかグラスに残っていない。あっという間。


「どうしてかしら。今夜は酔えないわ」

「ダメになったって…」

「しょうがないわよ」

「それでいいんですか?紬さんは?ヤケになって結婚して。
 …あ、これ焼けてます。どうぞ 」


ちょうどいい焼け具合の肉や野菜を、わたしとムギちゃんのお皿に取り分けてくれた。
憂も食べなよ。ちゃんと。


「いいもわるいもないよ。ヤケじゃないわ。結婚くらい、『普通』のことでしょ。だってもうわたし達、いい歳なんだもの。結婚適齢期よ」

「知ってます?生涯未婚の人がどんどん増えてること。
 結婚が『普通』なんて、考え方が古いですよ 」

「ま、まぁ…ひとそれぞれだから…ね。
 …… ん!んん!!お肉おいしい〜!ほら、憂もムギちゃんもお肉食べよう!おいしいよ!」

「お姉ちゃんは好きだけお肉食べなよ。わたしは野菜食べるから」

「…わたし、お酒飲みたいから」

「……はい」


憂とムギちゃんがふたり同時に手をあげる。
ふたりの殺気を感じたのかどうなのか、店員が飛ぶような勢いでやってくる。


「結婚するとかしないとかより、好きな人と一緒にいるってことの方が大事だと思います」

「あら。大人っぽくなったと思ってたけど、随分と子供っぽいこと言うのね」

「大事なことに、子供っぽいとか大人っぽいとか関係ないですよ」

「そんな風な考えだけでやっていけるほど、世の中は甘くないのよ」

「一つしか歳が変わらないのに、大人ぶらないでください」


注文したスクリュー・ドライバーが一つ、ビッグ・アップルが一つ、そしてわたしが頼んだりんごアイスがやってきた。


「乾杯♪」
「…乾杯」
「かんぱーい…」


グラスが割れるんじゃないかって心配したけれど、大丈夫だった。


「わたしが好きでもない人と結婚するって思ってる?」


憂は黙っている。カクテルに口をつけることもしない。
わたしはりんごアイスをゆっくりと食べる。


「『好き』って気持ちと、『結婚』という行為はイコールじゃないわ」

「…わかってます。それくらい。結婚するってことがまだまだ世の中にとって『普通』のことだって思われてることも。
 でも結婚できなくたって、好きな人とずっと一緒にいたいとは思わなかったんですか」

「…冷めたのよ。わたしも。あの人も」

「うそ」

「ほんと」

「うそです」

「…頑固ねぇ、憂ちゃん。確かに、ずっと一緒にいたい、って。そう願っていたこともあったわ。でも願うだけじゃ…祈るだけじゃ、どうにもならないこともあるのよ」

「覚悟がないだけだと思います」

「わかったように、簡単に言わないで」


憂は右手に、ムギちゃんは左手にグラスを持つと、残りを一気に飲み干した。
わたしはまだちびちびとりんごアイスを食べている。


「…………すみません。言い過ぎでした。
  お二人のことですから、わたしが口を挟める筋合いはないですけど、今の紬さんは…」


ビッグ・アップルを飲み干した憂の頰が珍しく紅潮していた。
久しぶりにたくさん飲んだせいか、それとも興奮しているせいか。


「不潔です。なんだかとっても」


憂は笑って言った後、「ごめん、お姉ちゃん。先に帰るね」と席を立ち、そのまま店を出て行った。

ラストオーダーを告げにやってきた店員に対し、ムギちゃんは左手をあげ、「もういいわ、大丈夫」と笑って断りを入れた。
わたしは…まだりんごアイス残ってる。


「…ごめん。憂がヘンなこと言って。悪気はなかったと思うの。ちょっと飲みすぎだったね…」

「…不潔、かあ……ねぇ唯ちゃん。わたし、不潔かな」

「…え」

「正直に言って」

「………うん。…ちょっと、ね」

「そっか。やっぱり、ね。…………アリガト」

「…え?」

「あ、そういえばさっき憂ちゃんが飲んでたカクテル、美味しそうだったね。わたし、やっぱりもう一杯飲むわ!」


ムギちゃんが威勢良く声をあげて、左手を大きく振り、店員を呼び止めた。
それから、ラストオーダー後の注文であることを可愛らしく謝ると(ムギちゃんはぶりっ子なんてしなくても、いつもの通りにしていれば十分に可愛い)、ビッグ・アップルを注文する。

そして注文したお酒が運ばれてくると、ムギちゃんは目をキラキラさせながら、左手にグラスを持ち、勢い良くビッグ・アップルを飲んだ。
まるで、今日いちばんおいしいお酒を飲むように。

りんごアイスの残りは、溶けてドロドロになっていた。



2