「さっき一口二口と食べたこのサフランライスは」

 梓の願い虚しく、唯の口から震えた声が零れた。

 黙れ。言うな。言うな。言うな。
梓は心の中で強く強く念じた。お願いだから言わないで下さい。それ以上続けないで下さい。
黙れっ。

「りっちゃんのおしっこで」

「違うっ。尿なんかじゃないっ」

 唯の言葉を遮った金切声が、キッチンを劈いた。
救いを求める思いで、梓は声の主へと視線を向ける。
梓の視界を占めて屹立する澪が、頼もしい堅牢な城壁にも見えた。

「律は天使なんだよっ。天使が排泄なんかするかっ。
私達みたいな人間風情と一緒にするなっ」

「いや、だって、今現に……」

 吠える澪に気圧された風を見せつつも、唯が事実で以て立ちはだかった。
そう、澪の言に縋るには、その事実が邪魔だった。
梓の脳裡にも刻み込まれている映像は、律が紛れもなく排泄した事を証している。

「あれは尿じゃない。りしっこ、って言うんだ」

 梓は弾かれたように背筋を伸ばした。
特殊な性癖を持っておらず衛生観念も正常な梓にとって、尿を摂取したなど耐えられない事だ。
だが今、眼前には蜘蛛の糸が垂らされている。
そうだ、あれが尿でないならば──自分は性的にも衛生的にも狂った事はしていない──

 梓の視界の端、律が恥ずかしそうに頬を染めて俯いている。
りしっこ、という言葉に羞恥を衝かれたらしい。
その可憐な姿を、焦点に捉える。
この可愛らしい生き物が、排泄などするだろうか。
また、尿があのような香りを放つだろうか。
そして、尿がこのような芳しい色合いと味を米に付すだろうか。

 自問に否と返す梓の中で、澪の言うりしっこを肯んずる為の根拠が堆積されてゆく。
人は得てして、自分に取って都合のよい話を信じたがるものだ。
そして追い詰められた時ほど、その傾向は強くなる。
全ての進路が塞がれた人にとっては、
オプティミズムに縋る事が最早最良の選択肢となるのだから。
悪質なビジネスもカルト宗教も、そういった人の弱さに付け込んで成立しているのだ。

「何を狂った事を言っているの?馬鹿馬鹿しいわ。いい加減にして頂戴っ」

 我を取り戻したと宣すような紬の金切声が、凍り付いていた一室を動かした。
唯が、憂が、立ち上がって口を開く。

「そうだよ。私達にそんなもの口にさせるなんて、澪ちゃんはどういう積もりなの?」

「こんな非道な真似、幾ら追い詰められての事とは言え、許せませんっ。
絶対に、許せませんっ」

 違う。梓は胸中で呟いた。憂は気付いていないのだ。
澪へ向けて言ったに違いないその言葉が、本当は自分達に向けられている事に。
追い詰められている側は、自分達の方だ。
そして──その行為を許せるのか?
その問いも、自分達に向いている。
梓の答えは、決まっていた。

「何怒ってるの、憂。唯先輩やムギ先輩も、落ち着いて下さいよ」

 梓は落ち着き払って言い放つ。
呼び掛けられた彼女達の、剥かれた目が梓に向いた。

「梓ちゃん?怒るのは当たり前でしょう?それとも梓ちゃんは、許せるの?
私達、尿を含んだ米を食べさせられたんだよ?それを、許せるの?」

 憂の口から零れた声を、怒気と戸惑いが震えさせていた。

「憂。私達、尿なんて口にしてないよ?澪先輩が言ってたじゃん。
あれは、りしっこだよ。尿じゃない。私達の排尿とは違う、高貴な液体だよ。
だから怒るんじゃなく、本来感謝するべきだよ」

 自分に言い聞かせるように、否。
自分に信じ込ませる気迫を込めて、梓は言った。

「梓ちゃん?正気なの?あんな屁理屈。
んーん、ただの妄言に耳を傾ける余地なんて、あると思うの?」

 憂の表情から戸惑いが消え、純粋な怒気が声とともに繰り出される。

「だから、妄言じゃないって。事実だよ。
あれはりしっこ。尿じゃない。だって──」

──尿を摂した自分なんて許せないから

「そうしないと、私達、尿を口にした事になるんだよ?
憂はそれでいいの?ねぇ、憂、私達、尿なんて嚥下してないよね?
憂は私の事、尿を摂取した人間だなんて思わないよね?
私は憂の事、尿を摂取した人間だなんて思いたくないっ」

 梓は話している内に感情が昂ぶり、最後には縋るように吠えていた。
対する憂の顔からは怒気が消え失せ、左右に揺れる瞳に純粋な戸惑いが表れている。

「それは……。梓ちゃんの言う通り、私達が尿を口にしたなんて、信じたくないけど。
認めたくないけど。でも」

 ここまで来て、憂は未だ現実への未練を捨てきれないらしい。
歯痒い思いが梓の口を衝き、迸る声を甲高く尖らせる。

「私達だけじゃないよっ?憂のお姉ちゃんだって、尿を胃に収めた事になるんだよっ?
いいの?大好きなお姉ちゃんが、そういうものを食べたって事にしちゃって、許容できるのっ?
お願い、憂ぃ。私の事も、尿を飲んだなんて認めないでよ……」

 憂の瞳が激しく左右に揺れた。
その一端は姉である唯に振れ、もう一端が梓に振れる。

 数秒続いた視線の忙しい往復は、梓を焦点にして止まった。
見返した憂の顔は、小刻みに震えている。
その先端で痙攣する顎が、緩やかに落ちた。
──堕ちた。
そう梓に確信させる動作だ。

「私、どうかしてたみたい。
梓ちゃんの言う通りだよね。
こんなに美味しくて、色合いも良くて、いい匂いのするものが、尿な訳ないものね。
うん、りしっこだよ、これは」

 自分の事だけなら強硬な態度を取れても、姉や友人を巻き込まれれば軟化せざるを得まい。
憂が周囲を優先して考える性格だという事は、今までの付き合いで梓も分かり切っている。
尤も、憂の性格に付け込んで意見を翻させた自分に対して、梓は些かの気後れも感じていなかった。
或いは、気付いていない風を通していた。
これがりしっこだとする自分の信念に、微かの迷いさえ生じさせたくはない。

「憂っ?憂まで何言ってるの?」

 正気を疑うような、と形容すべき表情なら、梓も今までの人生で幾度か見てきている。
だが、それを唯が浮かべる事も、それが憂に向けられる事も、梓は初めて見た。

「梓ちゃんの話、聞いてたよね?」

 唯を見る憂の目は、縋るように震えていた。姉に甘える妹そのままに。

「うん。私を思い遣ってるのは分かるよ。
でも、澪ちゃんのした事は許せな」

「それだけじゃないの、お姉ちゃんっ」

 唯の言葉を遮って、憂の声が割り込んだ。
言葉に変わって訝しげな視線を向けてきた唯に、憂が悲壮な表情で言い募る。
文節の区切りを強調する為の長い間が置かれた、明瞭かつ力強い語調で。

「私、お姉ちゃんが、尿を飲むなんて、認められないよ?
でも、それ以上に、私が尿を飲むような妹だなんて、お姉ちゃんに思われたくないの」

 唯が目を瞠り、短く息を吸った。空気を切るような吸音が、梓の鼓膜を衝く。
それはもしかしたら、自分の呼吸音かもしれなかった。
梓も唯同様、意表を突かれていたのだから。

 梓は憂が、姉のイメージを崩したくないが為に、りしっこを受け入れたものだと思っていた。
だが憂の本音は、姉からのイメージを崩したくないという点にあったのだ。
梓の言説は、その連想に至る誘因として機能したに過ぎないらしい。

 そしてこの意図していなかった顛末から、期待を越える効果が紡ぎ出されようとしている。
──連想から、連鎖へと。
唯の愕然とした表情が、梓にそう教えてくれていた。

「お姉ちゃん、お願い。私の事、汚らしい妹だなんて思わないで。お願い」

 呟く憂が震える。受けた唯も震えた。
ただ、振れる方向が姉妹で異なっている。
憂は顔が横に痙攣し、一方の唯の頭は縦に慄いていた。
その違いが、徐々に隔たりを露わにしてゆく。
唯の動作が、大きくなっていったからだ。
それが首肯に至ったと、梓が認識した時。
唯が口を開いた。

「汚いだなんて、思わないよ。だって、憂は汚いものなんて、何も口にしてないんだから。
だって」

 妹に語りかける唯の声音は優しかった。
言葉が途切れても、その余韻が梓の耳に残っている。
そして今、覚悟を込めるかの如く、唯が深く息を吸い込んだ。
優しい姉を貫き通すと、意を決したのだろう。

「あれは、りしっこ、だもんね」

「お姉ちゃんっ」

 短く叫んだ憂の身体が、背を拉がれたように前方へと傾く。
唯の──姉の胸へと。

「よしよし」

 唯は抱き付いてくる憂を受け止めて、その胸に凭れる妹の頭を撫でた。
陥落した姉妹が抱き合い慰め合う様を、梓は瞳に強く強く焼き付ける。
これで良かったのだと、自分に言い聞かせる為に。
或いは、犯した罪悪の重みを自覚する為に。

 これで良しとするはずなのに──。
抱き合う姉妹の姿を否定するかのような、強く食卓を叩く音が響いた。

「くっだらないわっ。いい加減にして頂戴っ」

 紬が両手を食卓に打ち付けた勢いそのままに立ち上がり、顔を伏せて喧しく吠えた。
打たれた衝撃で卓上の食器が揺れ、素材の硝子が金切声を上げて鳴く。
紬の叫喚の残響であるかのように、それは室内に甲高い耳障りな音となって響いていた。

「りっ、りぃーっ」

 紬の剣幕に驚いたのか、律が涙声を靡かせて澪の胸に飛び込んだ。
それを片腕で抱き止めた澪が、空いている手で律の頭頂を優しく撫でる。

「よしよし。こら、ムギ。いきなり怒鳴るなよ。
律が怯えちゃってるじゃないか」

 律の頭に手を添えたまま、澪が険しい眼差しで紬を責めた。
伏せっていた紬の顔が上がり、瞋恚の睥睨が澪を迎え撃つ。
衝突して火花の散る視線を、双方とも逸らそうとはしない。
一歩も、退こうとしていない。

「貴方にも怯えて欲しいくらいよ。何よ、平然と構えちゃって。
りしっこだなんて、ちゃんちゃらおかしいわ。
こんな物を食べさせて、どう始末を付ける積もりなのっ?」

 視線を衝突させたまま、紬が澪に噛み付いた。

「こんなものとは何だよ。律の可愛らしい好意を踏み躙る気か?
それに私達は、責められるような事なんてしていないぞ。
サフランライスに似たものを、安価に振る舞うって約束を果たしただけじゃないか。
第一、お前だって、それを楽しみにしてた一人なんだからな」

「どうせ、大口叩いたら引くに引けなくなっていったってだけでしょ?
できもしない約束なんかして、追い詰められたからって自棄を起こして、こんな暴挙に出たんでしょ?
始めから謝れば良かったのよっ。それで恥を甘受すればよかったのよっ。
こんなもの食べさせて、尿なんて食べさせてっ、
もうっ、謝ったって済まない事態になっちゃってるのよっ?」

 発言が進むにつれて、紬の声に露わな感情が乗っていった。
自分の吐いた言葉が、彼女自身の感情を昂ぶらせているかの如き有様だ。
そして最後には、自棄を起こしたかのような叫喚へと至っている。

「いや、私はできもしない約束なんてしていない。自棄になってもいない。
繰り返すけど、私達は約束を果たしたんだ。
実際、味も匂いも似ていただろ?」

 問い掛ける澪の声音は、一転して冷たい。
気圧されたのか、対する紬の視線が逸れた。
そうなのだ。実際に、この黄色い米飯は、昨日食べたサフランライスに似ている。
多少の違いはあるが、その差異も澪の言に加勢する役を果たしていた。
サフランそのものを使った、という推量を否めるからだ。

「似ていただろ?」

 黙りこくった紬へと、澪が容赦なく問いを繰り返す。

「……っ。だからって、こんなものを食べさせる必要ないじゃないっ」

 澪の質問が弾となって、紬を撃ち抜いたのだろうか。
そう思えるくらい、紬の口から迸った声は悲鳴に似ていた。
その甲高い叫喚に、もう一つ甲高い音が交じっている。

「りぃーっ」

 律が悲しげな鳴き声を上げた。
紬が自分に給されていた皿を引っ繰り返したのだ。
その行為こそが、もう一つの甲高い音の正体だった。

「お前っ、何て事するんだっ。
律が折角、りしっこを提供してくれたのに」

 抗議の声を上げる澪に、紬の血走った眼が向く。
吐く息も荒く、発作の余韻を表していた。
皿を引っ繰り返すと言う乱暴な行為が、紬自身を攻撃的な姿勢へと駆り立てているらしい。
怒りが攻撃的な言行に繋がり、その攻撃的な言行が更に怒りを煽る。
梓の目にも明らかな程、紬は典型的なヒステリーのスパイラルに陥っていた。
その螺旋階段の行き着く先は、孤立でしかない。

「ムギちゃん、みっともないよ」

 唯の声が割って入ると、紬の血眼はそちらへと矛先を転じた。
口を開くまでもなく、裏切り者、という絶叫が決した眦から発せられている。

 対する唯に、怯んだ様子は見られない。

「これがおしっこなんかじゃないって事、分かるでしょ?
おしっこがこんなにいい匂いする訳ないんだから。
これだけ証拠を揃えられているのに、自論に固執しちゃうなんて、
滑稽も暗愚も通り越して見苦しいよ」

「何よっ。唯ちゃん、いえ、貴方だって、怒っていたじゃないっ。
尿なんて食べさせられて、怒り心頭だったじゃないのっ」

 紬は普段通りに唯を呼称してから、他人行儀な三人称へと言い換えていた。
換言の際に慌てた様子はなく、始めから訂正するつもりだったのだろう。
紬の穏やかではない心中を、梓は敏く感じ取る。

「誤解してたからね。でも私はいつまでも、妄執したりしないんだ。
それとも何?ムギちゃんは、私の憂がおしっこを口にしたなんて言う積もりなの?
幾らムギちゃんでも、私の憂を穢すような事は許さないよ。
絶対に、許さないよ」

 声に力を込め、双眸毅然と唯が言い切った。
妹を抱く腕にも力が籠もり、憂を囲む両腕の輪も狭まっている。
気圧された紬とは対照的に、憂は潤んだ瞳で姉を見上げていた。
その瞳が紬に向かった時には、もう潤んでなどいない。
怨敵を見据える、決然とした眼差しに転じていた。

「お姉ちゃんの言う通りだよ。
私達の事、紬さんの意地で穢したりしないで下さいっ。
律さんにも謝って下さい」

 姉の心持ちに心を打たれたに違いない。
元はと言えば、憂が懇願したからこそ唯はりしっこを援用したのだ。
憂は唯に同調の声を上げる責任があった。

「な、何を言っているのよ?
貴方を、いえ、私達を穢したのは、あの二人なのよ?」

 紬の人差し指が律と澪へと向けられる。
声同様に震えた、弱々しい手付きだった。

「おい。今度は私の律を貶す積もりか?
排尿なんてすると、まだ言い張って律を貶めるのか?
私だって唯と同じだ。
いくらムギが相手でも、私の律を悪し様に扱うなら、絶対に許さない」

 澪が怒気露わに凄んだ。
獰猛な肉食獣でさえ、逃げ出しかねない容貌だ。
それが今、紬へと向いている。

「りー、りー」

 律も澪へと、鳴き声で以って与していた。
澪の両腕の中、頻りと拳を振りながら繰り返し発声している。
梓の瞳には、唯に抱かれ守られる憂の姿と重なって映った。

 ならば、孤立し傷付いた紬を、誰が抱いてあげるのだろう。
そして自分は──と、梓は胸の中で自問した。

「もういいっ」

 紬が甲高い声を上げながら、激しく頭を振った。
全てを投げ捨てるような、激しい動作だった。
異邦人に囲まれてコミュニケーションを放棄する、理解されない人間の姿だ。
そして、自分こそが正気だと信じてやまない狂人の姿そのものだ。

「帰るわっ。好きにして頂戴っ」

 紬は叫びざまに食卓へと背を向けた。
勢いで椅子が弾き倒されて、太い音を短く響かせる。
紬は気にする様子もなく、言葉通りにキッチンの出口を目指していた。
歩く度、聳えた双肩が揺れる。
梓の目にはその乱暴な足取りが、部活そのものから去る紬の姿と重なって映った。
間違いなく、紬はこのまま退部するつもりだろう。

 だが──梓にそれを見過ごす積もりなどなかった。
紬の背に抱き付いて足を留め、叫ぶ。

「待って下さいっ」

 そうする義務があると、確信していた。
梓の胸の中で、その答えが出ていたのだから。
澪が律を抱いているように、唯が憂を抱いているように。
梓も、紬を両の腕に収めた。

「何よ。貴方だって、りしっこを信じているんでしょう?
私の事、見苦しいって思っているんでしょう?」

 体格で梓に勝るはずの紬は、抱擁を振り解こうとはしなかった。
だが、言葉にも声調にも、彼女の自棄になった心持ちが表れている。
手酷く糾弾された人間は、周囲全てが敵に見えてくるものだ。
それが自分を更に追い詰める事になると理解していても、
孤独が産む妄執は容易には消えてくれない。

 だから梓は、優しい声音で囁いた。
自暴自棄となった人間に、否定で突き放していては拗れる一方だ。
相手の言と尊厳を肯定しつつ、自分達の側へと流していかなければならない。

「いえ、見苦しいだなんて、思っていません。
確かに、りしっこを認めてはいます。
でも、それは、ムギ先輩の為なんですよ?」

「何を言ってるの?何処が私の為だって言うのよ」

 紬の口調には相変わらず険があるものの、語勢は落ち着きを取り戻してきていた。
紬を慮ってやった事が、功を奏したのだろう。
梓は紬を離すと、こちらへと身体を向かせた。
対面して、目と目を合わせて話す必要がある事だ。
態度の軟化している紬は、抵抗せずに従ってくれた。

「だって、ムギ先輩の振る舞ってくれたサフランが、尿と同等の訳がないですから。
いえ、物自体はどうでもいいんです。
私は、ムギ先輩の好意が、おしっこと同等だなんて耐えられないんですっ」

 訴えかけるように、梓は語尾に掛ける勢いを強めた。
併せて尿を俗語で表現した事にも、醸した幼稚さで不釣り合いを示す意図がある。

 自失の体で立ち尽くす紬から、怒髪の威勢はもう見えない。
声や怒りに留まらず、生気さえも失くしたかのような姿だった。
梓は澪や唯達に聞こえないよう、耳元で声を潜めて畳み掛ける。

「それは憂や唯先輩だって、同じ思いのはずです。
そういう配慮だって、りしっこを認めた背景にはあるはずです。
なのに、この事態の原因となる食事を振る舞った当のムギ先輩が、
その配慮を汲んでくれないから、あんなに怒ってるんです。
お願いです、ムギ先輩。私達の配慮を汲んで下さい。
ムギ先輩が振る舞ってくれた好意に、報いたいんです」

 紬の顔色は蒼白だった。
無理もない。この事態の全ての責任が、彼女の心に圧し掛かって拉いでいるのだろうから。
梓がそう突き付けたのだ。
貴方の為なのに貴方の所為なのに、自分だけ被害者を気取って好き勝手に怒るのか、と。

「ごめんなさい」

 消え入りそうな声が紬の青白い唇から漏れ出て、血の気の失せた頬を涙が伝った。
見ていられず、梓は再び紬の身体を抱き締めた。

「ごめんなさいっ」

 耳元を、紬の悲鳴が劈く。
顔を見ずとも、紬が泣いている事は嗄れた声で分かった。
そして今度は澪達にも、紬の声は間違いなく届いたはずだ。
間近で聞いた梓の耳道が、痺れと共にそう教えている。

「りっちゃん、ごめんね。私、どうかしてた。
折角作ってくれたのに、引っ繰り返したりしちゃって。
美味しいのにね、いい匂いなのにね。
りしっこ、だもの。汚いはずがないものね。
その事も、ごめんなさい。りっちゃんが、尿を出すだなんて、言い張って、
りっちゃんを穢してしまって、本当に、本当に、ごめんなさい」

 紬の絞り出す涙声が、未だ痺れている梓の耳に入ってくる。
尤も、痺れの原因は、音量のせいだけではないかもしれない。

 目論見通りだが、梓の胸は重かった。
実際には、この勝負を受けた者は他ならぬ自分である。
にも関わらず、梓は紬の好意をこの事態の原因として論い、彼女へと帰責させたのだ。
紬から譲歩を引き出すという目的は達したものの、
何らの引け目も残さぬような過程は辿っていない。

 梓はその重みから逃れようと、必要な犠牲だったと心に言い聞かせた。
惨烈な犠牲を強いる為政者が、大義を掲げて正当化するように。
加えて──自分にも責任があるからこそ、けいおん部の崩壊を手段問わずに阻止しなければならない。
それこそが責任の取り方だとする論理も、梓は紬を拉いだ手立てへの擁護とした。

 反面、紬がりしっこを認めさえすれば、澪や唯達も矛を収めるだろうとの確信があった。
その蓋然性を前提せずに、大切な仲間である紬に非道な駆け引きなど仕掛けはしない。

「なぁ、どうする?確かにムギは酷い事したけど、反省してるみたいだし。
お前が許すなら、私だって許してあげたいよ。
余人ならともかく、仲間なんだし」

 事実、律に語り掛ける澪の言葉からは、紬を許すよう促す含みが読み取れた。
梓が紬を翻意させた手段に言及する様子もない。

 澪達とて、紬の退部までは望んでいないのだ。
HTTを存続させていきたい思いだけは、
メンバー全員が他念のない本心から共有していると断言できる。
そして澪が主張を通しつつ部の存続も望むならば、妥協できる機は今しかない。
ここで過程にまで難癖を付けて、千載一遇の好機を逃したくはないだろう。

「りー」

 梓が算段した通り、律は澪の言葉に素直な反応を見せた。
上下に動く頭部も、紬への免罪を示している。

「当の律先輩が許すって言ってるんだもん。
私達が怒る理由なんてないよね?」

 律の意思表示を待っていた梓は、首を唯と憂へと振り向けて言った。
問いの形を取って、紬の赦免と場の和解を共有する確認の作業に過ぎない。
憂の衛生観念を守るという妥協点が満たされた今、姉妹が怒る理由はないのだから。

「ムギちゃんも過ちを認めてるし、いいよね?憂」

「うん、まあ。私だって、ちょっと言い過ぎたかなって、思ってるし」

 姉に促され、憂は歯切れの悪い声で頷いた。
思い返せば昨日、憂も梓と共に澪へ向けて挑戦的な態度を取っている。
紬を裏切ったように思えて、梓と同じく罪悪感を抱いているのかもしれない。

 昨日は中立を貫いていた唯の方が、割り切りは良いようだった。
罵った相手が紬だろうと澪だろうと、唯に負い目を抱く理由など見当たらない。
彼女は巻き込まれて、割りを食った形なのだから。
甘い物を奢ってやる程度では、贖いきれないだろう。

 思わず漏れそうになった苦笑を、梓は堪えた。
自分が信ずべき前提から考えれば、そもそも被害など誰にも出ていない。
唯が割りを食ったなどと、考えてはならない。
あれは”りしっこ”なのだから。

「さ、一件落着した事ですし。続きを頂きましょう。
お替わりだって、あるんですからね」

 気を取り直した梓は、紬の抱擁を解いて卓へと導いた。
戻る紬の足音は弱く、双肩が力なく垂れている。

「あ、じゃあ、ムギのは粧い直さないとな。
今度は食べてくれる、よな?」

 確認するように、澪が問う。
紬は満身創痍の体ながら、頭を縦に振った。

「ええ。でも、粧い直す必要はないわ。
勿体ないし、私の責任だもの。これ、頂くわね」

 紬は自席の卓上へと撒いた米飯を指差しながら言った。
彼女なりの誠意なのだろう。
汲んだ梓は、止める事なく自席に着いた。

「いいのか?」

 代わって、澪が問うた。
そこまでしなくても、という言外の思いがあるのかもしれない。

「ええ」

 紬は前言を翻す事なく短く答えると、引っ繰り返っていた皿を除けた。
そうして全てが露わになった米飯の前、紬の身体が椅子へと落ち着く。

「そうか。じゃあ、改めて。頂きます」

「りーっ」

 澪が宣して、律が続いた。
梓達も、倣って声を揃える。

「頂きます」

 芳しい香りと高貴な味を噛み締めながら、梓は紬を盗み見た。
紬は机に突っ伏して、スプーンを使わずに口で直接食べている。
彼女の瞳の端に、梓は涙の粒を認めた。

 そして向かいには、律と澪が座している。
泣きながら頭を垂らす紬の姿勢は、その二人に対して屈服と恭順を乞うているようだった。

 澪は律と微笑みを交わし合っていた。
紬を嘲っているようには見えない。
単に、律の成分が高価な香辛料に勝ると認められて、嬉しいのだろう。

 梓は米飯を頬張る口元に、律と澪に倣って笑みを浮かべた。
この価値を信仰すると決めた以上、梓はもう蒙昧だった頃の自分ではないのだから。
こちら側の、人間だ。


<FIN>