【だきつきだ】

唯「あっずにゃ~ん!」ギュッ

梓「にゃっ!?」

今日も唯先輩が抱きついてきた。
今日も、どころじゃないか。暇があれば一時間に一回とか、あるいは一時間ずっと私を抱き抱えっぱなしとか、とにかく頻度がすごい。
今の私達の関係上しかたないけど、今の唯先輩はそういう域に達している。もちろん唯先輩にもいろいろ用事がある時はあるから、一日中そのペースではないけど。
私自身にも愛情表現だというのは伝わっているからいちいちグダグダは言わない。けど、やっぱり必要な時はちゃんと言わないといけない。

梓「もう……唯先輩、今日は『出稼ぎ』には行かないんですか?」

唯「もうちょっとしたら行くよぉーうりうり~」

梓「はぁ……」

行ってほしいわけじゃない。けど、生きていくためには稼ぎが必要だ。
唯先輩がいない間は憂が私に構ってくれるから、寂しくはない。唯先輩も憂がいるから稼ぎに専念できるんだと言っていた。
唯先輩に収入の面を全て任せきっているのは心苦しいし、その間憂に手間をかけさせているのもまた心苦しい。
けど、それは仕方のない事なんだ。だって、

唯「じゃあそろそろ行ってくるよ、あずにゃん」

トン、と私の身体は床に降ろされる。
両手両足に平沢家の床の感触。その床が近く見え、天井が遠く見える、特有の低い視点。
それらは何も不思議じゃない。

だって、私は猫だから。



【だからこれは結局何もわかっていないというお話なんだ※ネタバレ】

私だって、おかしいとは思ってる。
人間だったころの記憶だってちゃんとあるんだから、おかしいとは思った。
でも、それは最初だけ。
何があってこんなことになったのか、思い出せないから。
思い出せないというか、もはやそこの記憶が存在しないような感じで、欠片すら見えないから。
だからきっと、私のそこにはぽっかりと穴が開いていて、その穴はこの猫の身体では飛び越えられないんだ。
向こう側へ渡る手がかりは全くないし、それどころか今のこの事態は正常な時の流れである可能性さえある。
例えば夢を見ている間だって現実の時間はちゃんと流れている。夢だと気づけば目覚めることもできるけど、目覚めなくても現実ではちゃんと朝は来る。なら無理して起きる必要もない。
そういうこと。

諦めたわけじゃない。
諦めなければきっと何かがわかる日が来るから、諦めないままこのまま生きていこうとしてる。
そういうこと。

実際、おかしいところはちょこちょこ存在している。

憂「あずにゃん、ご飯だよー」

梓「わーい」

例えば、憂が私をあずにゃんと呼ぶところとか。
今の私は猫なんだからにゃん呼びされるのも必然とも言えるかもしれないけど、そうじゃない。
この身体になってすぐ確かめた限りでは、憂の記憶には私の名前が『中野梓』であるという記憶すらないようだった。
『あずにゃん』という猫、という認識しかしていないようだった。
「猫が喋るのはおかしいと思わないの?」と聞いたら「あずにゃんなら喋るでしょ?」と返されたので、私はなんかもうよくわからなくなって追求をやめた。
私と過ごした桜校での生活も、きっと憂の記憶にはない。憂だけじゃなく、唯先輩にも。
そのことは寂しいけど、ものは考えようだ。
唯先輩と憂は私を完全に猫と見ている。人間から猫になった存在とは認識されていない、ただの猫。そう見られているということ。
つまり『この二人が私を猫にした』という可能性はゼロに近い。単純な被害者。そうわかりやすく考えるようになると、私はあっという間にこの二人に心を許してしまった。
桜高での記憶がなくても私を溺愛してくれている、というのも大きい。この二人は絶対に私に害を加えることのない、絶対的な味方だ。

ただ、私を害から遠ざけすぎる面もある。

梓「ういー」

憂「んー?」

梓「外に出たいんだけど……」

憂「ダメだよー、あずにゃんには外は危ないし。それにほら、今日も真っ暗」

憂がカーテンを開け、外を見せてくれる。
今日も変わらず、私がこの姿になってから何も変わらず、外は真っ暗だ。時計の針が夜を指しているわけでもないのに。
それに窓越しでも聞こえる、それどころか窓を揺らしているようにも見える、轟音。なぞの重低音。
ついでに雨まで降っているように見えた。黒い外に振る、白い雨が。
まったくもって理解不能な、得体の知れない『外』の光景は、それでも憂や唯先輩にとっては当然のものらしい。私も見慣れてはきている。
だから、というわけでもないが、私は時折こうして「外に出たい」と言う。

梓「でも、唯先輩だって出てるんだし」

憂「人間が人間の世界を歩くのでも、危険はそこかしこに潜んでるんだよ? 猫ちゃんが人間の世界を歩き回るのは危ないの」

梓「それは、そうかもしれないけど……」

普通に暮らしている人間だって、不慮の事故で命を落とす。なら、より小さくひ弱な猫なら余計に危険だという理屈はわかる。動物らしく夜目が利くとしても。
私なら人間の知識はあるから普通の猫よりは多少はマシだろうけど、その知識がこんな得体の知れない外で通用するかはわからない。
それでも、出歩いたほうがきっと手に入る手がかりは多い。今でもそう考える。ただ、その手がかりは命を賭けるほどのものなのか、それだけはわからない。
だから、最終的には憂の言葉に流される。

憂「お姉ちゃんだけでも心配なんだから、あずにゃんは家にいてよ……」

梓「……うん……」



【白の雨、黒の空】

カレンダーを見る限り、唯先輩は週に4日くらいは『出稼ぎ』に出ている。
何をしているのかは教えてくれないけど、憂が承認しているんだからいかがわしいことや危ないことではないのだろう。
できれば家でできる仕事にしてほしいというのは、私と憂の共通の見解だけど。
唯先輩はそれに対し「努力するよー」と答えながら、今日で今週4度目の出勤だ。残り4日は休日になるだろう。
そういえばなんでこのカレンダーは1週間が8日あるんだろう? 疑問には思うけど、誰に聞けばいいのやら。
表紙に『政府公認カレンダー』とか仰々しく書いてあるものだから、そういうものだろうと納得してしまったけど。

唯「たっだいまー」

憂「あっ、お姉ちゃん。おかえりー」

梓「おかえりなさい」

いつも16時頃、唯先輩は帰ってくる。朝の出る時間はまちまちのくせに帰りはほぼこの時間。どういう職場なんだろう。
でも16時に帰ってこれるということはかなりホワイトな職場なんじゃないかな。陽の落ちないうちに帰れるというのは。
……って、陽の光がないからその理屈は通じないのか。

梓「ちゃんと働いてきましたか?」

憂と一緒に玄関まで出迎えに行くと、唯先輩はちょうど雨に濡れた傘を傘立てに突っ込んでいるところだった。
透明の水滴が、玄関の床にいくつか落ちている。

唯「憂もあずにゃんも心配症だよぉ。大丈夫大丈夫」

そうは言うけど唯先輩ですからね、という言葉は飲み込んだ。
憂は心配しながらも唯先輩の自立自体は喜んでいるフシがあるし、私も日頃から唯先輩にはしっかりしてくださいと言い続けてきたし。
本人が大丈夫と言うのだから、そこは信用するべきだ。
とはいえ、やっぱり私が人の身であったなら、一緒について行きたいと思うんだろうな。
それが叶わないなら、唯先輩を素直に労うのが私達のすべきこと。

憂「おつかれさま。お風呂入る?」

唯「うーん、やっぱりまだ早いんじゃないかなぁ。どっこいしょっと」

靴を脱ごうと、唯先輩が腰を下ろしたその時だった。

ピンポーン

平沢家玄関のチャイムが来客を知らせた。

憂「あれ? お客さん?」

唯「はーい。どちらさまですかー」

脱ぎかけていた靴を履き直し、唯先輩が無警戒にとてとてと玄関に向かう。
結局のところ、その相手が無警戒で構わない人だったからいいものの……

とみ「唯ちゃーん、帰ってる?」

唯「あ、おばあちゃん!」

唯先輩が玄関扉を開けると、懐中電灯をくっつけた傘を片手で差し、もう片手にビニール袋をぶら下げたお隣のおばあちゃんが立っていた。
もちろん、平沢家のお隣さん、という意味だ。名前は……一文字とみさんだったはず。
この家に住み着くようになってから会う機会は増えたが、いつでも変わらず優しそうな雰囲気を纏っている。でもやっぱりこの人も人間だった頃の私――あずにゃんさん――の記憶は無いのだろうけど。
まあ、それは些細なことだよね。

とみ「おばあちゃん仲間からリンゴをたくさん貰っちゃったからお裾分けしようかと思ってねぇ。この時間にだいたい帰ってきてるから」

唯「ピッタリの時間だよー。いつもありがとう、おばあちゃん」

とみ「いえいえ。はい、これ、どうぞ」

唯「わーい」

梓「………」

おばあちゃんがリンゴの入ったらしき半透明の袋を唯先輩に差し出すのを尻目に、私は開けっ放しの玄関扉から外の様子を窺っていた。
唯先輩もおばあちゃんも傘を差していたんだから当然だけど、やはり雨が降っている。細く白い雨が。
目を凝らさないと見えないのは猫の身体だからだろうか。それとも雨ってそういうものだったっけ?
それに、あの時も聴いた謎の重低音もやっぱりずっと鳴り響いている。それなのに私達の会話には何故か一切影響を及ぼしていない。
これももしかして猫だけに聴こえる音? それとも元々そういうものなの?

憂「………」

梓「……大丈夫だよ、行かないよ?」

憂「……うん……」

憂は頷いたものの、私をずっと心配そうな目で見つめている。
少なくとも、私が外に興味を持っていることを何らかの形で危惧しているのは確かな、そんな目で。
少なくとも、外には私の知らない『何か』があるのだろう。単に私が知らないだけの大したことない『何か』かもしれないけど――



【針 呑む 白】

とみ「それじゃあね、唯ちゃん憂ちゃん、あずにゃんさん」

唯「うん、ありがとうね、おばあちゃん!」

憂「今度お礼に伺いますね」

梓「ありがとうございました」

とみ「気にしなくていいのよ。それじゃあねぇ」

おばあちゃんが踵を返し、背を向けて去っていこうとする。
唯先輩はそこで扉を閉めようとはせず、そのまま待っていた。おばあちゃんを見送るつもりらしい。
その時は、唯先輩らしいな、としか思わなかったけど

……その判断が功を奏することになる。

とみ「あっ」

全員が見た。
おばあちゃんがつまづき、転ぶ瞬間を。

たぶん私だけが見た。動体視力に優れる猫の瞳の私だけが見た。
それを見た瞬間の、唯先輩の行動の素早さを。

唯「憂! 救急車!」

憂「う、うん!」

憂のほうを振り返らず、そう指示を出して。
傘立てを一瞬だけ見て一番大きな傘を瞬時に掴み、これまでに見たことのない速さで走り、しっかり閉じられていた傘を手早く開きながら一瞬で倒れたおばあちゃんに駆け寄っていた。
唯先輩は短距離向きなのかなぁ、とかそんなことを考えかけたけど、唯先輩が駆け寄る直前に見たおばあちゃんの姿も私の眼は捉えてしまっていた。

針山に針を刺すように、白い細い雨が次々と地面に倒れたおばあちゃんの身体を穿ち、貫いていく姿を。

もっとも針山とは違ってそれは完全に突き抜けているように見えたけど、一瞬のことだったので定かではない。
本当に一瞬だけ。唯先輩が本当に一瞬で駆け寄ったから。

憂「呼んだよ! お姉ちゃん!」

唯先輩が頷いたのを確認すると、憂は玄関扉を閉めてしまった。唯先輩とおばあちゃんを外に置いたまま。
そんなことをする理由なんて、言うまでもなくひとつしかないけど。

梓「……憂、今のって……」

憂「……………」

梓「………えっと……そ、外は危ないってホントだね…」

憂「……あはは……でしょ?」

梓「……おばあちゃんは…?」

憂「大丈夫、助かるよ……お姉ちゃん、頑張ったもん……」

憂のその言葉は、多分に願望を含んでいるように聞こえた。
そんな憂に返す言葉にどれくらい悩んでいたのだろう、いくらか時間が経った頃、救急車のサイレンの音が外から聞こえ、すぐに唯先輩が戻ってきた。
ずいぶんと仕事が早い救急車だなぁと思ったけど、早くて悪いことなんてないか、よく考えたら。

梓「唯先輩……」

憂「おばあちゃんは……?」

唯「うん、大丈夫だと思うって言われたけど、とりあえずすぐに事情聴取の人が来るはずだからそこでまた聞いてみるよ」

梓「唯先輩、あの……」

唯「……あずにゃんにも教えておかないとね。別に隠してたわけじゃないんだけど……」

憂「でも、見なくて済むならそれがいいと思ったから……」

梓「………」

結局隠してたようなものじゃん、と言い返せる精神状態じゃなかった。一瞬のこととはいえショックは隠せなかった。
だから、憂の言う通り見なくて済むならそれが良かったんだろう。
二人は私を大事にしてくれただけだ。そういう意味でも何を言い返せるはずもなかった。



【顔のない男はそれでもヒトだった】

男「あー、すいません。お早い連絡、ありがとうございましたぁ」

しばらくして現れた『事情聴取の人』は、ガスマスク付きの防護服のようなものに雨合羽という一見異様ないでたちをしていた。
唯先輩達は見慣れたもののようだったけど、私はその人が胸ポケットから警察手帳のような身分証明証を見せるまで警戒しきりだった。
ちなみに身分証明証を見た感じ国家公務員らしい。

唯「いえ……あの、それよりおばあちゃんは…」

男「ああ、大丈夫でしょう。意識もちゃんとありましたし、一週間も休めば元の生活に戻れますよ」

憂「よかったぁ……」

男「それでですね、まあ本人の証言もありますし何の問題もないと思うんですが、事故当時の様子をお伺いしたくて」

唯「はい……といっても、おばあちゃんがうちにリンゴを届けに来てくれて、その帰りに足を滑らせた、としか言いようが無いんですけど……」

憂「あ、そこです、ちょうどそのあたりで」

男「ふむふむ。本人の証言とのブレもないですね。当然ですが。ご協力ありがとうございました、一人のヒトを救った行動に、私は敬意を表します」

唯「おばあちゃんは大切なお隣さんですから」

ガスマスクで見えないけど、たぶん男の人は微笑んだんだと思う。
深々と頭を下げ素早く玄関から去っていったその人の背中を、唯先輩の視線は追わず、早々に玄関扉を閉めてしまった。



【駄目と無知】

唯「……さて、あずにゃん。何から説明すればいいかな? あまり根本的なことは私達にもわからないんだけどね」

梓「……根本的なこと、と言いますと?」

唯「うーん、いつから雨が降り出したのか、とか? お父さん達から聞いた気もするんだけどどうしても思い出せなくて」

憂「帰ってきたら聞いてみようとは思うんだけど」

唯「とりあえず、私の記憶にある限りでは空はずっと雨模様ばかりだけどね!」

梓「そうですか……」

そこまで触れるつもりは元々なかった。知れるなら知りたいけど、なんとなく今の『起源』というものに触れようとすると壊れてしまいそうな気がしていた。
だから私は、私がいつから唯先輩達と一緒にいるのかを本人達に尋ねたこともない。
私の中では『目覚めた時から』だけど、その時点で自然に家猫として扱われていたから、二人にとって私はもっと前から居る存在なのだろう。
そして、前からずっと家の中だけで飼われている存在。そんな『外を知らない私』は『何処』から来たのか。
それを二人の前で明らかにすると、何かが壊れてしまいそうな気がしたんだ。
もっとも、唯先輩に聞いたなら「わかんない」「忘れた」で済まされてしまうだけのような気もするけど。

梓「じゃあ……そもそも『雨』って何なのか、はわかりますか?」

とりあえず、そこを聞いてみようと思った。
唯先輩は今、記憶ではずっと雨、と言っていた。つまりずっとこの雨が降り続いているという事。
私の記憶の中の雨とは違う恐ろしい雨が。
まずはそれが何なのかを、聞ければ聞いておきたかった。

唯「……詳しくはわからない、ごめん」

憂「ただ、見ての通り……危ないものなんだよ、あれは」

梓「……身体を貫くほどの雨、だもんね」

憂「「あれ」?」

梓「? 違う違う、「あめ」」

憂「…? じゃああずにゃんは今「身体を貫くほどの あめ」って言ったの?」

梓「うん? そうだけど……?」

憂ともあろう人が聞き間違いでこんなに食いついてくるなんて…?
と、少し考えて気づいた。そうか、憂達にとって「あめ」っていうものは……

唯「あれは、空から降ってくる時は白いんだよ。キラキラと綺麗すぎて白くて、まるで眩しすぎる光みたいで、何も寄せ付けないまま汚い私達を貫いてしまうんだ」

梓「……唯、せんぱい?」

唯「貫き尽くして、真っ白に浄化してしまうんだ」

梓「……あの……」

唯「……って前にお父さんが言ってたのは覚えてるんだけどねー、詳しいことは忘れちゃったよ」

梓「ああ、そういう……」

一瞬唯先輩が遠くに行ってしまったのかと思ったけど、そんなことはなくてホッとした。
しかし、憂はともかく唯先輩はわかっているんだろうか、その『浄化』が意味するところを。
自らを汚いと定義する意味はよくわからないけど、いや、浄化という表現にしたいから汚いと定義したのかもしれないけど、どちらにせよ『浄化』の示すところは生物としての『死』のはず。
憂は大丈夫だろうけど、唯先輩はそれをちゃんと――

唯「ん? どしたの、あずにゃん」

梓「いえ……」

ううん、やっぱりわかってるのかな。
わかってないと、あんな素早い動きは出来ないもんね。
単純な結論だ。死なせたくないから動いた。それだけだよね。

憂「……それでね、そんな雨を防ぐのがもちろん雨具というわけ」

梓「傘とか、さっきの人みたいな雨合羽とか?」

憂「そう。あずにゃんにはそういうの無いから尚更外には出せないんだ……」

梓「……ちゃんと引き留めてくれてありがと、憂」

きっと私が無理矢理出ようとしたなら身体を張ってでも止めてくれたんだろうな、憂は。

憂「……ううん、どうせこうやっていつかは知ってしまう事なら、最初から説明しといたほうがよかったのかも。ちゃんとなんて出来てなかったよ、私は」

梓「どうだろう……私は頭が固いから、こうやって目の当たりにするまでは信じなかったかも。聞いてしまったらむしろ確かめたくなって、余計に外に出たがってたかもしれない」

憂「それは……」

唯「そんなのダメだよぉぉぉぉあずにゃあああん!!」

梓「にゃっ!?」

ダイブするように全力で抱きつかれた。く、苦しい……
っていうか……全くもう、この人はいつだって何だって唐突なんだから。

梓「……大丈夫ですってば」

唯「そお?」

梓「はい。外には出ません、絶対に」

仮に雨具があったとしても、この二人を心配させるくらいなら外には出ないだろう。
長靴どころか雨合羽を被った猫として話題になるのも望んではいないしね。

梓「……あれ、でもさっき唯先輩の傘から滴っていた水滴は普通の水みたいでしたよね?」

唯「へ? そりゃそうだよ。雨具って雨を弾いたり受け止めたりして水滴にする道具でしょ?」

梓「う、うーん、そう言われるとそうなんですが……」

そこに疑問を持っている私の方がおかしいんだろうか。
いや、おかしいんだろうな。唯先輩達にとって、雨とは知ってる限りずっと『こういうもの』なのだから。
そうじゃない雨を知っている私の方が異端なんだ。ただ水滴が降ってくるだけの雨を知っているほうが。

梓「あ、じゃ、じゃあもうひとつ。このずっと響いてる音は何なんですか?」

憂「この「ゴゴゴゴゴ」みたいな音?」

梓「そう、それ。よかった、憂達にも聴こえてるんだ……」

憂「これはね、地面に開いた穴を塞いでる音だよ」

梓「穴? どこに開くの?」

唯「それはもちろん、雨が降ったところだよ」

梓「ああ……なるほ…ど?」

人を貫く雨が、地面までも貫いているということだろうか?
でもさっき見た時には穴なんて見えなかったけど……

唯「自然ってすごいよねー、開いた穴を一瞬で塞いじゃうんだから」

梓「え、っと?」

憂「塞ぐというより再生しちゃうって言った方がいいのかな? 雨で穴が開いたその瞬間からもう再生が始まって、一瞬で終わるらしいよ」

梓「へ、へぇ……」

唯「ヒトじゃこうはいかないからねぇ」

憂「地球も生き物だとか、動いてるとか回ってるとか言うでしょ?」

梓「う、うん……」

それらはちょっと違う意味なんじゃないかなぁ、なんて野暮ったいことは言えなかった。
野暮というか、いまや私の中だけのものとなった常識を押し付けてもしょうがない。
とにかくこの音は、地球の細胞レベルの活動の音みたいなものらしい。……ちょっと気持ち悪い。

梓「……地球は再生できて、でも人間は再生できなくて……あ、じゃあこの家とかは…?」

唯「うん? どういうこと?」

梓「あ、いえ…なんでもないです」

家も、言ってしまえば「風雨を防ぐためのもの」だし、雨具みたいな立場なのだろう。
もはやこの世界だと道具のような非生物のほうが雨には強そうな気もする。
でも基準が唯先輩の言うような言葉遊びレベルの単純なものだった場合、水を餌とする植物なんかも外では生き延びていそうだ。
しかし、水を吸う性質のあるはずの地面には穴が開く。すぐ塞がるけど。
ああもう、やっぱり何がなんだかわかんないかも……

梓「……ま、いっか。別に外には出ないんだし」

悩んだけど、私は結局そういう結論を出した。
雨の謎より、この世のどんな謎より、二人との約束のほうが大事だ。



【赤リンゴ・紅リンゴ】

憂「お待たせー」

一通り話が終わると、憂がリンゴを剥いて切り分けてきてくれた。
リンゴ2つ分くらいの量だろうか、それぞれのお皿に三等分されて差し出されたそれは、はい、実に美味しそうです。
猫が食べていいのかは私の知識にはないけど気にしない。というかこんな美味しそうなのを食べないわけにもいかないし。

梓「いただきまーす」

唯「んー、おいひいぃぃぃぃぃ!」

梓「ほどよく甘くてみずみずしくて……すごいですね、これ」

憂「ホント、すごい……」

唯「おばあちゃんに感謝だねぇ」

憂「……また今度、ちゃんとおばあちゃんにお礼言わないとね」

唯「そうだね……今度会った時に、ね」

梓「………」

話の流れで私はちょっとしんみりしてしまったけど、二人はそんな私を察してか知らずか、その日を待ちわびるような笑顔を見せてくれた。
信じよう、ということだろう。どのみち私達にはそれしか出来ないけど、どうせなら前向きに、思いっきり信じたほうがいいに決まってる。
そう考え、私も笑おうとした。が、それを能天気な唯先輩の言葉が遮った。

唯「あれ、あずにゃんのリンゴ、少し皮が残ってるよ」

憂「えっ、ホント!? ごめんね、もう一回剥いてくるから」

梓「い、いいよちょっとくらい。身体に毒ってわけでもないんだし。……っていうか、どこにあるんですか?」

唯先輩のほうから見えそうな面をぐるりと見渡してみたけれど、どこにもそれらしき色は見当たらない。
というか、全部見てもどこにもない。

唯「ほら、そこ」

梓「どこですか」

唯「そこだってばー、あ、今目の前」

梓「えー?」

唯「ここ! ここ!」

憂「あ、あの……剥いてくるから……」

梓「それはいいってば」

唯「もーらいっ」

梓憂「「えええええええええ」」

ひょいぱく、と目にも留まらぬ速さで唯先輩は皮が残っていた(らしき)リンゴを食べてしまった。
え、なんで?

梓「どうして今の流れで唯先輩が食べちゃうんですか!?」

唯「いやー、こうすれば憂もあずにゃんもこれ以上気を揉まなくて済むでしょ?」

憂「すごい理論だね、お姉ちゃん……」

梓「……自分が食べたいがために嘘吐いたんじゃないでしょうね? 憂は皮、見えた?」

憂「ううん…こっちからは見えない場所だったから。でも急いで剥いたから剥き残しはあってもおかしくなかったと思うよ」

唯「さすがにそこは信じてよー! ほら、リンゴいっこあげるから!」

梓「……いただきます」

実際のところ、仮に嘘でも責めるつもりはないし、それにこうして私に譲る分のリンゴが唯先輩のお皿の上には残っていたわけで嘘を吐く理由もないんだけど。
……私のリンゴを食べることに意味があった、とするなら別だけど、まあ何にせよこうしてプラマイゼロになったなら私から言う事はもう何もない。
いやむしろ、唯先輩からリンゴを貰った、と考えることができるだけプラスだろうか。なんてね。



【私の手が届く範囲は】

リンゴを食べ終えた私達はそのまま床に川の字に並んで横になっていた。
二画目がずいぶんと短い川の字だけど。

梓「……憂が片付けを後回しにするなんて珍しいね。疲れてる?」

憂「んーん、そういうのじゃないよ。ちょっとだけこのままで、ね」

唯「ねー」

梓「……狭い……」

でも、これは多分私のためなんだと思う。あんな光景を初めて目にしてしまった私のことを気遣ってくれてるんだ。
まあそんなの無くても抱きついてくる可能性のある二人ではあるけど。
実際、左を向いての唯先輩、右を向いての憂、共に深慮など覗かせないいつも通りの笑顔にも見える。

梓「あれ?」

と、そのいつも通りの笑顔に、少し違う点を見つけた。
笑顔にというか、正確には顔に、だろうか。

梓「唯先輩、何か水がついてますよ?」

立っている時、座っている時は気づかなかったが、寝転んで横になったことで流れた髪の毛の根元あたりが少し水気を帯びて光っていた。
多分汗だろうな、と思いつつ、今のこの二人の行為を気遣いだと信じている私はそれに応える意味も込めて、それを舌で舐め取った。

憂「っ……!」

舐め取る直前、憂が息を呑んだのが聞こえた。
舐め取った時、唯先輩は顔を歪めた。

決して照れなどではなく、苦痛に耐えるような、そんな感じに。
猫のザラザラの舌で舐めるのはやめたほうがよかったかな、と思ったけど、時既に遅し。

唯「あ、あはは……さっきかな、走った時……」

憂「お姉ちゃんっ」

梓「………」

その水の味を認識した時。
私は、このままではいけない、と強く思った。

糸冬