深夜の住宅地だと言うのに、そんな事も勘案しない様なちょっとばかり勇ましい排気音。
このアパートの壁は以前家族と住んでいた家の様にきちんとしたものでないので、
あの車が近づいて来ると家の中にいても分かるのは少しだけ便利。
隣人や階下の住人達に取っては迷惑だろうけど。
停止されるエンジン。
それが、行動開始の合図。
私は既にクローゼットから出して床に広げてあったムートンのダッフルコートに袖を通し、
トグルを上までしめてフードを被る。
こうして、冷気を遮断すれば氷点下近いこの真冬の気候も気にならない。
それに私が誰かも分かりにくい。
大家さんに色々言われるのも面倒臭いもんね。
私は、しっかり戸締りをしてアパートの階段を降りる。
アパートの前にはあの排気音の発生源である大柄で伸びやかな形をしたクーペ。
止めたばかりのエンジンはまだ冷えていないのか、
チンチンと言う音を立ててこの寒さにその身体を馴らそうとしている様だった。
?「いつ見ても綺麗な車…」
とはいえ、バンパーやドアの下回りに目をやると、
ちょっとしたへこみやタッチペンで塗っただけの到底修復したとは言えない様な擦り痕が、
ざっと見ただけでも幾つも見つかる。
?「あ、新しいの…」
そんな意地悪な発見をしながら、私がドアノブに手をかけようとすると、内側からドアが押し開けられる。
?「どうぞ、お嬢さん…、っと」
運転手は私を紳士的に?エスコートしようとしてくれたのだろうが、
その小柄な身体では運転席から助手席のドアを開けるのは中々大変だったようで、
必死で体全体を伸ばしてドアを押し開く姿の愛しさに私は胸を熱くする。
憂「無理しないで、お姉ちゃん」
唯「えへへ、りっちゃんみたく格好よく決めようとしたけど無理だった」
私は一瞬キョトンとして、お姉ちゃんはそのキョトンとした私を見てキョトンとして、
それから私たち二人は顔を見合わせて笑う。
住宅街からバイパスに出る交差点をお姉ちゃんは乱暴にハンドルを切って、アクセルを一気に踏み込む。
私はしっかりシートベルトをしていたけども、予想外の横Gに大きく身体を振られてしまう。
唯「あ、ごめん」
私は少し厳しく注意をする。
憂「もー、こんな運転だからまた擦りキズが増えちゃうんだよ?」
唯「憂ー、厳しいー、りっちゃんは別にそんな事で怒らないよー」
憂「律さんは、お姉ちゃんに甘いから」
お姉ちゃんは口を尖らして
唯「車を乱暴に扱うのもロックスターっぽさだもん」
私がその言葉には取り合わないものだから、お姉ちゃんの抗議の声も尻すぼみになる。
唯「って、りっちゃんが言ってたしぃ・・・」
憂「はいはい」
唯「ぶー」
せっかくのデートなのに機嫌を悪くさせちゃったかな、と思ったけど、
数秒後にはお姉ちゃんは何も無かったかの様に鼻歌を歌いながらの片手ハンドル運転。
それがお姉ちゃんの良いところ。
・・・。
あ、聞いた事のないメロディー…。
憂「ね、お姉ちゃん」
唯「んー、何ー?」
憂「それ新曲?」
お姉ちゃんは視線を移動させず前を見たまま、でも新しい曲である事に私が気付いた事が嬉しかったのか、口元を緩めて
唯「まだ、内緒だよ?あずにゃんにもデモを聴かせてないんだから」
私はそのちょっとした優越が嬉しい。
憂「そっか、じゃあ聴いたのは私が第一号と言う訳だね」
唯「そうそう、憂は何時だって私の一番の評論家と言う訳さ」
私はお姉ちゃんの言い回しがおかしくてクスクスと笑う。
憂「えー、でも私の言葉なんか聞かなくても大丈夫でしょ?」
唯「そんな事ないよー。憂の言葉でいつも勇気付けられてるよー」
私は、それがお世辞でも嬉しいので、フフっとなって
憂「お姉ちゃんの曲が一部のアンチ以外に悪く言われてるのなんて聞いた事も見た事もないよ」
唯「これでも結構悩んでるんだよー?」
その言葉を発した時、お姉ちゃんは口ではおどけていたけども、目は笑っていない。
私は何となく視線をお姉ちゃんの全身に移して、それで毛先がちょっとだけ傷んでいる事に気付く。
憂「あ、枝毛。ちゃんとコンディショナー使ってる?」
お姉ちゃんはそこで答える様に鼻を一すすりする。
けれど、お姉ちゃんから明確な返事は帰ってこない。
唯「…、うーいー…、起ーきてー、ねえ、憂ってばぁー」
何時の間にか寝てしまっていたらしく、私は揺り動かされて目を覚ます。
あの運転の横で眠ってしまうなんて、どうやら自分が思うより社会人と言うのは疲れているものらしい。
憂「あ、ごめん寝ちゃってた・・・」
お姉ちゃんは、気分を害した様子もなく外を指差す。
唯「着きました」
窓の外を見ると、そこは冬の海だった。
ダッシュボードの時計を見ると6:30前。
水平線の向こうから太陽が上ろうとすると言う事もなく、薄暗い。
どうやら今日も曇り空らしい。
砂浜に寄せる波が作り出す白い泡はまるで雪の様で、ますます冬の寒さを強調する。
何時の間にか先に車外に出たお姉ちゃんは風に吹かれながら、立っていた。
着ているモッズパーカーの裾も随分大きく翻っていて、お姉ちゃんは今にも吹き飛ばされそうに見えたけど、
しっかりと地面に根をはったかの様に身体はビクともしない。
憂「寒そう…」
お姉ちゃんは水平線の向こうを見てたけど、ふとこちらの方に向き直ると口をパクパクさせる。
この大柄なスポーツカーは高級車らしい高い遮音性を発揮してくれたので、お姉ちゃんの声も聞こえない。
でも、私には何と言っているか分かるよ。
だから、ドアを開けて私も冬の海岸に出る。
風がビュワーっと吹いて来て、私は思わず「寒っ」と声を上げてしまう。
お姉ちゃんはそんな私を見ておかしそうにする。
唯「もー、憂ってば私より全然暖かそうな格好してるのに」
憂「急だったから驚いただけだもん…」
唯「じゃー…、えいっ」
お姉ちゃんはモッズパーカーのポケットから手を出して私の頬にピトっと触れる。
憂「ひゃっ」
お姉ちゃんは、私の反応が思った以上だったのか、今度は思い切り噴き出す。
唯「う、憂ってば、ひゃっだって、あははは…」
憂「うー、そんなイタズラ…、もう子供じゃないんだよっ」
唯「だ、だってぇ…」
お姉ちゃんは、笑いすぎて目尻に浮かんでいた涙を拭う。
私は仕返しに同じ事をしてやろうかと思い手を伸ばすが、お姉ちゃんが身構えたので、
私は思い直してお姉ちゃんの手を取ると自分の手と一緒にポケットに突っ込む。
憂「ね、歩こっ?」
お姉ちゃんは予想と違う私の行動に一瞬びっくりした様な顔をしてから、
笑顔になり頷き、そこでまた思い出した様に鼻を一すすりする。
お姉ちゃんは、ジップを上まで閉めていても寒いようで何度も身体を震わせている。
憂「もっと暖かくしてくれば良かったのに」
唯「こんな寒いとは思わなかったんだよー。それに最近車での移動が多いからあんまり暖かい服持ってなくてさ。
これだって、あずにゃんのを勝手に持って来たやつなんだよ?」
私はその言葉にちょっとすげない返し方をしてしまう。
憂「暖かい服買えば良いのに」
唯「それはそうだけどさー」
お姉ちゃんがかまって欲しそうに拗ねた顔を見せた事に満足した私は一つの提案をする。
憂「じゃあ、今度二人で買いに行こっか」
お姉ちゃんは満面の笑顔を浮かべて私の言葉に応える。
唯「うん」
お姉ちゃんは鼻をまた一すすり。
結局、この約束は未だ果たされていない。
・・・
ムギちゃんが私の身体に手を回す。
単純な別れの挨拶で無いことに私はドキリとする。
ここは空港で大勢の人の前だよ、ムギちゃん!って。
ムギちゃんは私のそんな心配をよそに耳元に唇を寄せる。
紬「ね、私が帰って来た時にHTTが無くなってたりなんて事・・・、ないよね?」
唯「え・・・?」
その何気無い、でも予想外の一言にちょびっとの悪意を感じて、
だけどムギちゃんの表情が見えなかったので、私にはその直感が正しいかどうかは分からなかった。
だから、私はムギちゃんの言葉の真意を知りたくて、問い尋ねようとする。
ちょっと待って!
本当に悪意が込められていたらどうするの?
え!?
その一瞬の瞬巡のせいで間に合わなくて、ムギちゃんは何時ものあの穏やかな笑みを浮かべたまま、
飛行機搭乗口の方に消えていく。
唯「あ、待って・・・」
私の言葉は手を振りながら移動式通路で遠ざかって行くムギちゃんには届かない。
ムギちゃんを追いかけようとする私を、友人が引き留める。
澪「唯、行くよ」
唯「澪ちゃん・・・」
澪「ん、何?」
唯「何でもない・・・」
澪ちゃんは苦笑して、
澪「ショックなのは私も一緒さ・・・」
律「おーい、早くしないとムギの飛行機見送れないぞー?」
随分先に行っていたりっちゃんが、私たちに呼び掛ける。
澪「律もああ言ってる」
唯「う、うん・・・」
そして違和感を共有していないみんなに促される様に、私は見送りゲートを後にする。
あの時、ムギちゃんはどんな顔をしていたんだろう。
私は未だに考えている。
・・・
梓「ゆ、唯せんぱぁーい・・・」
唯「あずにゃん・・・、そんなに泣かないで・・・。これからだって私たちは変わらないでいられるから・・・」
あずにゃんは私にしがみつく様にして泣きじゃくっている。
私だって泣き出したかったけど、私が泣けばあずにゃんがもっと辛くなると思って、
私は必死で涙を堪えてあずにゃんの頭を撫でてやりながら、気休めの言葉を紡ぐ。
りっちゃんはちょっとイライラした様な表情で、澪ちゃんはただひたすらに当惑している様だった。
今時、親がミュージシャン志望を許さないってのも、大学卒業でそれに従わなきゃいけないってのも無いと思うけど、
あずにゃんのお父さんとお母さんは若い頃にツアーミュージシャンみたいな事をしていたんだって言うから、
説得力もあったのかもね。
唯「・・・」
よし、大丈夫。
色々考えてたら、私の中の混乱は少し収まりをみせてくれた。
人生は様々に移り変わって行くものだけど、私たちが高校卒業で「これからもHTTを続けて行こうね」って約束した時には、まさかこんな風になるなんて思わなかった。
例えば、プロになれなくて結局就職して、それで結婚なんかしちゃったりして各々家庭を持ったとしても、
みんな何となくずっと一緒にいられるもんだと思ってた。
人生って全然上手くいかない。
唯「あ、あずにゃーん!」
私は結局我慢し切れなくなってあずにゃんを抱き締めながら泣いてしまう。
私が当の本人よりも大泣きしてしまったので、その事が逆に諦めをつけさせてしまったのか、
あずにゃんは涙を拭いながらも電車に乗って去って行く。
もし私が泣き出したりしなければ、あずにゃんはお父さんお母さんの言い付けに背いてくれたりしたかな?
・・・
唯「ねえ、りっちゃん来ないし先に少しだけ合わせない?」
いつもは言われる側だけど、時には私だって練習をしなきゃって気分になる事もある。
直前のライブが三人編成になってから一番の出来だったんだよね。
それにー、物販で持ち込んだCD-R50枚を全部売り切れた!
それで、パンツを一本とカットソーを一枚買ったのです。
えへへ。
そんな訳で私は凄くやる気になっている。
澪「あー、うん。でも、律が来るまで待ってくれないか」
私から練習しようと言い出すのも珍しければ、それに応じない澪ちゃんも珍しい。
こう言うの、何て言うんだっけ。明日は雪だね、だっけ?
要するに嵐の予感。
そこにりっちゃんが次のライブの打ち合わせに少し手間取ったとかで、少し遅れて入ってくる。
澪ちゃんは表情を堅くしたまま立ち上がる。
澪「なあ、バンドミーティングしないか?」
まさか、上手く転がり出した時に辞めるって言い出すなんて思わなかったので、
最初私は澪ちゃんの言葉の意味がまったく分からなかったんだけど、
要するにこれは「辞めようと思うんだけど」の言い換えって事らしい。
りっちゃんがジョークで、怒りや落胆を必死で誤魔化しながら引き留めようとしてたけど、無理だった。
澪ちゃんは私たちに一瞥をくれてスタジオを去る。
自らの半身とも言える親友の突然の変節にショックを受けたりっちゃんは茫然自失の体で、
追いかける事なんて到底出来る様子じゃない。
それなら、私が変わりをするよ。
今度こそ上手くやるんだって、私は澪ちゃんが置いていったエリザベスを肩に下げると澪ちゃんの下宿先に駆け出す。
澪ちゃんは私たちの中で一番綺麗なアパートに住んでいる。
心配性な澪ちゃんらしく、ちゃんと入り口にオートロックの付いた物件。
部屋番号をプッシュしてインターフォンを鳴らしても澪ちゃんは出てくれないし、
ロックも空けてくれないので私は待ち伏せして、他の住人が出入りするのに合わせて闖入する。
澪ちゃんの部屋の前まで行ってドアフォンを鳴らしても出て来ない。
二度三度鳴らしても出て来ない。
だから、本当に不在なのかと思ったけど、覗き穴の向こうに瞳の気配を感じたのでやっぱり居留守なんだと分かる。
Kickin'on heaven's door.
私は覚悟を決めてドアを思い切り蹴飛ばす。
一度蹴っても出て来ない
だから、続けて二度三度。
七度目のキックをしようと構えたところで扉は開かれる。
唯「あ、澪ちゃんがエリザベスを忘れてたと思ったから・・・」
当人を前にして、頭の中でリハーサルしていたやり取りを再現出来ず、私は結局しどろもどろになってしまう。
それでも、澪ちゃんは私の意図を組んでくれた様で部屋に上げてくれて、おまけにインスタントのコーヒーも淹れてくれる。
だけど、戻って来てはくれないんだ。
澪「HTTが続いていたら、戻る事もあるかも知れないよ」
澪ちゃんらしい慎重な言い回し。
少しだけ時間を置きたいって事だよね。
良いよ、りっちゃんと二人だって、ちゃんと私たちは続けて行くよ。
最終更新:2013年05月25日 23:02