◆通学路
帰り道、あれ? と思い立ち止まりました。
今日はバレンタインデー。
大好きな先輩がたに日頃のおかえしをしたくて、チョコケーキを作って持って行きました。
なんとなく気恥ずかしくて、なかなか切り出せないでいると、ムギ先輩が助け舟を――
紬「ごめんなさい。私は用意してないんだけど…」
紬「代わりに梓ちゃんが用意してくれたみたいだよ?」
察しのいいムギ先輩のことだから、私の様子を見て、
チョコレートを持ってきていると気づいたことは想像し難くありません。
おかげで先輩方に喜んでもらうことができました。
でも、ムギ先輩はいつからそのことに気づいていたのでしょうか??
昨日の部活のときでしょうか?
今回の計画はずっと前から決めていましたから、
そわそわしている私に気づいていたのかもしれません。
だけど、チョコケーキ作りに失敗していたら?
私はお菓子づくりが決して上手ではありません。
今回だって憂と一緒じゃなかったら成功していたかどうか……。
梓(ムギ先輩なら私がお菓子作りに失敗したときに備えて、チョコレートを持ってきていたはずだ)
バレンタインデーの今日、唯先輩がチョコレートを無心するのはわかりきっていたことです。
ムギ先輩が唯先輩を失望させるような状況を作るとは、とても考えられません。
そしてあの言葉……。
紬「忘れ物をしてしまったから部室に戻から。みんなは先に帰ってね」
奇妙な確信がありました。
それと同時にいやな感じのざわつきが私の心を支配しました。
梓(ひょっとしたら今頃部室で、自分の持ってきたチョコレートを食べてるんじゃ……)
◆部室
ガラッ
梓「ムギ先輩?」
紬「あら、梓ちゃん」
紬「いらっしゃい」
梓「ムギ先輩……?」
予想通りムギ先輩は部室に独りでいました。
でも机の上にはカップが2つ並んでいるだけ……2つ?
梓「ムギ先輩、なにをしてるんですか?」
紬「梓ちゃんを待ってたの」
紬「……あ、これのこと? これはカップにお湯を入れて温めてるの」
紬「やらない日も多いんだけど、今日はバレンタインデーだから、ね」
状況に頭がついてきてくれません。
独りでチョコレートを貪っているムギ先輩がいるんじゃないかと心配して部室にきたら、案の定先輩がいて。
でも、先輩は紅茶を入れる準備をしていて。
これってどういう……。
紬「梓ちゃん。ふたりっきりでお茶会してもらえませんか?」
紬「今お茶を淹れるからちょっと待ってね」
梓「ムギ先輩は、どうして私が来るってわかったんですか?」
梓「約束なんて、してませんよね」
紬「梓ちゃんは帰り道にこう考えたんじゃないかしら? 『ムギ先輩が保険をかけていないわけない』って」
紬「部室にものを忘れたと言い訳をして、独りで『保険』を処理してるんじゃないかって、そう考えたんじゃない?」
梓「はい」
紬「もう、先輩を食欲魔人みたいに思ってるんだから。かわいくない後輩ね」
梓「そんな! 私は別に!?」
紬「あらあら、ちょっとした冗談よ」
紬「梓ちゃんはやさしい後輩よ。私が保証するわ」
紬「さあ、お茶が入ったわ。温かいうちに飲んで」
やっぱり、今日のムギ先輩はちょっと変です。
紅茶から柑橘系の香りが漂ってきます。
鼻の奥をツンと突くようなこの匂いは間違いなく檸檬の香りです。
梓「……レモンティーですか?」
紬「いいえ、レモンバームティーよ」
紬「レモンバーム。別名であるメリッサのほうが有名かしらね。ハーブの一種なんだけど檸檬と同じ香りがするの」
梓「おいしい」
梓「檸檬の香りなのに、特有の酸味も渋味もないんですね」
紬「うちの庭で採れたレモンバームを乾燥させてお茶にしたの」
紬「思った以上に美味しかったから梓ちゃんにも飲んでもらいたいなって思って」
梓「ところでムギ先輩」
紬「なぁに?」
梓「どうしてあんな周りくどいことしたんですか?」
梓「ムギ先輩の勘が鋭いのはわかります。でも私がそのまま帰ってしまう可能性だってあったはずです」
梓「そんなことしなくても、直接誘ってくれれば……」
紬「賭けだったのよ」
ムギ先輩はレモンバームティーを一口すすりました。
紬「レモンバームティーの花言葉は同情」
紬「私が梓ちゃんに感じているのは、それとは全く違う感情」
紬「梓ちゃん、あなたはどっちかしら?」
ムギ先輩ほどには人の心が読めない私でも、何を言いたいかはわかります。
これはひどく遠まわしな愛の告白です。それも私に向けられた。
なぜ私なのでしょうか?
ムギ先輩はなんだかんだでノーマルだと思っていましたし、
仮にそうじゃなくても、その想いは唯先輩に向けられるものだと思ってました。
だから告白されるなんて思ってもいなくて、
心臓はうるさくて、脈は不規則で、
顔は真っ赤になってしまって、
私は答えにならない答えを出してしまいました。
梓「今週の日曜日、デートに行きませんか?」
紬「デート?」
梓「はい! デートです」
紬「ありがとう梓ちゃん」
紬「私、後輩とデートに行くのが夢だったの~」
やっといつものムギ先輩が帰ってきた気がしました。
紬「やっぱり、梓ちゃんはやさしいのね」
そうでもないかも。
◆梓宅
デート前日、ベッドの上で考えていました。
なんでムギ先輩をデートに誘ってしまったんだろうって。
私はムギ先輩が好きです。
ムギ先輩は優しくて、気配りができて、ちょっとお茶目で、とても可愛い人です。
尋常じゃないくらい良い匂いもします
でも、その好きは唯先輩や律先輩に向けられている好きと同じはずで。
ムギ先輩の好きとは全然違うはずです。きっと。
もしも、もしも明日のデートで答えを求められたら私はどうすればいいんでしょうか。
何らかの答えを出さなきゃいけないかもしれない……………………………………
……………って、デートに誘ったの私からだ!! デートプラン考えるの私!?
◆駅前
紬「いいのよ梓ちゃん。私、後輩に『今きたところなの』と言うのが夢だったから」
梓「本当にごめんなさいムギ先輩。昨日の夜どうやってエスコートしようとあれこれ考えてたら全然決まらなくて」
梓「それで寝る時間が遅くなってしまって、起きたらこんな時間で……」
紬「梓ちゃんわざわざデートコース考えてくれたの?」
梓「ムギ先輩も考えてました?」
紬「ええ、でも今日は梓ちゃんにエスコートしてもらうね」
梓「えっ、でも……」
紬「嬉しいから。梓ちゃんが私のために色々考えてくれて」
紬「だから今日だけは私をエスコートしてね」
◆海
2月の海は寒い、そんなのは常識です。でも常識を忘れてしまうお馬鹿さんもたまにいます。
私のことです。
合宿ではしゃいでいたムギ先輩を思い出したのが運の尽きでした。
ムギ先輩を海に連れていこう。
波打ち際を歩くだけでも大人のデートって感じがしますし、二人で貝殻拾いしても楽しそうです。
そんな甘い考えで、電車に乗って20分。揺られてたどり着いた場所は、極寒の地でした。
紬「寒いね」
梓「…………はい」
梓「ムギ先輩、エスコートしておいて何ですが、もう戻りませんか?」
紬「うーん。せっかく梓ちゃんに連れてきてもらったんだし、もう少しいたいかな~」
梓「でも、なんだか申し訳なくて」
紬「じゃあ1つだけお願い聞いてくれる?」
梓「なんですか?」
紬「手、繋いでくれる?」
梓「ムギ先輩の手、あったかい……」
紬「梓ちゃんの手はずいぶん冷たくなっちゃってるね」
紬「ねぇ、ちょっと歩こうか」
そう言うと、ムギ先輩は私の手を引いて歩き出しました。
寄せては返す波打ち際を、ふたりきりでゆっくりと。
ムギ先輩の艶のある金色の髪が風にたなびく様子は、とても絵になっていて、
眠気も重なり、どこか幻想的でした。
紬「こんな話を知ってるかしら?」
紬「手の冷たい人は心があったかいって」
梓「えっと、いつだったか唯先輩が言ってた……」
紬「ええ」
紬「私の手って暖かいでしょ? 私はそれがとても嫌だった」
紬「手が冷たい人は心があったかいなら、手の温かい私は心が冷たいんじゃないかって思っちゃったの」
梓「それは手が冷たい人は心があったかいというだけで、手が暖かいからと言って心が冷たいという意味ではないはずです」
紬「それはわかってるの。でも私には自覚があった」
紬「自分は心が冷たい人なんだって自覚が」
紬「氷水に手を浸して、冷たくしようともしたわ。今考えるとホント馬鹿ね」
紬「そんなことしても何の意味もないのに」
梓「なんで……ムギ先輩は自分が冷たい人間だなんて思うんですか?」
梓「みんなに紅茶入れてくれますし、よく気配りができますし、優しいですし……」
梓「バレンタインのときだって……」
紬「ねぇ、梓ちゃん、ちょっと長くなるんだけど聞いてくれるかな」
紬「私の話を」
さっきまでの幻想的な感覚も、眠気も、すっかりすっ飛んでしまいました。
私がコクリと頷くと、ムギ先輩はぽつりぽつりと語り出しました。
紬「私ね、他人の気持ちが手に取るようにわかっちゃうの」
紬「唯ちゃんが、どんなお菓子を食べたがってるか、とか」
紬「りっちゃんが、ふざけたい気分かどうか、とか」
紬「澪ちゃんが、今どんな不安を抱えているのか、とか」
紬「梓ちゃんが、どうやったら自分のことを好きになってくれのか、とか」
紬「全部わかってしまうの」
紬「するとね」
紬「自分の行動がわからなくなるの」
梓「どういうことですか?」
紬「私はなんで部活にお菓子と紅茶をもってきてるんだと思う?」
梓「えっと……みんながお茶やお菓子を「美味しい」といってくれるのが嬉しいからですか?」
紬「ほんとうにそう思う?」
梓「はい」
紬「だけど私は考えてしまうの」
紬「自分の居場所を守るために、お茶やお菓子をもってきてるだけじゃないかって」
紬「お茶やお菓子に限った話じゃない」
紬「私が誰かのためにやることは全て」
紬「みんなの喜ぶ顔が見たいというのは建前で、本当は自分のことしか考えてないんじゃないかって」
紬「自分がしてあげたくてしてるのか、それとも愛されたくてしてるのか」
紬「わからなくなるの」
紬「ねぇ、梓ちゃん。あなたの目から見て、今の私はどう映ってる?」
梓「……難しいことはよくわかりません」
梓「でも、ムギ先輩は本当に楽しそうにお茶をいれてくれます」
梓「だからきっと……ムギ先輩はお茶を振る舞うのが大好きなんだと思います」
梓「私達のために」
紬「……梓ちゃんならきっとそう言ってくれると思ったの」
梓「きっと?」
紬「うん」
紬「梓ちゃんは優しい子だから」
梓「……」
紬「でも梓ちゃん。私はその先も考えてしまうの」
紬「ひょっとしたら、自分は楽しそうに振る舞ってるだけじゃないのかって」
梓「そんな……」
梓「そんなこと考えたら……キリがありません」
紬「そうだよね。キリがないよね」
紬「だけど、考えてしまうの」
ムギ先輩が何を言いたいのかはわかります。
誰かのためにした行動が、ただの見せかけなのか、本当に相手のためのものなのか。
普通の人でも一度は考える問いかけ。
ムギ先輩は人よりほんのちょっとだけ心を読むことに長けているから、
それを深刻な問題として捉えてしまっているのでしょう。
私はどんな言葉をかければ……。
紬「だからね、私は考えずに行動することにしたの」
紬「そうすれば悩む必要もないし」
梓「……」
紬「私の最初で最後の我儘」
紬「この恋にだけは我儘になって」
紬「私の全部を梓ちゃんにぶつけることにしたの」
紬「考えてることも、気持ちも、全部、ありのままを」
紬「ねぇ、梓ちゃん」
紬「私は梓ちゃんが好き」
紬「唯ちゃんでも、りっちゃんでも、澪ちゃんでもなく」
紬「梓ちゃんに恋したの」
紬「きっかけは覚えてない」
紬「もしかしたら不器用ながらも、軽音部に適応しようとする梓ちゃんの姿が、自分と重なったのかも」
紬「でも理由なんてどうでもいいの、この好きって気持ちだけは本当だから」
梓「ムギ先輩……」
紬「梓ちゃん」
梓「あっ」
ムギ先輩はゆっくりと私に近づき、私を正面から抱きしめました。
そっと触れるような、やさしい抱擁。
紬「いや?」
梓「いいえ」
ムギ先輩からはいつもと少し違う匂いがしました。
優しい匂い。でも気持ちを高ぶらせる匂い。
梓「レモンの香り?」
紬「不正解。たちばなの香水をつけてきたの」
梓「たちばな、ですか」
紬「そう。これは気持ちを高ぶらせる匂い」
ムギ先輩はそう言うと私をじっと見つめました。
真剣な眼差し。その眼差しの意味を私は知っています。
紬「いや、かな?」
私がゆっくり首を横に振ると、ムギ先輩の唇が近づいてきました。
そのまま私たちの唇は繋がりました。
優しく触れるだけのキス。
紬「ごめんなさい」
梓「……なんでムギ先輩が謝るんですか」
紬「悪いことをしたと思っているから」
梓「そんな……悪いことだなんて」
紬「ごめんなさい」
梓「謝らないでください」
この時の私には、なぜムギ先輩が謝ったのかわかりませんでした。
その日のデートはこれで終わりましたから。
それから半年の月日が経ちましたが、
あの日別れてから、ムギ先輩とは一度も会っていません。
ムギ先輩が突然海外に留学してしまったからです。
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◆ハンバーガーショップ
梓「いらっしゃいませー…………」
梓「いらっしゃいませー…………」
梓「いらっしゃいませー…………」
梓「いらっしゃいませー…………」
梓「いらっしゃいませー…………」
………………………・・・・・
店長「中野さん、もう上がっていいよ」
ムギ先輩が働いていたファーストフード店で、私はバイトしています。
バイトが終わる頃にはくたくたくなってしまいます。
かってムギ先輩は17kgのキーボードを持って通学していました。
バイト先にもキーボードを持ったまま立ち寄っていたそうです。
物凄い筋力とスタミナです。ムギ先輩はしばしば体重を気にしていましたが、絶対に筋肉のせいです。
梓(あれ? でも、ムギ先輩って柔らかかったよね……?)
私には野望があります。
バイトでお金を稼いで、ムギ先輩の留学先であるフィンランドに行くのです。
エクスペディアで調べたところ、航空券だけで10万円前後。
「フィンランド」以外全く手がかりがない状態なので、滞在期間は一週間くらいは欲しい。
そう考えると、20万円近くのお金が必要になってしまいます。
もう16万円まで溜まっていて、次のバイト代振込み日で20万を越える予定です。
梓(やってやるです!)
最終更新:2013年05月21日 04:08