部屋にはやはり紬がいた。

テーブルの上には綺麗に磨かれたカップ類が並び、

紬は袋の中の紅茶の葉を、棚の上の紅茶の缶に移し変えていた。

澪は紬に近づきながら、ふとテーブルの上のティーポットに目をやった。

普段は気にもかけていなかったが、テーブルの上にあった大きな陶磁器のポットを手にとってみた。

それは一般的なティーポットよりずいぶん大きく、

花の画家として知られたピエール・ルドゥテがポットに直に描いたような、

瑞々しさと爽やかさを感じさせる美しいアメジストブルーのカーネーションが四輪、堂々と咲いていた。

ふと、今手にしているポットが、まことに強力な凶器になるのではないかと澪は思った。

ずしりと重く、がっしりとした作りのこのポットで頭など殴られたりしたら、

人間であれば致命傷を負うに違いない。

第一、扼殺は首を絞めたときに自分の服の繊維や皮膚が付着したりする可能性も否めない。

ましてや抵抗され、引っ掻かれたりして傷を負った場合、

紬の爪の間と自分の体に動かぬ証拠を残すことになる。

しかしこれなら、一撃で動作は終わるかもしれぬ。

考えをめぐらせてみたが、問題はないと思われた。

そのようなことを考えていると、紬の声がして現実に戻された。


「今日はいいアッサムが手に入ったの。だから今すぐ澪ちゃんの大好きなミルクティーを淹れてあげるね」


突然、紬が発した言葉に、澪は不意を衝かれた気がした。

澪に背を向けてはいるが、顔いっぱいにあの優しいほほえみを湛えているのが分かる。

澪はたじろいだ。

やめろ、お前は世に比類なき悪人になろうというのか。

今すぐその席に着くんだ。そしておとなしく紅茶を受け取れ。

どこからかそんな声が聞こえた気がした。


「うん、ありがとう、ムギ」


しばらくして澪はそう言うと、ポットを紬の脳天めがけて振り下ろした。





鈍い音が響くと同時に、頑丈なはずのポットは無残にも砕け散った。

紬は目前の棚に寄りかかるようにして崩れ落ち、

やがて床に横向きに倒れ、もうそれきりピクリとも動かなかった。

澪は自分の手の中に残っていたポットの取っ手を破片の中へ抛った。

そして長椅子からクッションを取り、紬を仰向けにしてそれを胸にあてがい、

ナイフを心臓めがけて力任せに突き刺した。

そしてぐるりと部屋を見渡し、失敗のないことを確かめるといそいそと部屋をあとにした。

先ほどあがってきた階段からは降りず、非常階段を使うことにした。

もし途中で誰かに遭遇したら、それこそ一大事だからである。

非常階段の重たい扉を少し開け、澪は顔を少し出して辺りの様子を窺った。

見える場所は全てくまなく見渡したが、動くものは何一つとしてなく、

建物の向こう側の校庭から僅かに誰かの笑い声が聞こえるくらいで、静かである。

澪はドアをそっと閉めると素早く階段を駆け降り、

用水路の濁った水の中へ殺害時にはめていた手袋を放り込んだ。

全て、5分とかからぬ作業であった。

そして正面玄関から何食わぬ顔をして進入し、トイレで手を洗い、

(クッションで対策はしたが)返り血を浴びていないか鏡で確認し、職員室へ向かった。



「音楽室の鍵を貸してもらえますか?」


部屋に入るなり、澪はさわ子に言った。


「あら、鍵なら少し前に紬ちゃんが持って行ったわよ」


プリントの束を整えながらさわ子は言う。


「そうですか、わかりました。ああ、そうだ、この間の私のテスト結果はどうでした?」


澪はすまして尋ねた。


「相変わらず素晴らしい出来よ。
 今回は結構難解な問題が多かったはずだけど、澪ちゃんには問題なかったみたいね」


澪は安堵した。たとえ成績が落ちたくらいで疑われる道理はないだろうが、

神経質になっていた澪にはあたかも死活問題のように感じられたのだ。

それに、高校の試験などより殺人のほうがどれほど骨を折ることや。

それから文化祭の話などを少しして、澪は職員室を後にした。




7 

職員室から音楽室へ向かう途中、前方で唯と律が笑いながら歩いているのを見つけた。

澪は二人に気づかれないようそっと近づいて


「よっ、お二人さん楽しそうだな!」と二人の肩に手を添え言った。

「うぉああ!びっくりした。なんだ澪かよ」


律が口を膨らまして言う。


「あー、澪ちゃん。今ね、りっちゃんに合宿の時の秘蔵写真を見せてもらってたんだ!すっごいよ」


そこで律はあわてた風に唯の口を塞いだ。


「またなんか撮ったのか。り~つ~!見せなさい!」


澪が律の鞄を奪おうとすると、唯が笑った。律も、澪もつられて笑った。

澪は、この笑顔があと数分後にはどう変貌するか考えると、にわかに湧き起こる興奮を禁じえなかった。


「あっ!」


突然、唯が頓狂に叫んだ。


「鍵とってこなきゃ」


場合が場合だったので、澪はドキッとしたが、心配には及ばなかった。

澪は、先ほど職員室へ行ったが、紬が既に取りに行っていた事を話した


「そっかー、ムギちゃん早いねー。そうだ、お菓子お菓子!」


そう言って唯はみるみる早足になった。

澪は後ろから、唯たちが早く音楽室の扉を開けるのが

楽しみで仕方がないといった表情でゆっくりとついていった。

そして、唯は勢いよく扉を開けた。






「やっほー、ムギちゃん」


唯は扉を開くか開かぬかのうちに言った。


「ムギちゃん…?」


返事はなかった。

テーブルの向こうへ近づく唯を、澪はどきどきしながら眺めた。


「あっ…あ」


唯は二,三歩後退して床にしりもちをつき、目を見開いたまま唖然としている。


「どうしたんだ?唯?」


澪は小走りに近づいた。


「いやああああああ!」


澪は紬を一瞥するなり大きく息を吸い込み、いかにも真に迫った感じに叫んだ。

そこには先ほどと変わらぬ紬の亡骸が、

頭からは血を流し、胸をナイフで刺され、無残にもティーポットの破片の中に転がっていた。

ケント紙のように白い顔に苦悶の表情はなく、安らかだった。

後ろの扉の入り口で、律が狼狽した目で紬の亡骸を見つめたまま、微動だにしないで立ち尽くしていた。

学校周辺は警察と救急車が駆けつけ、騒然となった。

澪は警察から二度の訊問を受けた。

警察の一度目の訊問に対して、澪は犯行があった日、

自分はホームルームが終わり、トイレへ行った後に職員室へ音楽室の鍵を取りに行き、

そのとき紬が既に鍵を持って行ったこと、さわ子と少し談笑し、

そのあと唯と律と音楽室へ向かったことなどを説明した。

二度目の訊問は紬の交友関係などに関するもので、特に澪が気をつけるべき答弁は無かった。

警察は澪を疑うどころか、暗い顔をした澪の手をとって、

協力に対する感謝の言葉と悔やみの言葉を掛ける始末だった。

それでも警察は、犯人が紬と顔見知りであるとの見方を強めているだろうし、

部員が一番疑わしいと思うことに違いはなかろう。

しかし、いくら疑ってみたところで澪が犯人という結論にたどり着く証拠があるとは思えなかった。

それに澪は真面目で成績優秀、加えて元来の性格から、澪が人を殺すと誰が疑おう。

いよいよ警察の捜査は憶測だけが縦横に入り乱れ、

迷宮入りへのレールは着々と敷かれていくように思われた。





事件のため、当面の間は休校となるので、澪は暇を持て余していた。

事件から数日経つというのに、テレビや新聞では、事件に関する報道がなされていた。

しかし、たいがいが犯人を捜索中だとか、動機は不明だとか、

使い古された言葉を並べるだけで澪を面白がらせるものは特になかった。


「人殺しなんて案外あっけないものだな」


少し遅めの朝食をとりながら澪はため息混じりに言った。

家にいてもすることがないので、とりあえず街へ出かけることにした。

街の人垣のそこここから時折澪の起こした事件の噂を小耳に挟んだとき、

澪は言いようのない達成感を感じた。

見よ、ここを歩いている人間のどれだけがこんな大罪ができる?

いつも殺すだ殴るだなどと口先だけで一丁前に言ってのける連中ばかりじゃないのか?

澪は妙な優越感を抱いて街を闊歩した。

それから、行きつけの書店を覗いた。

推理小説などを手にとってみるのだが、どうも見る気がしなかった。

小説に出てくるようなトリックなんて洒落たものは現実にはあったもんじゃない。

大体、合理性を追求せずしてトリックなど少しの価値もないではないか。

小説を乱雑に棚へ戻し、代わりにアルチュール・ランボオの詩集を購入した。

店を出たところで携帯電話が鳴った。

それは唯からのメールで、これからの軽音部について唯の自宅で話し合いがしたいとのことだった。

澪は今から行くとだけ伝え、急遽唯の家へ向かうことにした。




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最終更新:2013年05月15日 21:46