飲み干したティーカップの底を見つめたまま、秋山澪は物思いに耽っていた。

ぽかぽかとした陽の光が窓から差し込み、ストーブの上のやかんが白くやわらかそうな湯気を吐いている。


「紅茶のおかわりはいかが? 澪ちゃん」


空になったカップを覗き込んでいる澪に、紬が微笑みながら良い香りのする紅茶をカップに注いでくれる。

向かいの席では唯がマドレーヌを握りしめたまま、牛のようにのんびりとあくびをしていた。

律は紅茶をすすりながら、とろんとした目で窓の外を眺めている。

少しでも気を抜くと、すぐ夢の中に入ってしまうようなのどかな冬の午後のことであった

傍目にはこれほど平和を語るにふさわしい光景はないように見えるだろう。

しかし澪は日常というものにひどく退屈していたのである。

軽音部に入り、何か澪を満足させるような刺激に出会えるかと期待していたが、

その期待も成就しそうにないことがだんだん分かってくると、

果たしてこの部に自分の青春を捧ぐ価値があるのか、と、そんなことを考えたりもするのだが、

仲間のことを考えると、退部する訳にもいかず、

つまらないと思いつつもその日その日をおとなしく受け入れるほかなかったのである。

だが彼女は退屈を押し殺したつもりでも、それは案外執念深く生きていて、

彼女の心にある恐ろしい考えを抱かせたのだろう。

その考えが彼女の頭をかすめたとき、彼女はティーカップを持つ手がガタガタと震えるのを必死に抑えた。

その考えというのも、この平和を根こそぎ剥奪してしまう……

もっと言えば、ここにいる誰かを殺害し、警察の捜査から逃れ、

さらに残された者の悲嘆に暮れる姿などを

とくと観察してみたいという想像にしても背筋の凍るような恐ろしいものだった。


「まさか…仮にも親友を殺すだなんて、そんなこと考えるのはよっぽどどうかしてるな」


澪はこのようなことを考えついた自分に罪悪感を感じたが、

その不穏な考えはいつまでも澪を捉えて離さなかった。





暇つぶしのために人を殺す。そんな途方もない考えがどうして浮かんだのか、それは澪にしかわからない。

いや、澪にもわからぬかもしれない。

刺激を求める一心で、

良心の呵責や犯罪行為への恐怖などといった感情がなくなってしまったのかもしれない。

なんにせよ、彼女はとうとうそれを実行することに決めたのである。

この殺人計画はまったく突飛なものであったが、

澪は周到に考え抜いた理論のもとで行動しようと決めていた。

まず澪は手始めに、どこを殺害現場とするかを考えはじめた。

一般の心理から言えば、犯行現場が離れていれば離れているほど安全と考えるのが普通だろう。

しかし、友人が殺されたとなれば無論、自分にも捜査の手が加わってこないとは言いきれない。

犯人にとって、アリバイの立証というものは容易ならざるものなのだ。

第一、誰かが澪たちを見かけないとも限らないし、人のいない場所へ誘い込んだとしても、

そこへ澪と出かけることを被害者の家族か誰かに言っていないという保証もない。

思いあぐねる澪の脳裏に、突如としていつもなじみの学校風景がよぎった。


「学校は誰でも入れるわけじゃないから、容疑者は普通、生徒や教師などの学校関係者に絞られるだろうな。

 でも、その状況下でも、私が疑われる理由も、そして決定的な証拠も残さなきゃいいじゃないか。

 それくらい限定されてなきゃ、やりがいがないからな」


それから2週間というもの、澪は寝食を惜しんでこの犯罪の完全性を追求した。

在宅時には部屋にこもっては古今東西のあらゆる未解決事件、殺害方法、警察の捜査方法など、

少しでも役立ちそうな知識は一つとして逃さぬよう頭に詰め込んだ。

学校では、唯たちの一挙手一投足に至るまで注意深く観察しては犯行の隙を窺った。

しかし、調べていくにしたがって、澪は大きな失望を感じた。

というのも、唯たち一人一人の行動の中に、

人を一人殺せるほどの時間的余地がないように思えたからである。

一日の授業が終わり、音楽室へ向かうと、いつも誰かしらが既にそこにいるのだ。

そして、そのままお茶を飲み、練習したのち、

皆で一緒に帰るというあんばいに一日が終わってしまうのだ。

ならば群集の真ん中で殺害してみようか、紅茶の中に劇薬をしのばせて皆の前で毒殺してしまおうか、

その他様々な殺害方法を考えてみたものの、

いずれにしても現実味がなく、犯罪発覚の危険性を十分にはらんでいた。


「やっぱりそんな簡単に殺人なんてできやしないよな、やめちゃおう、やめちゃおう」


澪の殺害衝動の炎は消えかかってきた。





ある日、澪は普段より5分程早く音楽室へ向かった。

まだ誰もいないだろうと思っていたが、意外にもそこには紬がいて、その日のお茶の準備をしていた。


「ああ、どうりでいつもムギは来るのが早いのか。みんなのためとはいえよくやるな」

自分の心の中で思った言葉にはっとした。

隙ならばあったじゃないか!


そして、罪なき哀れな被害者は、紬だ。

彼女の恐ろしい計画は再び姿をあらわにした。

澪は考えをまとめるため、紬に今日は休むとだけ伝え、逃げるように音楽室を後にした。

唯と律の教室は同じ階に位置していて、決まって唯は律の教室に寄ってから音楽室へと向かう

ことは、かねてからの調査で分かっていた。

幸運だったのは、律のクラスのホームルームが他と比べて幾分か長いことだった。

担任が同じ事を何度も繰り返し話す癖があるとみえて、話を切り上げるのが遅いことがその主な理由だ。

さらに、場合によっては、唯と律は律のクラスで立ち止まり、

一つ二つの話をしてくることもよくあることだった。

それらの事情がなくても、澪はどうにかして殺人を成功させる気でいたので、この発見は幸福であった。

梓はというと、彼女のクラスは学年も違うこともあり、音楽室までは一番遠い位置にいるので

彼女が音楽室にたどり着く頃には紬はもう死体になっている手はずなのだ。

少しもぬかりはない。

第一、もし少しでも実行前に危険が伴うようなことがあれば、

すぐさま取りやめていつも通りの一日を過ごせばいいだけの話だ。





そして、ついにその計画を実行する日がやってきた。

部屋の窓を開け、澪は大きく伸びをして朝の空気を吸い込んだ。

なぜか小学生のとき、運動会の日の朝に吸い込んだ空気と同じ味がした。

そして、いつもは口にしないコーヒーをぐいと飲み干し、いつも通りに学校へ向かった。

授業終了までの時間は永遠のように感じられた。

澪は不審な言動を起こさぬよう、努めて普通に振舞った。

そして遂に放課後はやってきた。

澪は普段と変わらぬ風に、ただ、神経だけはいつもの何十倍も研ぎ澄ましながら教室を後にした。

音楽室へ行く道中で、誰かとすれ違ったり見られたりすることが一番恐れていたことだが、

もともと人通りの少ない淋しい場所だったから、心配には及ばなかった。

澪が音楽室の扉を開ける前に、肝心の凶器について述べておこう。

この殺人において澪が最も苦心した問題の一つが、凶器の調達であった。

始めは音楽室の窓から突き落とすことを考えた。

しかし、それは抵抗される危険性があり、

何より、3階程度の高さから落ちて確実に絶命するかどうかは大いに疑問だ。

次に考えたのは扼殺することであった。

しかし、扼殺には致命的な欠点がある。

それは、首を絞めて短時間で対象を死に至らしめるのは、現実には難しいということだ。

失神させることはできる。しかし、確実に絶命させるには時間を要する。

これは、時間に制約される澪には極めて難しい方法だ。

こうして、いくつもの考えを思いついては取り消すことを繰り返して、最終的に考えついた方法は、

紬の不意をついて首を絞めて失神させてから、鋭利な刃物で止めを刺すという方法だった。

刺殺は最も原始的な殺害方法に違いない。

しかし、これほど堅実かつ確実な方法が他にあろうか。

ただ、その刃物を入手する方法もまた難題であった。

普通の店で購入すれば、容易に特定されるだろう。

そして、監視カメラに記録されていたり、販売員が澪を覚えていた場合、澪の立場は間違いなく危険になる。

ましてやどこかから盗むわけにはいかないし、自分の自宅から持参するわけにもいかない。

そんな中で、澪が音楽室の戸棚に、ケーキや果物を切り分けるために

紬が持参したナイフが置いてあることを思い出したのは実に幸運であった。

こうして、澪は現実性と効率性で固めた理論を携えて、音楽室の扉を開いた。



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