ここは空虚な城。私はひとりつぶやく。誰も返事などしてくれない。そ
れが嬉しくて次々と言葉を紡ぐ。やがて喉の奥の方に小さな痛みを
感じて口に水を含む。それからまた喋る。一切の遠慮無くありのまま
をぶつける。何も返ってこなくても退屈ではない。ここには私が名前
から剥ぎ取った彼女がいる。黒いのをまかれた彼女は外界で行われ
ている一切を視覚できない。私の声だけが彼女の耳を犯し穢し占領
することを許される。倒錯した現実だけが名前から剥ぎ取られた彼
女を支配する。私は返事のない会話を続ける。



紡がれた言葉が私の部屋に木霊しやがてひとつの形を象る。それ
は何にも似ていないように見えて何か懐かしい形にも見える。幼い
頃に感じた暖かさや微笑ましさ残酷さ全てがここにはある。名前か
ら剥ぎ取られた彼女は何も答えてはくれない。対話を続けることは
虚しくもあり美しくもある。人間が人間として他者と分かり合えないと
いう願いと現実の差異が体言されているようで嬉しい。いつまでも飽
きることなく話し続けるうちに時計の針がまわる。快楽をそこに置い
て私は名前のための時間を取り戻す。



平沢唯という名前を思い出しながら時間は無為に流す。名前は遊
びである。それが平沢憂という名前にYを加えただけのものである
と言ったところで何にもならないように名前をどう考えてみたところ
で遊戯の外に出ることはできない。たとえば名前が抱擁したとして
それが独占欲のある優しさだとしても日常以上の意味は持てない。



例えば名前がいなくなって中野梓は悲しむとしてもそれは私のこと
ではない。中野梓を剥ぎ取られることによって私になった私にとって
名前はYを加えたものとなった。もし名前から剥ぎ取られたそれがあ
らわれたとしても私が何らかの興味を持つか考えることはできない。
名前から剥ぎ取られた彼女が私の言葉を待っている事実はその名
前よりも重い。



名前から剥ぎ取られることで私になったのだが私を犯し奪い去ろう
としたのは彼女だけではない。田井中律という名前もあった。その
名前は最も遠いところにあるようにみえて唐突に領海侵犯をしてく
る。それが名前の怖いところであり緩やかなところでもある。幻想に
その名前をつけた私はそこから逃げようとしたが捕らえられ名前か
ら奪われかけた。



逃げ出すことができたのはただの偶然海が深すぎて田井中律とい
う名前が溺れてしまったからだ。その名前は意外なことに泳ぐのが
苦手だった。背泳ぎしかできない岩盤では鳶魚に追いつくことなどで
きない。鳶魚の夢は常に道徳的で美しく世界平和を実現するものな
のだ。私を名前から奪うのは簡単なことではない。



秋山澪という名前を壊すことは簡単だった。そこではあらゆる名前
が氾濫し破壊しようと虎視眈々と狙っている。壊された名前はより
強力な名前を取り戻し私の元へ戻ってきたが他者の手によって再
び壊されて壊された。破壊しつくされた名前が幻想の膜を破り世界
に誕生する頃には私はどこか違う遠い星でそれを眺めることにした。



琴吹紬という名前に意味はない。平沢憂という名前は優しすぎるし
鈴木純という名前は楽しすぎる。



ちょうどいい名前はなかったから名前から私は剥ぎ取られたしまっ
たのだ。そのことを恨んでなどいないしむしろ憎んでいる。憎しみは
白い渦になって心を支配し名前から彼女を剥ぎ取るという凶行に走
らせた。凶行の結果として名前から剥ぎ取られた彼女との見事な同
棲生活がはじまった。



あらゆる場所で空虚になってしまった彼女の名前は再生される。ま
るでその名前に何か素晴らしい意味があるかのようにあらゆる人が
あらゆる場所で名前を叫び唱えた。彼女がそこに戻ることはないし
彼女を奪われてしまった名前などに元から何もなければ私が愛する
何かだってありはしない。あの人達は名前を口にし頬から透明なも
のをこぼしたが美しいとは思えなかった。



名前から剥ぎ取られた彼女はあらゆる方法で攻撃する。臀部から
垂れ流される黒いものや黄色く染まった何かであればまだいいが黒
い布の横から流れ落ちる透明の美しいものは手に負えない。致命
的な損傷を与えあわよくば殺してしまおうとするそれに対して私は有
効な防衛方法などもたないし反撃方法など考えることすら許されな
い。私はただ名前から剥ぎ取られた彼女の銃口に怯え視線に釘を
打たれることしか許されない。



水銀は出来損ないの私の中に少しずつ蓄積されてやがて大きな川
になった。大雨の日に水が溢れ浸水がはじまった。あらゆる私は侵
され銀色に輝き痛みだけが支配する日々がはじまった。名前という
皮に戻ってやり過ごそうとしたけど戻った名前は弱々しく醜くて私を
守ってはくれなかった。名前の中にいる私は既に剥離した私に過ぎ
ず皮は臭く重たく動きを封じ込めるだけの可愛らしいきぐるみでしか
ない。



息が止まる前に何かを叫びたいと思った。意味のなかったはずの名
前が私の中で膨らみ意味のない名前を奪われた彼女は瞳のない目
でこっちを見ていた。自分で奪った名前を自分で返すことが許され
るのか私に答えは出せないが名前を奪われた彼女なら許してくれる
かもしれない。せっかく手に入れた空虚な世界を失うことを耐えられ
そうにはない。だから諦めて死ぬことにして私は決意を決めて名前
を呼んだ。



彼女を取り戻した名前はにっこりと醜い笑顔で笑った。話しかけられ
た言葉の全てが私の心を粉々に砕き私は名前だけではなく肉体か
らも引き剥がされた。肉体から引き剥がされた私は命を諦めること
にした。私と彼女はもっと空虚な場所を探すための旅に出た。道の
果てに楽園を見つけそこに留まり永遠を手に入れることができると
信じていないけど彼女のことだけは信じている。



三ヶ月ぶりに飲んだ彼女の紅茶は歩みを進めてなどいなかった。






おしまいっ!