*

8

 十一月も二週間が過ぎて、二十七日に控える唯の誕生日も近付いてきた。
ただ、その日に律が祝福してくれる事を、唯はもうあまり期待できなくなっている。
梓や紬との関係が明らかになった当初こそ、律は積極的に唯と寝てくれていた。
だが今では、律もあまり唯に興味を示さなくなっている。

 今日も唯の誘いに応じて部屋まで来てくれた事は有り難いのだが、
律は一向に手を出してこようとはしなかった。
ただ、退屈そうに音楽の雑誌を捲っているだけだ。
堪りかねて、唯は口を開く。

「ねー、りっちゃん。私の事、好き?」

 唯は既に、律から愛されている事に自信が持てなくなっていた。
もう律は自分に関心がないのではないか、その不安が消えない。

「んー?好きだぞー」

 面倒そうに淡々と返され、唯の不安は絶望へと近付く。

「だったら、抱いて欲しいな?
もう、澪ちゃんと別れてなんて言わないから。
あずにゃんやムギちゃんとも、付き合い続けてもいいからさ。
私の事、愛人でいいから、愛し続けて欲しい。ね、しよ?」

 律が澪は勿論、紬や梓とも逢瀬を重ねている事も、唯は知っていた。
その事を認容してでも、唯は律と身体を重ねていたいと思っている。
もうこの際、恋人として選ばれなくとも構わなかった。

「しないよ。前から思ってたんだけどさー、唯の愛、重いんだよね」

 対する律の答えは非情だった。
あれだけ愛してくれた事が、嘘のように。
それでも唯は諦めなかった。
嘘のような思い出に縋り、尚も迫る。

「私達って不安定な関係だから、愛を確かめたいんだよ。
それには、身体で繋がるエッチが一番、安心できるし。
そういうの重いって思うかもしれないけど、
りっちゃんの事が好きなんだから、しょうがないじゃん」


「あー、そう?そんなにエッチしたいの?
でもさ、私、今はそんな気分になれないんだよね。
だから、一人でヤってよ。オナってるトコ、見ててあげるからさ」

 律は読んでいた雑誌を放り投げると、唯の方に向き直ってきた。

「私、りっちゃんにシて欲しいんだけど」

 自慰では意味がない。
性欲を鎮める事だけが目的ではないのだ。

「私はしたくないって、言ったよね?
ただ、唯の痴態を見たくはあるよ。その程度には、好きだしさ。
この気持ちを汲んでくれないようだと、唯と別れる事だって考えちゃうよ?」

 そこまで言われてしまえば、律の要求を呑むしかない。
だが、唯が自身の性器に指を当てた途端、律が更に要求を重ねてきた。

「ちょっと待って。エッチの代わりに、オナるんでしょ?
だったら、裸になりなよ」

 唯が言われた通りに裸になると、またもや律の注文が飛んできた。

「あー、やっぱり。タイツだけ履いてよ。
下着は脱いだままでいいから」

 一度脱いだタイツを再び履く事に抵抗はあるが、律の指示なら従わざるを得ない。
唯は気乗りしないものの、言われた通りにタイツを履いた。

「そうそ、そんな感じ。
じゃ、始めてよ」

 唯は律に言われた通り、タイツの中に指を入れて性器に這わせた。
陰核を弄り、陰門へと指を挿し入れて掻き回してゆく。

「タイツ越しでもさ、唯の強烈な性器は映えてるよね。
何ていうの、彼岸花みたいに毒々しさと美しさが同居した赤って感じ。
匂ってきそう。
まー、澪はラフレシアだからそっちには及んでないけどさ。
澪の場合、色は桑の実も入ってるけど」


 愛人で構わないとはいえ、澪と比較される事は辛かった。
それ以前に、二人きりで居る時に澪の話など聞きたくはない。
唯は指を休める事なく、口から抗議の声を漏らす。

「止めてよ……澪ちゃんの事、話さないで。
見ててくれるって、言ったじゃん。今は私に集中して欲しいな」

「やーだよ。だって、いつも私、澪の事考えてるんだし。
そういう自然な私を受けられないなら」

「んーん、いいよ、りっちゃんの全部、受け入れるから」

 唯は慌てて言葉を割り込ませて、律の声を遮った。
どうせ別れを盾にする事など、分かり切っている。
脅しの形であっても、聞きたくない言葉だ。

「分かればいいよ。何たって、澪と私は唯よりも前からの関係だからね。
そういや合宿の時の澪の水着姿、良かったなー。
裸だって知ってる仲だけどさ、水着は水着で違った趣があるからなー」

 まるで当て付けのように、律は澪の話を口にしてきた。
唯は澪の名に心を嬲られながらも、必死に指を動かす。

「ああ、そうだ。水着の写メも撮ったんだっけ。
ほーら、唯、澪の水着姿、セクシーだろー?」

 律は携帯電話のディスプレイを唯に向けてきた。
覗き見防止のフィルターを外している為、澪の姿が唯の目にも飛び込んでくる。
唯はその豊満な身体つきよりも、澪の浮かべる笑顔に目が奪われていた。
その幸せそうな笑みを、唯は嫉みを込めて睨み付ける。

「睨むなよ。まー、澪のベストショットって、勿論これだけじゃないけどねー。
色々撮ってあるんだー」

 律は再び携帯電話の画面に目を戻すと、澪に関する話題を続けた。
ディスプレイ上では、律の話題に合わせた画像が展開されているに違いない。

 自分に自慰を強いておきながら、律は他の女の話をしている。
その事が、唯の心身を凍えさせてゆく。
だが唯が身に感じる寒さは、律の行動だけが原因ではないだろう。
室内とはいえ冬が近づく中、気温の低下が与えた影響も大きい。
実際に唯は、寒さからか尿意を催してさえいた。

 ベッドの上で律が抱いてくれたのなら、ここまでの寒さを感じる事もなかっただろう。
そう思った途端、視界が霞んだ。
律の眼前で自慰を行う惨めさに、涙腺が耐え切れなかったのだ。


「ゆーい、泣くなよ。
ほーら、応援物資の投下ー」

 律に呼び掛けられて、唯は霞む目を拭った。
そうして視線を向けると、スカートを捲った律の姿が目に映る。
純白のショーツを見ただけで唯の興奮は高まり、粘液の分泌量も遥かに増した。

 律はそんな唯に愉快そうな目を向けると、ショーツも捲って性器を晒してきた。
唯の粘液の分泌が更に増し、感度も高まって絶頂へと誘う。

「あはは、私の見ただけで、そんなに溢れさせちゃって。
その愛液の量こそが、唯の私に対する愛だよ。
良かったな、唯。お望みどおりに愛が確認できて」

 意識が白くなりかけた唯の耳に、嘲笑うような律の声が届いた。
唯は快楽に舌を縺れさせながらも、何とか反駁する。

「違うよ……。私が、確かめたかったのは、
りっちゃんから、愛されてる事なんだよ。
私が、りっちゃんを愛してるなんて、分かり切ってる事で」

 唯の断続的な言葉に、律の冷笑が割り込んできた。

「なーに言ってるんだよ、唯。そんなのよりさ。
愛してしまったのがどっちで、愛されてるのがどっちか。
そのヒエラルキーを確認して弁える事の方が、遥かに重要だろ?」

 悔しさと悲しさが相俟って、再び唯の目に涙が溢れてきた。
涙も絶頂への段階も、加速してもう止められなかった。
泣きながら、唯は絶頂へと達した。
屈辱の中の絶頂、制御など利くはずもない。
堪えていた尿も、粘液とともに噴き出してしまった。

「あーあ、お漏らしまでしちゃって。
そんだけイったんなら、もう満足したでしょ?
じゃ、帰るね」

「りっ、ちゃぁあん」

 部屋から出て行く背に、唯は嗚咽を交えて呼び掛けた。
だが、律は振り向かなかった。
部屋には汗と粘液と尿と涙に塗れた、唯だけが残された。
.

.



 唯が部屋を掃除してシャワーまで浴び終えた頃、憂が帰ってきた。

「ただいまー」

「おかえり、憂。どうだった?」

 唯が出迎えると、憂は上機嫌な笑みを浮かべた。

「楽しかったよ。何より純が……あっ、純ちゃんが喜んでくれたから」

 憂と交際相手の鈴木純は順調なようだった。
その事が一抹の喜びとなって、唯も顔が綻ぶ。

「でも、お姉ちゃん達ほど進んでないけどね。
今日も律さん、来たんでしょ?
いいなー、純ちゃんも私もいつも肝心な所で弱気になっちゃうから」

 シャワーを浴びた直後だからだろうか、憂にも唯が性交に及んだ後だと気付いたらしい。
だが、そのシャワーのお蔭で泣いた事は隠せているのだ。
憂を心配させずに済んだ、唯にとってはその方が大事だった。

「その初々しさだって、大切だよ。
憂は憂達のペースで、ゆっくりと進んでいけばいいんだから」

「ありがとう。
お姉ちゃん、頑張った後だろうから、お腹空いたでしょ?
すぐにご飯作っちゃうね」

 上機嫌でキッチンに向かう憂を追って、唯もキッチンへと向かう。
律との逢瀬で屈辱と悲痛を感じた直後だからだろうか、
自分を肯定してくれる憂と一緒に居たかった。

 一方で、律との逢瀬で晒した醜態を思い返し、
憂の尊敬に値するような存在ではないと自分に言い聞かせてもいた。
汗、粘液、尿、涙を撒き散らし、それらに塗れて横たわった自分。
汚物塗れのような痴態を目の当たりにすれば、憂も軽蔑するだろう。
憧憬のような言葉など、もう発さないに違いない。
決して、憂には知られたくない姿だ。


 だがそれ以上に、憂にあのような境遇に陥って欲しくはない。
もし、あの醜態を晒した者が憂だったのなら──
耐え難きその想像に、堪らず唯は憂を後ろから抱きしめていた。

「お、お姉ちゃん?」

 憂が困惑に満ちた声を発していた。
料理の邪魔である事は分かっている、それでも繋ぎ止めていたい。

「ねぇ、憂。純ちゃんは、憂に優しくしてくれてる?」

「うんっ。面白いし、優しいよ。
でも、急にどうしたの?」

 憂に不審そうな声を向けられ、唯は慌てて言い繕う。

「別に。ただ、憂って恋愛経験が薄いから、心配になっちゃって。
ねぇ、憂。
純ちゃんがいい人なら、他の悪い人に捕まったら駄目だよ?」

──憂はお姉ちゃんのようには絶対にならないで

 溢れそうなその言葉は、どうにか呑み込んだ。
憂に心配をさせたくはない。

「分かってるよ。心配してくれてありがとね。
でも、純ちゃんは信頼できるよ?
お姉ちゃんも、きっと気に入るよ」

 憂は不審から一転、安堵と幸福に満ちた笑みを見せてきた。

「うん、憂が言うなら、きっとそうだよね。……ねぇ、憂」

「なぁに、お姉ちゃん」

 唯は先程呑み込んだ言葉に代えて言う。
意味は変えずに、表現だけ変えて。

「──幸せになってね」


*

9.

 当初は澪以外の三人とも関係を続けたいと思っていた律だが、
十一月も終わりに近付いた今となっては軋轢に嫌気が差してきていた。
また、充分に身体を交じり合わせた事で、唯や梓、紬に飽きを感じてもいる。
その事も併せて、やはり自分には澪が一番合っているのだと再確認もできていた。

 例えば、梓に対しては澪の代わりも務める一石二鳥の人材かもしれないと思い、
試してみた事はあった。
梓に紙袋を被せて、澪と呼んで性交に及んだ時がそれだった。
だが、試してみた結果、梓を澪だと思い込む事はどうしてもできなかった。
律にとって特別な澪の代わりなど、何処にも居ないのだ。

「うん、唯とかとは、別れた方がいいかなぁ」

 律は問い掛けるように呟いた。
一人しか居ない自室の中、それに応える者は自分しか居ない。
唯達と別れれば澪と一緒に居る時間を増やせる、それだけで十分だった。

「うん、別れた方がいい」

 今度は決断を呟くと、律は携帯電話を取り出す。
そしてメールで三人を呼んだ。『一人を選んだから、十五時頃に家の前まで来て』と。
このままメールの文面で済ませる事は避けて、律は対面を選んだ。
今回の不倫を内密にするよう、言い含めなければならない。
唯達を口止めするには、メールでは心許なかった。

 すぐに三人から、承諾を知らせるメールが届いた。
もし予定が合わなかったら、別の日を設定する必要があった。
その必要がなくなり今日にも片付きそうだと、律は微笑みを零す。
この件が終わりさえすれば、澪と再び濃密な時間を過ごせるのだ。
.

.



 家の門の前に集まった三人を、律は窓から視認した。
彼女達は結果が相当気になっているらしい。
最後に紬が来た今でさえ、まだ十四時三十分である。
全員が集まっている以上、定時の十五時まで待つ必要はない。
律はそう判断すると、コートを羽織って家から出た。

 律は玄関を出て早々、三人の刺すような視線に出迎えられた。
その注目の中、律は門の前の道路まで出てから言葉を掛ける。

「随分と早いね。この寒い季節に待つんだから、もっとギリギリでもいいのに」

「誰を選んだか、気になってますから」

 梓が三人を代表して言った。
本当は三人とも、そう思うなら家に入れてくれればいいのに、と言いたいに違いなかった。
それは尤もだと律とて思うが、揉めるかもしれない話題で家には上げたくない。
一人を選ぶと宣するに至ったあの日も、三人を帰す際には酷く苦労している。

 ただ、今日はあの時程には揉めないだろうと、楽観もしていた。
一人を選ぶという話は、既に三人も織り込んでいる事なのだ。
それよりも寧ろ、澪に対する口止めの方に律の関心は移っている。
報告など手早く終わらせる事にして、律は焦らす事なく口を開く。

「そっか。じゃ、あまり待たせるのも悪いから、一思いに言っちゃうね。
やっぱり私、澪と付き合い続ける事にしたよ。
だから皆とは、これでお別れ。また明日からは友達として」

「ふっざけないでよっ」

 突如として轟いた唯の怒号に、律の言葉は遮られた。
予想外の剣幕に驚いて唯を見遣ると、憤怒の形相が律を射抜くように睥睨している。
唯の凄みに射竦められた律が言葉を失っているうちに、梓も続けてきた。
やはりその顔には、怒りが漲っていた。

「そうですよっ、ふざけないで下さいっ。
都合が良過ぎますっ」

「りっちゃん、人間はね、コモディティじゃないのよ?
返却します、処分しますなんて真似、許されると思っているの?」

 更に紬も続いたが、こちらは唯や梓程には激していない。
ただ、怒りを必死に抑え込んでいるのか、拳も頬も痙攣したように震えている。


「な、何だよ、落ち着いてよ。
元々、誰か一人を選ぶって話だったでしょ?
なのに怒るっていうのは、ちょっと違くない?」

 気圧されながらも律は反駁を試みた。
だが三人に、納得する気配はない。

「ねぇ、りっちゃん。
その状況を利用して、私にどんな屈辱的な事したか、覚えてる?
捨てられたくなかったから私は、あんな事を強要されても耐えたんだ。
それに今更別れれば、憂だって心配しちゃう。
りっちゃんには私を辱めた責任を取って、絶対に付き合ってもらうから」

 そう言う唯には、もう憤怒の形相は浮かんでいなかった。
ただ、酷く冷めた目が、律に向けて注がれている。
淡々と決定した事項を述べているような冷たさが、今の唯にはあった。
唯の顔にかかる伸びた髪も、その冷徹な印象を際立たせている。

「私だってそうですよ。
律先輩に別れられたくなかったから、あんな残酷なプレイだって受けたんですよ?
なのに捨てるだなんて、絶対に許せません。
私と付き合わないなんて、決して認めませんから」

 唯に続いた梓は未だ眦が吊り上がり、顔に怒気を滾らせている。
やはりこちらにも、妥協するような気配はない。

「私もりっちゃんを愛する為に、掛け替えのないものを犠牲にしてしまったの。
信仰している神の教えに背いて、
そして、私を愛して人の道を諭してくれたお母様も裏切ったわ。
りっちゃんの愛欲に誘われる過程で、今までの私の人生の根底にあった全てが崩壊した。
だからもう、私は戻れない。りっちゃんと絶対に付き合うんだからっ」

 冷静だった紬も言葉を進めていくうちに、感情が露わとなっていった。
瞳には涙が溜まり、声調も強く激しく変じてゆく。
そうして最後には、涙の粒を零して叫んでいた。


 三人が三人とも、律と付き合うという決意を口にしている。
口止めどころか、律の決定を認めてさえくれなかった。
この調子では仮に三人の中から選んでいても、残った二人から責められていただろう。
追い詰められた律は、何とか説得しようと諭すように言う。

「まるで私が悪いみたいに言うけど、これは仕方がない事なんだよ。
唯や梓、ムギにアプローチしたのは、不可抗力的に私の気が移ろった結果だし。
ほら、よく言うでしょ?女心と秋の空って。
それで」

「何を、言ってるの?りっちゃんは悪くないって、そう言うの?」

 律が言い終わる前に、唯が言葉を割り込ませてきた。
瞳は相変わらず冷めているが、声は怒りを隠す事なく震えている。

「だ、だって、女心って、移ろい易いものだし。
でも、ほら、移り気も終わったからさ、元の鞘に戻ろ?」

 今度は最後まで言い切ったが、唯は納得する様子を見せていない。

「だから、何を言ってるの?
その移り気に翻弄された側は、どうなるの?
移ろい易いからって、相手を弄んでいいと思ってるの?」

 唯は言葉を放ちながら、律へと歩みを進めてきた。
尋常ならざる様子を感じ取った律は、逃げるように後ずさる。

「律先輩、本当にそんな事、思ってるんですか?
律先輩が悪いんですよ?
不可抗力なんて言い訳、認める訳がありません」

 梓も声を震えさせ、律に近付いてきた。
梓からも後ずさって距離を取りながら、律は言う。

「いや、唯や梓達にだって、そういう傾向あるでしょ?
同じ女として、理解して欲しいな。
実際に、自分の意思じゃどうにも抑えられない事って、あるんだよ」

「性別以前に、人間として許せないわ。理解なんて、できる訳がない」

 紬までもが、律の言葉を理解しようとしなかった。
顔を憤怒に歪め、距離を詰めてくる。

 律は後退しながらも、無理解な三人に腹立ちを感じてもいた。
追い詰められた焦りも相俟って、ほとんど衝動的に叫ぶ。

「女心と秋の空だもんっ。
そういう乙女心を理解しないところが、別れられる原因なんだよ。
そっちの自己責任なんだから、自分で責任取って私を巻き込まないでよ」


 直後に、唯と梓、紬の顔色が変わった。
律は衝動のままに発した本音を悔いたが、放たれた言葉はもう戻らない。
唯も梓も紬も、既に律に向けて飛び掛かってきている。
その獰猛な姿に弾かれたように、律は背を翻して駆けた。

「その言い草は何なのっ?」

 叫ぶ唯の声がすぐ後ろに聞こえて、律は必死に足を動かす。
何とか方向を変えて家に逃げ込みたかったが、既に紬が先回りしていた。

「絶対に許せない、絶対によ」

 門の前に構えて猛る紬を見ては、このまま家から遠ざかる方向へと駆けるしかない。
そこに、梓も追い縋ってきた。

「もう、実力行使してやるんだからっ」

 非力な律では、梓が相手でも力では負ける。
逃げるしかなかった。

 自分の家に入れずとも、律に逃げる場所ならあった。
澪の家、だ。
そこを目指して、律は駆けた。

 走りながら後方へと目を走らせると、紬も追ってきていた。
律が家から遠ざかった事で、門の前を塞ぐ必要などないと判断したのだろう。
ただ、紬は出遅れただけあって遠い。
すぐ背後に迫っている唯や梓の方が、今の律にとっては脅威だった。

 荒々しい呼吸の音と足音が、段々と近付いてくる気がしてならない。
唯と梓が影のようにも思えた。
だが、澪の家はもう見えている。後少し、もう少しだ。

「逃がさないよっ、りっちゃんっ」

 唯の放つ声が真後ろから聞こえて、直後、肩に指が触れた。

「ひっ」

 唯と思しき手は肩を掠めただけなのに、律は口から恐怖に引き攣った声を漏らした。
今は難を逃れた。だが、もう指が触れる距離まで接近されているのだ。
次こそ、肩を掴まれるかもしれない。
胸に込み上げるその恐怖が、律の呼吸の間隔を短く早く加速させてゆく。


「今度こそっ、逃がさないっ」

 唯の声とともに伸ばされた手が、今度こそ律の肩を掴んでいた。

「いやあぁっ」

 律は悲鳴を迸らせながら、錯乱したように激しく身体を振った。
走行中に暴れられては、相手も掴み続ける事が難しいのだろう。
拘束に至らぬまま、律を掴む力が緩んだ。
その機を逃さず、律は更に身体を激しく振り乱す。
そうして掛けられた手をどうにか振り解いたが、その反動で律もまた体勢を崩してしまった。
転びそうになる身体を支えようともがく律の目に、同じく体勢を崩して舞う唯の姿が映る。
掴んでいた手が唯のものだったと気付いた時、律の目が接近してくる梓を捉えた。
慌てて逃げようとするも、よろめく身体が思うように動いてくれない。

「チェックメイトですっ」

 梓の両手が、律の腰に回されていた。
律は梓を振り解こうと再度暴れたが、減速したところを拘束されては逃れる事も叶わない。
澪の家を眼前に置いて、悔しさと恐怖だけが空回りする。
いっそ、ここから大声で澪に助けを求めようか、浮かんだその考えを律は即座に否定した。
拘束された状態で下手に梓達を刺激しては、それこそ何をされるか分かったものではない。

 だが、拘束さえ脱する事ができれば。
澪の家は、目の前だ。

「覚悟してもらうんだからっ」

 梓の叫びを耳朶に受けながら、律は唯と紬を盗み見ていた。
律が捕まった事で安心したのか、紬はもう走ってはいない。
やや離れた位置で、こちらを見ているだけだ。
一方の唯は律や梓の近くには居るものの、やはり気が緩んで見えた。

「梓ぁ、ごめんなさい。私、私っ、皆に酷い事しちゃったよぅ。
ひぐっ、許して……」

 律は涙を目に浮かべて嘆願した。

「何言ってるんですかっ、許す訳ないっ。
律先輩が何をしたか、その身体と心に徹底的に執念的に刻み込まないと気が済まない。
んーん、それでも気が済まない」

 梓の声も対応も冷たかったが、律は諦めずに繰り返す。
今度は、涙の浮かんだ瞳を上目に梓へと向ける。
律が今まで、何人もの人間を誑かしてきた自信の仕草だ。

「意地悪言わないでよう……私、皆に嫌われたら生きていけない」


「そ、そんな事言うなら、始めから、弄ばなきゃいいのに……」

 梓が戸惑ったように目を逸らした。
覗き見れば、唯や紬も同じく視線を彷徨わせている。
未だ律を愛しているからこそ、彼女達は追ってきた。
そして愛してしまっているからこそ、潤む律に憐憫を禁じ得ないのだろう。
彼女達の中で入り乱れる愛憎のうち、律は愛を巧みに利用していた。

 そうして作り上げたこの隙を、律が見逃すはずもなかった。
素早く拘束を脱し、その際に浮いた梓の顎を膝で蹴り上げた。
呻きながら仰け反る梓を置いて、律は呆気に取られている唯の股間も爪先で蹴り上げた。
目を見開いた唯が唸りながら蹲る。
衝撃が子宮にまで突き抜けたのか、唯は股のみならず腹部も手で押さえていた。
非力な律が相手といえど、急所を攻撃されては二人とも立つ事さえ侭ならないのだろう。
不意を衝かれたのだから尚更だ。

 律はこの機が最後と、澪の家を目指して駆ける。
唯一攻撃を受けていない紬が慌てて追ってきたが、彼女は遠過ぎた。
紬が追い縋る前に、律は澪の家の敷地へと入っていた。

「りっちゃん」

 玄関の前で声に反応して振り返れば、門を挟んで紬が睨んできていた。
唯や梓も満身創痍の姿を見せて、律を地獄の形相で睥睨している。
それでも、彼女達は敷地を跨ごうとはしなかった。
憎悪が身から溢れているにも関わらず、澪の家という一線を超えては来なかった。

 律が澪を正式に本命と宣した以上、彼女達とて所詮は不倫の相手でしかないのだ。
本命の家は、超えてはならない一線との思いがあるのだろう。
律は安心して、一息吐いた。
後は澪に全て話して対応を任せるだけだ。
律が何をしても澪は許してくれる、その自信があった。

 律は唯達を置いて、澪の家へと入っていった。
靴を確認すれば、澪のブーツが置いてあった。
澪は居るようだと、勝手知ったる家の中を律は進む。
階段を上れば、澪の部屋の扉がすぐに見えてきた。

 律はノックを二度だけして、扉を開けた。
玄関のブーツが示していたように、律の王子様がそこに居た。
椅子に座っていた後ろ姿が、開く扉に反応して髪を靡かせながら翻る。

「みーお、助けてよ」

 頼もしげに映る横顔に、律は甘えた声音で縋った。



8