突然泣き出した私を前に、困惑したようなお姉ちゃんの視線を感じる。

急に泣き出してごめんね。
これ以上お姉ちゃんを困らせちゃいけないのに。

私だってそんなに強くないんだよ。
本当はお姉ちゃんを独り占めしていたかったんだよ。

メールだけじゃ足りない。 声が聞きたい。 また歌を聞かせて欲しい。
もう一度だけ笑顔を見せて欲しい。 柔らかな温もりに触れたい。
お姉ちゃん。 お姉ちゃん。 さびしいよ。

涙と一緒に、ずっと抱え込んできた気持ちが次々に溢れてくる。


   私がずっと泣き続けていたのなら、いつまでもそばにいてくれますか?

   もう、どこにも行かないで……


濡れた頬にそっと触れる温もりを感じた。
それが誰よりも愛しい人のものだと知りながら、私はそれを忘れようと努力した。


もう当分涙は出ないだろうと思うほどに泣き、弱音を吐き出した。

お姉ちゃんは何事もなかったかのように話しかけてくれて、
私たちの生活は続いた。

買い物には一緒に行けなかったけど、二人で料理を教えあった。
もったいないからと言われても、私はお姉ちゃんの分を必ず用意した。

お姉ちゃんが家庭菜園で育てていた野菜の世話を手伝った。
ギターを教えてもらい、歌を聞いてもらった。
子猫の遊び相手をしながら、いろんな話をした。

大学に行っている間も、アルバイトに出ている間も、お姉ちゃんの事を考えていた。
私が出かけているうちにいなくなってしまわないか、不安でいっぱいだった。


もしかしたら、こんな日々がずっと続くのかもしれない。

そんな僅かな期待は、やっぱり甘い願望に過ぎなかった。


死んだ前後の記憶がはっきりしないんだ、とお姉ちゃんが教えてくれた事があった。

自分だけが取り残されたような、真っ暗で、真っ白な霧がかかったような世界。
ああ、そういえば自分は死んだんだっけ、としばらくしてから気づいたという。

どれだけ長い時間をたった一人で過ごしたのだろう。
逃げ出すことも、助けを求めることもできない、永遠に感じられる孤独。
どこからか迷い込んできた子猫だけが話し相手だった。


だから、憂がこの家に来てくれた時はとっても嬉しかったんだ。

何とかして気づいて欲しかったけど、
驚かせたら憂はびっくりしてこの家を出ていっちゃうかもしれないから、
さりげなく目の前で子猫と遊んだり、テレビをつけてみたりしたんだ。

いつか憂が私を見つけてくれる事を信じて。


似ている、と思った。

私がずっと昔から抱え込んできたもどかしさ。
人生の大半をかけた片想いに。


予兆はあった。
夢だったのか現実だったのか、はっきりしない記憶の中のやり取り。

まだここにいたい、でも行かなくちゃいけない。
そう伝えようとしているお姉ちゃんに、私は気づかない振りをし続けていた。


   憂、好きな人はいないの?
   憂に恋人ができたら、私は邪魔になっちゃうかな。

なによりも残酷な質問に、
お願いだからそんなこと言わないで、と笑ってごまかすことしかできなかった。


   憂のこと、ずっと見守ってるからね。
   私はずっと、憂のお姉ちゃんなんだから。

また私を置いてっちゃうの?
結局、私は最後までお姉ちゃんの妹でしかなかったの?


どこにも行かないで。

もう間に合わないと知りながら、私は小さなわがままを呟く事しかできなかった。


愛した人の唇が、 『さよなら』 の形に動き出す。

抱きしめようと駆け出しても、足が震えて追いつけない。
繋ぎ止めようと伸ばした手は遠く届かない。


お願いだから、行かないで。


私が憧れ、追いかけ続け、ついに届かなかった笑顔を残して。



遠回りをしたのは何故だろう。
夢の中でさえ、とうとう言えなかった。


好きな人に、好きだって。


その日の朝。
なかなか目が覚めないと思ったら、カーテンが閉まったままだった。
静まり返った薄暗い部屋に気づいたとき、悲しい予感がした。


誰かを探すような子猫の鳴き声に、お姉ちゃんが行ってしまった事を確信する。
不安そうに歩き回る子猫は、ついに本当の意味で飼い主と引き離されたのだ。

いずれこんな日が来ることはわかっていたはずなのに。
この喪失感を、私は嫌というほど知っていたはずだったのに。

悲しみに慣れることなどなかった。
いつも少しずつ私の先を行くお姉ちゃんに、また置いていかれてしまった。


人は決して誰かのために泣けないという話を思い出した。
大切な人を失っても、その人を失くした自分が可哀想で泣くのだという。

お姉ちゃんが死んだ日、私はどうして泣けなかったのだろうか。
私はあの夜、冷たくなっていく子猫のために泣いたのだろうか。

私は今、誰のために泣いているのだろう。

涙が枯れたりなんてしないんだな、と他人事のように考えていた。


子猫がいなくなった夜。

隣の家のおばあちゃんが子猫を見つけた時には、すでにぐったりしていたのだという。
登っていた木から落ちてしまったらしい。 猫のくせに、飼い主に似てドジな子だ。

腕の中から消えていく温もりが信じられなかった。

私たちは一晩中待った。
子猫がもう一度目を開けるのを。 いつもの甘えた鳴き声を。
信じてもいない奇跡を。


どうしてなんだろう。
私が大切に愛した相手は、次々に私の前から居なくなってしまう。
それがどれほど大切だったのか、いつも失ってから思い知らされる。

こんな悲しい思いをするくらいなら、いっそ出会わなければよかったのだろうか。
そんな考えすら頭をよぎった。


夜が明け、目を覚ますと不思議なことに子猫の姿は消えていた。

すぐそばで聞こえた、見えない鈴の音。 小さく甘えた鳴き声。
子猫もまた、お姉ちゃんと同じように戻ってきたのだった。


見えなくなった子猫をあやしながら、ぼんやりとお姉ちゃんの事を考えた。

お姉ちゃんは気づいていたのだろうか、とふと考える。

愛情より欲望に近い、醜く歪んだ私の想いに。
お姉ちゃんの命日に、私が何をしようとしていたのか。
私がこの家で一人暮らしをしようと考えた本当の理由を。



いつの間にか受信していたメールに気づき、震える指で携帯を開く。

お姉ちゃんからの最後のメッセージだった。


あなたの涙をぬぐってあげられなくて、ごめんね。

いつまでもここで憂と一緒に暮らしていたかったけど、できないんだ。
もう行かなくちゃいけないんだ。

でも、私はもう一度憂と過ごせて楽しかったよ。
私が死んじゃった理由も聞かないで、そっとしておいてくれて嬉しかったよ。

むかし軽音部で歌ってた曲みたいだね。
きっと神様がお願いを聞いてくれて、二人だけの奇跡の時間をくれたんだよ。

子猫、死んじゃって残念だったね。

私みたいに、しばらくは自分が死んだことに気づかないかもしれない。
でもいつか自分が死んだことに気づいたら、憂のところを去ると思う。
その時がきても、どうか悲しまないであげて欲しい。


私は憂の気持ちに応えてあげられなかったことを知ってる。
たくさん、寂しい思いをさせてしまったこともわかってる。

それでも私の自慢の妹は、私みたいに弱くないって信じてる。
私の最後のわがままだと思って、憂には生きることを選んで欲しい。

世の中には、自分じゃどうしようもできない悲しいことがたくさんあるけど、
涙が出るほど幸せなことだっていっぱいあるんだよ。

私はいなくなっちゃうけど、私の好きだった世界を、どうか嫌いにならないで。


誰よりも私を支え続けてくれた憂。
泣き虫な憂も、やきもちを焼く憂も、大好きだったよ。

もう本当にさよならだね。
これからはあんまり泣いちゃだめだからね。


今まで、本当にありがとう。


どれくらい泣いていたのだろう。

涙を拭いて、カーテンを開ける。
どこまでも広がる青い空。 痛いほど眩しい光に目を細める。
お姉ちゃんと一緒に育てた家庭菜園のプチトマトが水滴をつけてきらきら輝いていた。

この世界に、確かに彼女は生きていた。

死を選ぶ程の絶望を経てなお、お姉ちゃんが好きだったと言った世界。
お姉ちゃんの後を追いかけようとしていた私に、それでも生きて欲しいと願った世界。


お姉ちゃんが残してくれたいくつもの思い出。

幼い頃にプレゼントしてくれたホワイトクリスマス。
あったかなマフラー。 変わったおかゆに、素敵な詩。
部屋の隅に置かれたギター。 数え切れないほどたくさんのメール。

今度は、私が返そう。


ギターを取って、静かに口ずさむ。
わずかな間だったけど、お姉ちゃんに教えてもらった、私たちの歌を。


少し震える声で、確かめるようにゆっくりと歌い始めた。
一緒に過ごした日々を想いながら。


   キミがいないと何もできないよ キミのごはんが食べたいよ
   もしキミが帰ってきたらとびっきりの笑顔で抱きつくよ

   キミがいないと謝れないよ キミの声が聞きたいよ
   キミの笑顔が見れればそれだけでいいんだよ


きっと、あなたは知らない。
あなたの書いてくれた言葉の一つ一つが、どれだけ嬉しかったか。

嬉しくて涙が止まらなかった学園祭。
夢中になれる事を見つけたあなたに、本当は嫉妬していたこと。


   キミがそばにいるだけで いつも勇気もらってた
   いつまででも一緒にいたい この気持ちを伝えたいよ

   晴れの日にも 雨の日も キミはそばにいてくれた
   目を閉じればキミの笑顔 輝いてる


いつだって私を幸せにしてくれた、誰よりも素敵な笑顔。
思わずつられて微笑んじゃうような、そんな笑顔が大好きで。


あなたを支えているようでいて、支えられていたのも私だった。
私たちはきっと、お互いに足りないものを求めて寄り添い合っていたんだね。


   キミがいないと何も分からないよ 砂糖としょうゆはどこだっけ
   もしキミが帰ってきたらびっくりさせようと思ったのにな

   キミについつい甘えちゃうよ キミが優しすぎるから
   キミにもらってばかりで 何もあげられてないよ


それでもいつかは必ず終わる、限られた時間だから。
過ぎていく毎日の一つ一つを、もっと大切にすればよかったね。


   キミがそばにいる事を当たり前に思ってた
   こんな日々がずっとずっと続くんだと思ってたよ

   ごめん 今は気づいたよ 当たり前じゃない事に
   まずはキミに伝えなくちゃ 「ありがとう」 を


ありがとう。 幸せな日々をくれた人。
誰かを想う切なさと、嬉しさを教えてくれた人。


もうあなたの言葉は届かないけど、どこかで見守っていて欲しい。
どれだけ時間が流れたって、絶対に忘れたりなんかしないからね。


   キミの胸に届くかな 今は自信ないけれど

   笑わないで どうか聴いて 思いを歌に込めたから


この声があなたに届くと信じて。
まだ下手だけど、きっと届くと願いを込めて歌うよ。


   ありったけの 「ありがとう」 歌に乗せて届けたい

   この気持ちはずっとずっと忘れないよ


思いよ、届け。



また一つ、ギターに涙がこぼれ落ちた。


私は、神様がくれた奇跡の時間に心から感謝した。

ありがとう、お姉ちゃん。
あなたのいない世界を、私はこれからも生きていく。


もう、ずっと一人がいいなんて悲しい事は言わない。

お姉ちゃんと一緒に過ごした子猫がまだそばにいてくれるから。
私はきっと、この子猫のおかげでお姉ちゃんを見つけることができた。

しあわせを届けにきてくれた子猫。
まるで、私とお姉ちゃんを繋ぎ止めてくれるためにこの家にきてくれたみたいだね。



もしも願いが叶うなら。
見上げた空に一番大切な人を思い描きながら、私は考えた。

もし生まれ変わって、もう一度めぐり合えるのなら。


私はまた、あなたの妹でありたい。


お姉ちゃんが死んだ数日前。

何度も立ち止まり、思い悩み、同じ道を行ったり来たりして、
ようやくお姉ちゃんに会いに行く事をあきらめた日。

何をやってるんだろう。 涙を拭きながら帰り道をとぼとぼと歩く。

駅のホームで、見覚えのある人影を見つけた。
流れる黒髪。 相変わらず華奢で小柄な後姿。
まるで、黒い子猫のような。

これから会いに行く、といった内容のメールでもしているのだろう。
彼女はメールに夢中で背後に気づかない。


その背中が押し飛ばされる瞬間、振り向きざまに目が合った。


どうしてそんな目で見るの?
まるで私が悪いことをしたみたいじゃない。

お姉ちゃんを取り返しただけなのに。
私だけのお姉ちゃんなんだから。


ホームに近付く轟音に、彼女の身体が重なった。


絶叫とともに目を覚ます。
この夢を見るのはもう何度目だろう。


親友を殺した夢。
いや、親友が死んだ瞬間の夢。

返り血の感触さえ残っているほど現実的な、だけど夢の中でしかない出来事。
あれが現実だったはずがない。

だってそうでしょう? 梓ちゃん。

まるで私のせいでお姉ちゃんが死んじゃったみたいじゃない。
私を頼りもしないで、あなたを追いかけて死んだみたいじゃない。
文字通り、死ぬほど愛していたみたいじゃない。

結局、お姉ちゃんは私のところに帰ってきてくれたんだから。
最後には私を選んでくれたんだから。



急に届いたメールで、ふと我に返る。

梓ちゃんのアドレスからだった。


彼女と最後に会ったのはいつだったろうと、私はぼんやり考えていた。



おわり