最後にお姉ちゃんと会ったのはいつだったろう。
その時、どんな会話をしただろう。 笑顔でいられただろうか。


一人暮らしをしたいと思ったのは、ただ一人きりになりたかったからだった。
誰一人知り合いのいない土地で、誰とも深く関わることなく過ごしたかった。

遠い親戚が所有していた、今は誰も住んでいない古い家に住ませてもらえる事になった。
実家にも大学にもそう遠くはない、一人きりになるには好都合な場所だった。

前の住人が残した家具をそのまま使わせてもらう事にしたため、
引っ越しは比較的スムーズに進んだ。

この辺には何度か来た事があったが、いざ暮らすとなると新鮮な雰囲気を感じる。


見覚えのある懐かしい家具に囲まれて、新しい生活が始まる。
つい数ヶ月前まで、お姉ちゃんが暮らしていた家だった。


大学を出て、一人暮らしを始めたお姉ちゃん。

幼なじみや友人から過保護だと言われながら、
引っ越しを手伝った後も、私は何かと理由をつけてちょくちょく足を運んでいた。


好きな人ができたの、と笑ったお姉ちゃん。

照れながら打ち明けられる遥か以前から、きっと私は気づいていた。
何気ない仕草や会話の端々から、誰かのものになっていくお姉ちゃんを感じていた。


お姉ちゃんに会いに行く機会がめっきり少なくなったのは、
もう憂がいなくても大丈夫なんだよ、とはっきり言われてしまうのが怖かったからだった。

嬉しそうに恋人の話をするお姉ちゃんの前で、
やきもちと言うには余りにも醜い嫉妬心を抑えきれる自信がなかったからだった。


少しずつ、少しずつ遠くへ行ってしまうお姉ちゃん。
あんなにそばにいたのに。 誰よりもずっと一緒にいたのに。


いつからだったろう。
気づいて欲しいような、気づかれたくないようなもどかしさ。

幼い頃からお姉ちゃんに抱いていた想いは、恋とよく似ていた。


どうして普通の恋愛ができなかったのだろう、と考える事があった。

好きな人に想いを伝えられる事が羨ましかった。
どんなに想っても、どんなに願っても伝える事すらできない気持ちは、
決して報われないと知っている片想いは、あきらめる他にどうすればよかっただろう。

私の気持ちを伝えたら、きっとお姉ちゃんは 「私もだよ」 と笑顔で返すだろう。
ただ、その言葉の中に私が望む特別な想いが込められる事はきっとない。

当然だろう。 受け入れられるはずがない。
同性である以上に、血の繋がった家族なのだから。

お姉ちゃんにとって、私は妹に過ぎないのだから。
その特別な笑顔は、私じゃない人に向けられるものだろうから。

私じゃない誰かのためだっていいから、お姉ちゃんにはいつも笑顔でいて欲しかった。
私はそれを見守っているだけでいい。


答えの出ない問いかけを終わらせるための言い訳ばかりが得意になっていた。

自分に嘘をついている事は、自分が一番よく知っていた。


友人にも手伝ってもらい、引っ越しの作業は順調に終えることが出来た。
大掛かりな掃除を覚悟していた空き家は、予想以上に清潔に保たれていた。

ほこりの積もっていない部屋。 窓際に飾られている花は全く枯れていない。
つい最近まで家庭菜園を行っていた形跡のある小さな庭。
昨日まで誰かが住んでいたんじゃないかと思うほどの生活感。

不思議な違和感の極めつけは、ソファーの陰からひょっこり出てきた猫だった。

真っ黒な子猫。 近所で飼われている子猫だろうか。
お姉ちゃんが猫を飼っていたなんて聞いた事がなかった。
もしかしたらお姉ちゃんが居た頃から遊びに来ていた子かもしれない。

我が物顔でソファーに寝そべる子猫は、むしろ私を不思議そうに眺めていた。


近所への挨拶がてら子猫の事を尋ねて回ったが、
この近辺で子猫を飼っている人の事は誰も知らない様子だった。

隣の家のおばあちゃんによると、
お姉ちゃんが居た頃によく猫の鳴き声を聞いた事があったらしい。


ペットなど飼った事もない上に、
どこか高校の頃の同級生を思わせる顔立ちの子猫に、私は戸惑った。
まさか小さな子猫を捨てるわけにもいかない。

一人きりで過ごそうとしていた矢先に、小さな同居者ができてしまった。


一通り荷物の整理を終え、つい数ヶ月前の事を思い返す。


お姉ちゃんが死んだ日、不思議と涙が出なかった事を憶えている。
断片的に残る記憶の破片は、どれも灰色をしていた。

今も目に焼きついて離れない、天井からぶら下がっていたお姉ちゃん。
声にならない、長い長い悲鳴。
白い花。 シーツの下の起伏。 写真の中に閉じ込められた、愛しい笑顔。

お姉ちゃんのお別れに集まってくれた、たくさんの人たち。
知っている人もいれば、知らない人もいた。
高校の同級生たち。 大学の同期生らしき人たち。 軽音部の仲間たち。

すすり泣く澪さん。 うつむいて唇を震わせる律さん。 泣き崩れる紬さん。
そして、涙をこらえながら必死に私を慰めてくれた親友。
またバカな事をして、とメガネの下の涙を拭う、呆れ顔の幼なじみ。


遺書らしき物は残っていなかった。
せっかちなお姉ちゃん。 遺される人たちの気も知らないで。


新しい環境の生活に慣れるにつれて、
いくつもの違和感がはっきりと形になって表れ始めた。

開け放たれたカーテンから差し込んでいる朝日に目を覚ます。
昨夜閉め忘れたのだろうかと考えながら子猫のエサを用意する。

お姉ちゃんのように人懐っこいが、不思議な子猫だった。

何もない空間を見つめて甘えるように鳴く。 見えない何かにじゃれつこうとする。
まるで歩く飼い主を追いかけているかのように歩き回る。
猫とはそういう仕草をする生き物なのだろうと、気にしない事にしていた。

家の中で探し物をしていると、いつの間にか目の前に置かれていた事がよくあった。
いつの間にかテレビが点けっぱなしになっていた事も一度や二度ではなかった。
画面に映っているのは、決まってお姉ちゃんがよく見ていた番組だった。

まさか、そんな事があるわけがない。
最近疲れていたから、妙な思い違いをしてしまうのだろうか。


お姉ちゃんからのメールが届いたのは、その日の夜だった。


憂、久しぶりだね。
こんなふうに憂と話せる日がくるなんて思わなかったよ。


もちろん、すぐには信じられなかった。 こんな事があっていいわけがない。
これは正確に言うのなら、お姉ちゃんの使っていたアドレスから送られてきたメールだ。

そういえば、お姉ちゃんの使っていた携帯はどこにいったのだろう。
遺品の中にあっただろうか。 解約したかどうか、記憶がはっきりしない。


我ながらバカバカしいと思いながら、おそるおそるメールを返信してみる。

本当にお姉ちゃんなの? 

何故かすんなりと送信されるメール。
気のせいに違いないが、どこかで聞き覚えのある着信音が聞こえた気がした。


お姉ちゃんを亡くしたショックで、私はどうかしてしまったのだろうか。
ありえないアドレスから送信されてくるメールは、自分が平沢唯だと言い張っていた。

確証を得るため、いくつか質問を重ねる。
逆に面白がっているのだろう。 何でも聞いてよ、と挑戦的なメールが送り返される始末だ。

誕生日や血液型などに始まり、好きな色、好きな食べ物、共通の知り合いについて。
軽音部の事。 家族の事。 私の事。 私たちしか知らない思い出。
ところどころ忘れていたり、思い違いをしていたところがお姉ちゃんらしかった。

携帯電話で通話する事はできなかったが、私の発する声は伝わっているようだった。
私からメールを送る必要はないのかと途中で気づく。


この家で起きているささやかな超常現象と、
リアルタイムで私とコミュニケーションが取れている事実を重ね合わせる。

お姉ちゃんのアドレスを知っている何者かが私を監視している可能性も捨てきれないが、
私の周りにこんな悪趣味な悪戯をする知り合いが居ただろうか。

お姉ちゃんだと言い張る誰かの気配を感じるあたりで、子猫が甘えるように小さく鳴く。
私は、戸惑いながらもお姉ちゃんの存在を受け入れる事にした。


きっと、頭の片隅で信じたがっていたから。

そして、まだ伝えていない事があったから。


私と、子猫と、お姉ちゃんの奇妙な生活が始まった。

お姉ちゃんは、自分の状況をある程度理解しているようだった。
もちろん、どうして自分がこの家にとどまり続けていられるのか、
なぜメールを送れたのかまではわからない。

物を動かす瞬間などを見る事はできなかったが、家の中の物には干渉できるらしい。
動ける範囲はこの家の敷地だけ。
睡眠をとる必要もなくなったため、部屋の掃除や庭の手入れなどは欠かさなかったという。

お姉ちゃんは私が起きる前に部屋のカーテンを開け、朝食の準備をしてくれるようになった。
洗濯や掃除、料理の手伝いまでしてくれる。

さぞダラダラした浮遊霊のように過ごしているものとばかり思っていたが、
生前よりずっと働き者になっているのはどういう事だろうと考えておかしくなる。

お姉ちゃんは私が笑った理由を尋ね、
幽霊を怒らせると怖いんだからね! 呪うよ! と脅してきた。

子猫はいつの間にかこの家に迷い込んできたのだという。
かつて軽音部の後輩につけていたあだ名をそのまま名前にしたそうだ。

私は少し複雑な気持ちで子猫の名前を呼んでみた。
気だるそうに鳴いて返事を返す子猫に、お姉ちゃんの笑い声が聞こえた気がした。


お姉ちゃんから頼まれていた買い物を済ませて大学から帰る。
子猫は新しいエサを気に入ってくれたようだ。

私は、この奇妙なやり取りを重ねる生活に慣れていく一方で、
お姉ちゃんに一番聞きたかった質問を避けている事にもどかしさを感じていた。

あんなに明るかったお姉ちゃんが、死を選ぶほどに追いつめられた理由。
今も胸の内に秘めているのだろう、恋人への想い。

最期まで私に打ち明けてくれなかったそれらを問いただしたら、
この生活の全てが壊れてしまう気がした。

お姉ちゃんはその時爆発してしまった感情を胸に秘めて暮らしていたのだろうか。
それとも、ただ覚えていない振りをしているだけなのだろうか。

かつて自分が生きていた頃を想い、涙する事はあっただろうか。
恋人ではなく、私の事を想ってくれた事はあっただろうか。


一瞬、テーブルに頬杖をついて子猫を眺めるお姉ちゃんの姿が見えた気がした。
あの頃のままの笑顔で。


心のどこかで、こんな不自然な生活がいつまでも続くわけがないと気づき始めていた。


ある日、子猫がいなくなってしまった。

夕飯の時間になっても子猫は一向に戻ってこない。
気ままな猫の事だ、そのうち帰ってくるだろうと楽観的に考えていたが、
僅かな不安は時間と共に焦りへと変わっていった。

外に出られないお姉ちゃんは家の中を探し回っている様子だった。
雑誌や洗濯物が散乱し、タンスの引き出しや冷蔵庫の中まで開けられていた。

いてもたってもいられなくなり、私は近所を探し歩く事にした。

遠くまで散歩に行って、帰り道が分からなくなったのだろうか。
どこかで怪我をして身動きが取れなくなっているのだろうか。

それとも、もしかしたら…… もしかしたら……
大声で子猫の名前を呼び回る。 恥ずかしくなんかなかった。

最悪の状況を頭から振り払うように、いつしか駆け足になっていた。


どうしよう。 どうしよう。

途方に暮れ、汗と涙でぐしゃぐしゃになって帰ると、
お姉ちゃんがお茶とタオルを用意して待っていてくれた。
絶対帰ってくるから大丈夫だよ、と精一杯に強がって。

どこかで鈴の音が聞こえた気がした。
慌てて飛び出すと、隣の家のおばあちゃんがいた。
怪我をして動けなくなっているのを見つけたの、と子猫を腕に抱いて。

見つかってよかった。 子猫を抱いて泣き崩れる。
いつの間にか、子猫が私の中でこんなにも大切な存在となっていたことに気づかされる。


その夜、私たちはずっと子猫のそばで過ごした。


薄着で走り回ったのが良くなかったのか、風邪を引いてしまったらしい。

寒気を感じ始めた時にはもう遅く、次の日には熱が出始めていた。
心配そうに見上げる子猫の視線と、あたふたしているお姉ちゃんの気配を感じる。

そういえば、高校生の頃にもこんな事があったっけ。

大丈夫だよと呟きながら、一人じゃなくて良かったと安堵する。
つい数日前まで一人きりになる事を望んでいたくせに。

薬を飲んで眠りにつく。


高熱にうなされながら、いつしか私は夢を見ていた。


少し大人びたお姉ちゃんの笑顔。
眩しい朝日に照らされて始まる、私たちの一日。

子猫を連れて散歩に出かける。 誰もいない静かな公園。
柔らかな風が私たちの髪と子猫のヒゲをなびかせる。
きらめく湖をながめ、木漏れ日の下で他愛もない話を続ける。

今度は軽音部のみんなと一緒に遊びにこようね。
子供みたいに輝く笑顔がどうしようもなく愛しい。

なんでもない仕草が、当たり前の様な会話の一つ一つが、
私を幸せの色に染めていく。

夕焼けに染まる帰り道。 どこまでも伸びる二人と一匹の影。

一緒に買い物をして帰ろう。 二人で一緒に夕飯を作ろう。
久しぶりに一緒にお風呂に入って、おしゃべりしながら一緒に寝よう。
明日はどこに行こっか。

このままずっと時間が止まって欲しいと願った。
暮れていく今日がなんだかもったいない。
それでも明日が待ち遠しい。


ああ、どうしてだろう。
こんな毎日がこれからもずっと続くのに。

こんなに幸せなはずのに、どうして涙が出そうなんだろう。


ふと目を覚ますと、そこは一人きりの真っ暗な部屋だった。


頭が熱く、身体が重い。 高熱と寝汗にまみれた自分がひどく惨めだった。
ついさっき見た、あまりにも幸せすぎた夢を思い、ついに私は泣き出してしまった。

絶対に見てはいけない夢だった。
それはどんなに願っても、二度と戻れない時間だったから。
これからも永久に訪れる事のない日なのだから。

嗚咽をこらえながら、涙がボロボロと溢れて止まらない。


すぐそばにお姉ちゃんの気配を感じた。
寝込んでいる間、ずっとそばにいてくれたのだろうか。
あの頃と同じように、私を見守っていてくれていたのだろうか。

私を元気づけようと、
残酷すぎるほどに幸せな夢を見せてくれたのだろうか。


いつの間にか記憶の奥に閉じ込められていた歌がふいに蘇る。

ちょっと変わったおかゆと一緒に、お姉ちゃんが作ってくれた詩。
私の事だけを想って書いてくれた、私たちの歌。

もう二度と聞くことのできない歌声が、ぽっかりと空いていた心の中を埋めていく。


   キミがそばにいることを当たり前に思ってた
   こんな日々がずっとずっと続くんだと思ってたよ


私だって、と思った。
私だって、お姉ちゃんがそばにいることを当たり前に思ってた。
幸せな毎日がずっとずっと続くことを願っていた。

そこにあって当たり前なんかじゃなかった私たちの日常。
どんなに心の奥に閉じ込めようとしても、忘れることなんてできなかった。


お姉ちゃんの背中ばかりを追いかけていた、遠い昔の自分を思い出す。

お姉ちゃんの周りには、いつもたくさんの人が集まっていた。
『できた子』 を演じていただけの私にはない、不思議な魅力。

お姉ちゃんがいなくなって、弱くちっぽけな私だけが残った。
明るく、しっかり者で、何でもできたあの頃の私はどこかに行ってしまった。


記憶の中のお姉ちゃんが、スポットライトを浴びて歌っていた。
最高の仲間たちと一緒に、とびっきりの笑顔で。


あなたがいないと何もできないのは、私のほうだった。


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