164 : ◆z.RlTki.D. 2012/08/29(水) 12:11:37 ID:eIu5qoLM0
6.
スズムシが鳴き始めた初秋の夜、久々に夫婦で外出をした。高校生時代からのファンだったジャズピアニストが、桜ヶ丘でコンサートをするからだ。
チケットをくれたのは、憂だった。
「お世話になった医大の先生から貰ったんだけど、梓ちゃんが好きだったな、と思って。ペアチケットだけど、私には相手もいないし。細やかだけど、快気祝いってことで」
術後の生理も始まり、容体はすっかり安定していた。
表向きは回復を見せていた私を、周囲は祝福してくれた。
とくに夫の表情が日に日に軽くなっていくのを見ると、かなり負担をかけてしまっていたのだろう。
だから、私は、間違っていないはずだ。そう。あれは、悪い夢だったのだ。
地味ながらも根強い人気を誇っている奏者なだけあって、会場には幅広い世代の観客が集まっていた。チケットのもぎりに、長い列ができている。
流れに乗るように一歩進もうとした所で、何人か前に居た女の子が転んだ。幼稚園児くらいの彼女に、祖父らしき老人が慌てて屈む。女の子はちょっとだけ泣きそうになりながらも、どうにか立ち上がってみせた。老人の顔が綻んで、女の子の頭をなでる。
急に、胸がきしむ。これ以上は、見てはいけない。なのに、眼球が固定されたように動かない。足が、震えている。夫が声をかける。列が止まったせいか、後ろからどよめきが聞こえる。
気を取り直して歩き出そうとするが、駆け寄ってきた青年の声に、また注意をそらされる。老人から話を聞いた青年は女の子を見て安堵し、青年と同じくらい若い、後から来たお腹の大きな女性の肩を抱く。
もう、私は動けなくなる。自分の鼓動が速すぎて、胎児のそれを思い出す。脂汗が噴出してくる。もう、いい。もう、見るな。もう、もう。
女の子は、女性の大きくなったお腹に耳を預けると、やがて弾んだ声をあげた。
―― 決定的だ、と思った。
165 : ◆z.RlTki.D. 2012/08/29(水) 12:12:44 ID:eIu5qoLM0
思わず駆け出していた。誰かを突きとばしたが、そんな事どうでもよかった。夫が追いかけてくるのが分かったけれど、そっとしてほしかった。速く、この場から逃れたかった。
方向も構わず滅茶苦茶に走りつづけて、躓いて転んだ先に、傾斜の感覚と、芝生の感触があった。水の流れる音から、そこが河川敷だという事に気付く。いつか唯先輩と、演芸大会の練習をした所だろう。ふと、唯先輩の甘い声を思い出す。その懐かしい感情がトリガーとなって、一気に感情が噴出した。
「あああああああああああ!!」
突っ伏したまま地面に向かって咆哮するも、叫びは際限無く湧き出てきて、身体を突き抜けて爆散する。
「どうしてよ! どうして!? どうして私なのよ!! 私が何をしたっていうのよ!」
自分でも信じられないくらいの声が出た。右の拳で何度も芝生を殴りつける。涙と鼻水と涎が、蛇口の壊れた水道のように溢れてくる。
「忘れられない! 忘れられるわけ、ないじゃない!! 幸は、幸は……!!」
私の子供なのに!!!
「どうして私だったの!? なんで、あの子じゃないのよ!」
「 ―― あの子が死ねば良かったのに!!」
は、
とすべてが止まる。今、何を言った?
「……何よ」
言葉の意味を後追いして、後悔に押しつぶされる。いっそ、粉微塵に砕いてほしかった。
「本当に、死ぬべきなのは、私じゃない」
それから、嗚咽が止むことはなかった。止める気も無い。悲しくて情けなくて申し訳なくて、いっそ消えてしまいたかった。こんな母親だから、幸に嫌われてしまったのだ。選んでくれた幸の期待を、最悪な形で裏切ってしまう、最低な母親。それが分かったから、黙って雲の上に帰ってしまったに違いない。
「……あの、どうかしたんですか?」
女性に心配そうな声を掛けられるも、私は顔を上げることができない。
放っておいてください、親切にしないでください、私には、そんな資格はありません。
鼻声でそんな事を口にすると、しばらくして頭を撫でられた。
やめてくださいごめんなさい、と繰り返し唱える。
でも、女性の手は止まらない。とても懐かしく、落ち着く感触に、さらに声をあげて泣いた。女性の手が困惑したように止まったけれど、すぐに撫で始める。心なしか、少しだけ優しくなっている。
「大丈夫だから。もう泣かないで、あずにゃん」
166 : ◆z.RlTki.D. 2012/08/29(水) 12:14:21 ID:eIu5qoLM0
7.
差し出されたホットミルクが、口内に甘い余韻を残して通り過ぎる。ほっと息をつくタイミングが、唯先輩と重なっていた。。
唯先輩の部屋は、どこか高校時代の彼女を彷彿とさせるような、懐かしい雰囲気があった。降り注ぐナツメ球のオレンジが、私のノスタルジーを煽っているのかも知れない。
「おいしい? あずにゃん」
鼻を啜って頷くと、唯先輩は相変わらずの人懐こい笑顔を見せた。大学時代よりもずっと大人びた唯先輩が、この時ばかりは幼く感じる。
「えへへ、でしょ? でもこれ、意外と低カロリーなんだよ。砂糖の代わりに、羅漢果(らかんか)顆粒って言うのを入れてるんだ。だから糖尿病を気にせず、何杯でもいけるんだよ」
おそらく、憂あたりに勧められたのだろう。唯先輩は今年で27歳になるはずだから、そろそろ健康に気を遣い始める年齢なのかもしれない。相変わらず、甘いものばかり食べていそうだし。……もっとも、一つ下の私が言えることじゃないのだろうが。
私が流産したことを、唯先輩は知っているのだろうか。いまだに憂と同居しているのなら、何か聞いていてもおかしくは無い。なのに、唯先輩はそんな素振りを見せず、ただ莞爾(かんじ)とした笑みで私を見つめている。
「ひさしぶりだね。あずにゃんの結婚式以来、かな」
「はい」
と両手でマグカップを包んで、思い出したように付け加える。
「あの時は、ありがとうございました」
披露宴で、唯先輩たちが放課後ティータイムの演奏をしてくれて以来だから、もう4年になる。それは今も幸せな宝物として、心の一番奥で輝いている。
「あずにゃんは、今、幸せ?」
唯先輩も両手でマグカップを包んだ。視線は、私の左手の薬指。
答えは決まっているのに、すぐ言葉にできない自分がいた。
「……しあわせ、です。夫は優しいし、憂たちとも、未だに仲が良くって。困ったことがあると色々助けてくれます。お金があるわけでも無いけれど、何とかやって行けてます。それだけでも、たぶん、幸せなんだと思います」
マグカップを握る力が強くなる。それでも、ぬるめに作られたホットミルクでは優しい熱さを感じるだけ。私は、幸せなのだ。
「そっか」
唯先輩はさみしそうに視線を逸らしたけれど、すぐにくしゃっと笑った。
「良かった」
「私、流産したんです」
その笑顔を見ることが辛くなって、言ってしまった。唯先輩から笑顔が消えていく。ああやはり、言うべきじゃ無かった。こんな重いこと、誰も聞きたくはないだろうに。前に、進まなければいけないのに。でも話さなければ、唯先輩が悲しみそうな気がして。そんな唯先輩は見たくなくって。
「1か月くらい前のことです。稽留流産という病気で、産まれる前に赤ちゃんを失くしました。女の子だったそうです」
「そっか」
唯先輩は頷くだけだった。何を言うべきか、困っているのかもしれない。
「それはもちろん、悲しかったです。未だに思い出して泣いちゃう時があります。唯先輩にまで、見られました。
駄目ですよね、いつまでもウジウジしちゃって。夫も憂も、純も父も母だって、皆、励ましてくれたのに。支えてくれているのに、私だけが前に進めないでいるんです」
「……あずにゃん」
「どんなに悲しんだって、幸は、生き返りません。どうにもならない以上、考えるべきじゃないんです」
「あずにゃん」
「唯先輩すみません。こんな重い話、聞きたくなかったですよね。私がこんなだと、幸も責任を感じちゃいます。忘れたほうが、むしろ幸のため 「あずさちゃん!!」 」
唯先輩の口から、今までに聞いたことの無いほどの大声が出た。それは私の心身を一瞬で見えない何かに縫い付けて動かなくしてしまう。
「それ以上は、め、だよ。あずにゃん」
167 : ◆z.RlTki.D. 2012/08/29(水) 12:16:04 ID:eIu5qoLM0
学生時代耳なじんでいた口調なのに、懐かしさなんて微塵も感じない。
怒りと悲しみと愛しさが入り混じったような、形容しがたい表情をしていた。
それはたぶん、“大人になった”唯先輩なのだと思った。
「あずにゃんが忘れたら、誰が幸ちゃんを憶えているの? そんなことされて、本当に幸ちゃんは嬉しいと思う?」
答えることができない。違う。回答なんて分かりきっている。でも、私は。
「あずにゃんは真面目で良い子だから、周囲の期待に応えようとするんだよね。善意なら、なおさら。それはあずにゃんの素敵なところだと思う。
でもね、あずにゃん。
それだけで、私たちは友達になれたのかな?」
首を横に振る。確かに真面目なだけでは、仲良くなれなかっただろう。練習をしつこくせがむ後輩を、先輩たちは疎まなかったから。
一緒になって毎日のようにお茶をしたり、当たり前のように卒業旅行に連れて行ってくれたから。
遊んでばかりの唯先輩や律先輩。窘めつつも、結局は乗せられてしまう澪先輩。唯先輩たちの御ふざけに悪ノリしてしまう、意外と快楽主義なムギ先輩。個性も演奏技術もてんでバラバラなのに、一緒にいると楽しくて。私たちは、何時の間にか“放課後ティータイム”になっていた。
「昔言ったよね。“あずにゃんはあずにゃん”って。
真面目なとこも可愛いところも、練習したいと言いつつ一番はしゃいじゃう所も、清濁硬軟すべてひっくるめたあずにゃんと、私たちは友達になったんだよ。憂も純ちゃんも、さわちゃんも後輩たちも、皆そうだったんじゃないかな」
そうかもしれない、と思った。いや、昔から分かっていたことでもあった。きっと、お腹の子を掻き出したとき一緒に出て行ってしまったのだろう。
「悲しいときは、悲しんでいいんだよ。一生懸命泣いて悲しんで、涙からっぽにしちゃおうよ。独りでいるのが辛かったら、いつでも頼ってよ。みんな、絶対支えてくれるよ? 少なくとも、私はあずにゃんを裏切らない」
唯先輩は自分の左手の中指に右手を添え、私に笑みを向けた。一瞬だけ、高校時代に遡ったような気がして、胸がつまる。理由は、よく、分からない。
「自分のペースで、思い立った時に立ち上がるんだよ、あずにゃん。ゆっくりでも良いから、自分の好きなように足を動かすの。それが、“前に進む”ってことなんだよ。そんなあずにゃんを、誰も責めたりしないよ」
す、と頬を伝うものがあった。無理しなくて良い。私は、私のままで良いのだ。
「幸は」
視界が揺らいで見えなくなる前に、唯先輩に聞いてみたいと思った。
「幸は、しあわせだったでしょうか」
「当然だよ」
唯先輩はにっこり笑った。
「幸ちゃんは、自分が短い命だと知っていたんだよ。それでも良いって言って、あずにゃんの所に来たんだと思う。あずにゃんと、パパが、とても仲良くしていたから。短い間だけでも良いからその一員になりたかったんじゃないかな」
それは、いつか純が話していた“胎内記憶”のエピソードと重なった。
「だから、それが出来て、満足だったんだよ」
「幸」
「しあわせだったんだよ、あずにゃん」
「さち」
泣いているのに、気持ちがとても暖かかった。
「さち、さち、さち……!!」
唯先輩に抱きしめられながら、娘の名前を呼びつづけた。大粒の涙が、ぼろぼろと零れ落ちていく。
ただ、ただ、あふれて止まらなかった。
168 : ◆z.RlTki.D. 2012/08/29(水) 12:17:15 ID:eIu5qoLM0
8.
「梓ちゃん、すっかり元気になったね。笑顔が、とっても綺麗」
憂の顔が嬉しそうに綻んだ。そういえば、久々に憂の笑った顔を見た気がする。
流産してから2か月が経っていた。私の身体は、もう何処も心配無いらしい。
あれだけ母親であることが辛いと思っていたのに、いざ憂から“次のお産”というワードを聞くと、いつの間にか心ときめいている自分がいた。
唯先輩の腕の中で泣いたあの日から、解放されたように、心が軽く、はずんでいた。頭に巣食っていた腫瘍のような違和感も、涙とともに流れ去ってしまっていた。
幸のことを、忘れる必要なんか、ない。そんな簡単なことに気づいただけなのに、世界の何もかもが、私を褒め称えているように見えて仕方がなかった。
幸は、私の娘。娘が死んで、悲しまない母親はいない。当たり前のことだ。
だから、悲しんだって、良い。前さえ向いていれば、それで、良い。
幸が来てくれて、嬉しい。
幸は天使になってしまって悲しいけれど、それもひっくるめていい思い出になっていて。
幸は、永遠に私の娘なんだ。
そう思える事が、とても誇らしかった。
それを、幸にも伝えたい、と思った。
私は部屋の片隅に封じてあったダンボール箱から、一枚のルーズリーフを取り出した。色あせていない上質紙には、消えないようにしっかりボールペンのインクを染みこませてある。大きく記された詩の表題は、4人の先輩たちの直筆で、カラフルに彩られていた。周りに、丸や下線やメッセージなどが躍っていて、書いたときを思い出して温かい気持ちになった。
「天使に、ふれたよ」
表題を読み上げると、これ以上無いほど、私と幸の関係と、しっくり合致した。まるで2人のために誂えたように錯覚してしまうのは、行き過ぎた我儘だろうか。
169 : ◆z.RlTki.D. 2012/08/29(水) 12:18:11 ID:eIu5qoLM0
「ねぇ、思い出のカケラに、名前をつけて保存、するなら、“宝物”がぴったりだね」
歌いながら新しいルーズリーフに詩を写すと、積み重なってきた想いたちがボールペンを伝って、紙に流れていくのが分かった。
―― そう ココロの容量が いっぱいになるくらいに過ごしたね ときめき色の毎日
本当に、楽しかった。妊娠を知ったその日から、夫と一緒になってはしゃいでいた。定期検診のたびにどんどん大きくなっていく身体。心臓の音が思ったよりも力強くて。予定日を知った時も驚いた。その日はなんと、バレンタインデーだったから。
―― 君は空に帰ってしまって 心が空っぽになって
ペンは走り続ける。これから紡ぐのは、私と、幸の、“私たちのための”、歌。副題、"Still-born"。
―― 涙が溢れても 君のことは忘れられない
幸にはもう会えないけれど、歌声は、雲の上の彼女に届くはずだから!
「でもね、 会えたよ! すてきな、天使に」
少し、瞳がうるんだ。でも、それが私の、想い。だから、このままで、良い。
―― 君とはまだ お別れじゃない これからも
「――親子だから」
―― すこしの間だと 分かってて それでも
歌詞が出来たら、唯先輩たちに見てもらおう。そして、この想いを、音楽に乗せよう。
―― ずっと 君のこと愛してる
開け放した窓から涼しい風が吹いてきて、ルーズリーフの端を、ゆっくり楽しげに揺らしていた。
「ずっと、永遠に、一緒だよ」
お し ま い