どのくらい経ったか、澪は背後のお堂の中から、微かな光が洩れてくるのに気が付く。

立ち上がってお堂の中を、両開きの扉の格子越しに覗く。
金属性の仏像が何かの光を反射して輝いている。
澪が後ろの空を見上げると、中天近くに月が顔を出していた。

仏像は片足をもう片足の上にのせ、右手で印を結んで顎の近くに置き、左手は腿の上。
後頭部には頭光(ずこう)。


澪は、どこかで見たことがあると思った。


澪は扉に手をかける。すっと、扉は開く。鍵はかけられていなかった。

澪はお堂の中に入る。
きちっ、きちっ、と床板が軋む。

仏像は観音開きの、仏壇のような台座のようなものに安置されていた。
大きさは80cmぐらいだろうか。

仏像は、口と目を閉じて思索しているようにも、
視線―頭はほんの少し斜めに傾斜している―の先を、
穏やかに見つめているようにも見える。


澪「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)…弥勒菩薩…」


澪はさらに仏像に近付く。
おそらく金銅製だ。所々に錆が浮いている。

作られて数十年経っているのか、数百年経っているのか、澪には判別できない。

澪はこの間インターネットで調べたことを思いだす。


澪「広き牧野の主(しゅ)…」


ミスラに捧げられた御名を思いだす。


澪「全地の主…」


それがアヴェスターに記されていたものか、ヴェーダに記されていたものか、
ヒッタイトの碑文由来のものなのか、
ミトラ教のものなのか、
澪には分からなかった。


澪「ミスラ。」


その瞬間、澪は奇妙な感覚に襲われた。


体内の内蔵がひっくり返りでもするような感覚。
低重力と高重力を交互に負荷されるような。

澪の周辺の景色が高速で真下に流れはじめる。
さらには流れは速くなり、周囲の景色を視認することは全くできない。

そして周囲がいきなり開ける。闇深い青だ。
そして、その中に広がるようにして、きらめく輝き。

頭上から、さらに柔らかく照り付けるものがある。月が輝いていた。

そのとき声が響き渡った。



『私は双子のためにある者。』

『ミオよ。』

『かつてお前とわたしは、この場所で同じように…』

『このような形で語りあったのだ。』

『幾度も幾度も。』

『もう何度目かは覚えていない。』

『何度双子が生まれたことだろう。何度わたしが…』


声がする方に身体を向ける澪。

そこには、鎧と兜を身にまとい、棒のようなものを手に持つ、
金色に輝く存在があった。


澪『ミスラ…さま…』

『敬称はいらぬ。』


ミスラの顔は若い青年のようにも見える。
黄金色の輝きが強く、表情をうかがうことはできない。
しかし、深い灰青の色をした瞳を持つ、
二つの目が澪を見つめている。


『再びお前に聞こう。ミオよ、なぜ涙を流しているのだ?』


ミスラの瞳には、湖面に風が立てる、波紋のような輝きがある。


『…』


澪は下を向き、答えなかった。


『マルトー(若者)は若き雄牛に似る。』

『深慮を働かさず、情動に流され、己の思いのみを走らせるのだ。』


そういうと、ミスラは自分のまわりを見回す。
周辺の星々のきらめきがミスラのそばに集まり、
様々な色に輝く戦士たちの姿をとる。
鎧も兜も武器も種族さえも違う、多くの戦士たち。


『この方たちは…?』

『ウルスラグナ。わたしの眷属たちだ。』

『すべてお前が決すればいい。他の者を尊ぶも自身も尊ぶも。
 そうやって幾無限回、お前は自身で決めて来たではないか。』

澪『どういうことなんですか…?』


澪はミスラの言っていることが、よく理解できなかった。


澪『前世の話ですか?』

『人には前世などない。魂のみでは在りえない。身体のみでも。
 魂と身体はわかれることはできぬのだ。』

『双子の争いと同じだ。アフラマズダーは己のフラショ・クルティを確信し、
 アーリマンもまた己のフラショ・クルティに執着する。』

澪『フラショ・クルティ?たしか…』

『移り行くことだ。』

『アーリマンは消滅へ、アフラマズダーは完成へ。』

『しかし、在るものは消滅することもなく、完成することもない。』

『双子はそれを理解しない。』

『足下を見てみよ。』


澪は視線を下げた。山々と所々の明かり。
澪は空中に浮いていることに気づく。
空気は清涼であるが薄くなく、ほぼ無風である。

周辺に視界をのばすと、明かりが集まって、
やや大きな群れを作っているところがある。
天理市や桜井市だろうか。


『上昇するぞ。』


ミスラはそう言った。すると、
足元の山々や明かりが、どんどん小さくなっていく。


『日本が小さく…』


世界中とまではいかないが、東アジアの明かりが目視できる高さまで上昇する。
日本列島は、特にまばゆい。


『あの明かりは人が作り出したもの。』


ミスラは棒状の武器を左手にも持ち替え、
胸元の前で、右手を使い印を結びながら、なにやら呟く。
すると一瞬にして、地上の明かりが消え去る。


澪『暗い…』


やみ色の大陸と、北極周辺のうっすらとした輝き、
海が鈍く青暗い光沢を放っている。
そして、かすかに見える黒灰色の、
所々ゆっくりと動くもの、おそらく雲だ。

そしてまたミスラは、なにやら呟きながら、胸元で印を結ぶ。
すると再び明かりは、地上に溢れる。


『お前の百代前の祖先が、地上を歩いていたころには、
 さきほどのごとく夜は闇のみが支配し、
 人は小さなかがり火のみしか持たなかった。』

『百代後の末であるお前は今、あの明かりの恩恵を受けている。
 だが、先ほどのように、あの輝きが、
 二度と地上に灯らないとしたら、どうだろうか?』

澪『…』


私たちは恵まれているのかも、と澪は思った。


『下降しよう。』


再び、めまぐるしく景色が変わる。


再び、山々と明かりが眼下に望める位置にまで下降する。


『次のものを見せよう。
 今日、お前がヤマトにいるゆえに、ヤマトでのそれを…』


澪たちの眼下の景色が水平に動いていく。
空中を移動しているのだ。しかし、風の流れはまったく感じない。
方向を、明日香村から北北西に進路をとる。
澪は、どのくらいの距離を進んだのかわからなかった。
そして静止する。


『足下の土地はイカルガという。』

澪『イカルガ…法隆寺のある斑鳩…』

『あれなるが法隆寺だ。』


ミスラたちは法隆寺の近空まで下降する。


『あれを見よ。』


ミスラが指す寺院の一角の建物を見る澪。
突然、澪の視界の前面に、その建物の中の映像がとびこんでくる。
身体は法隆寺の上空数十メートルのはずなのに。

澪は大きく開いた口を、両手で隠すように覆い、目を見開く。
声が出せない。涙が目じりにたまり始める。

法隆寺の一角の建物の中には、20人から30人くらいの人がいた。
天井の木組みや梁から吊るされた紐のようなもので、全員が首を吊っている。
格好から飛鳥時代の貴人とその家族のように思われる。
幼い子供も何人かいる。全員目を見開き白目に近く、舌を力なく垂らしている。

ミスラは年かさの中年男性の死体を指差してこう言った。


『あれなるは、ウマヤドという名を持つ皇子の息子だ。』

『ヤマシロノオオエという。』

『大王の地位を望んだが、結局は争いにやぶれ、一族で命を絶った。』

『はるか昔の話だ。』

『そして、ヤマシロノオオエを自死にやったものは…』


再び眼下の景色が水平に動く。

石床と芝で覆われた何らかの遺構の上空で静止する。
そこには、古代の衣装をまとった人々が多く集まっていた。


澪『ま…ぼろし…』

『そのとおり。お前のために見せているものだ。』


眼下では、金属製の冠をかぶった女性、おそらく古代の王であろう、
の目前で、槍を持った貴人が立ち、
そばには抜き身の刀剣を持った二人の男と、
そのすぐ横で王に向かって這い蹲(つくば)っている男の姿が見える。

王の姿が消えると、刀剣を持った二人の男は、這ったままの男に数度切りつける。


澪『!!!!』


這った男は地面に臥し、石床に血流を流してそのまま動かなくなった。


『あれなるが、そのものの末路。』


死体となった男を指差してミスラが言う。



それからミスラは、現代に至るまで大和地方で延々と繰り返された
人々の争いとその結末を、澪に対して見せたのだった。


澪『…』


澪は、無表情のまま一言も発しなくなった。


『お前は、斯様なものを芝居か絵、文でしか知らぬだろう?』

『それは、これからもずっとそうなのであろうか?』

澪『…』


澪は答えない。


『私が統べるのは、調和だ。つまり、緊張と弛緩の連続。』

『モノは形を永続させ、またすぐに崩れ去る。』

『斯様なものを見せたのは、お前が斯様なものを知らぬからこそ。』

『しかし、お前もまた違った形で違った様相の、
 緊張と弛緩の波へ参与しているのだ。』


澪は、サタンがキリストをあちこちに連れまわして誘惑し、
彼を試した、という新約聖書の逸話を思い出す


『澪よ、お前の同輩を愛せよ。』

『ダエーワの頭、アーリマンを魅了した娘がある。
 神の種を持ち、その娘はダエーワの頭を哀れむからだ。』

『ヤザダの頭の子、アナーヒターの守護を受ける娘が在る。
 神の種を持ち、大王の祠堂を受け継ぐ者だからだ。』

澪『ダエーワとアナーヒター…いったい…?』

『ダエーワもヤザダも人とともに在るもの。心と精神から生まれ、
 そこに住まうものなのだ。』

『アナーヒターは、アフラマズダーの娘、高位のヤザダ。
 清き水を司る女神である。』

澪『神の種…大王の祠堂…?』

『神の種は、誰にでも蒔かれているものだ。珍しいものではない。』

『大王の祠堂とは、はるか昔の王がアフラマズダーに祈祷した場所。
 その王たちは、アナーヒターの加護を特に篤く受けた。』

澪『なんで、私はあなたに呼ばれたのですか?』


澪は期待していたのかもしれない、自分が特別な存在かもと。


『神との邂逅など、珍しいことではない。
 神との邂逅は、人の心のなかで起こること。
 神との邂逅は、人であれば、多くあるものなのだ。
 神との邂逅を、すぐに忘れ去る者もあり、口外する者もあり、
 ドゥルジに惑わされる者もある。』

澪『ドゥルジってなんです…?』

『人を騙し惑わすダエーワだ。』

『澪よ、おまえは人の心を見ることができるのか?』

澪『…』


澪は答えなかった。


『ならば、他の者の、神との邂逅などを覗くことはできないではないか?
 そして、お前は無限回、私とこうして相対したのだ。
 それは他の皆人にもあてはまること。』

澪『じゃあ私はどうすればいいんです!?どう…』

『ミオよ、決するのはすべてお前なのだ。』

『潜在するものを顕在させるのも、潜在するままにするのも。』

『お前たち人間は一人一人が、すべてのものを望むこともできる。
 何も望まないこともできる。』

『すべては、決するお前と、決する時だ。』

『たとえばだ、あのマルトーとこれから、お前はどう接していくのか?』

『あのマルトーは、ダエーワの助力こそ得ていたが、お前に対する思いは、
 お前に自らの子を生させたいという強い思いだ。』

『あのマルトーを拒絶することも、常のごとく接するのも、
 その子をお前の胎(はら)に孕むのも。』

『すべてお前が決することだ。もちろん、決することから逃げるのも
 また、決することだ。』

澪『…』


澪はそれから、口をつぐんだ。


『まあよい。お前とはこれからも無限回、
 こうして相対することになろうからな。』

『ネルガル、参れ。』


するとウルスラグナたちのうちから、皮鎧を身に着けた神が現れる。
髭面で、頭には皮製のヘルメットのようなものを被り、
ヘルメットの後ろに、帽垂のようなものが棚引いている。
手には、獅子の意匠を施した棍棒を持つ。


『これをともに遣わそう。』


ミスラはネルガルを見ながらそう言った。


『さあ、お前は地上に戻れ。』


そして、また景色が急激に動き、気が付くと
あのお堂のなかの、弥勒菩薩の前に立っていた。


澪は、月光を緩やかに反射する弥勒菩薩の仏像を見やる。

その時、ミスラの声だけが聞こえる。


『ミオ、アーリマンの愛を増大させるな。
 大王の祠堂を開錠させるな。
 さすれば、メーノーグとゲーテーグの境、タマーヴァンド山に至ることになる。
 竜と英雄は再び争うことになるだろう。
 心せよ、決するのはお前なのだ。』


そして、ミスラの声は聞こえ無くなった。




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