平沢家の居間、夕飯時


唯「モグモグ…」ペラ…

憂「…」

唯「モグ…」ペラ…

憂「…」

唯「モグ…モグ…」ペラ…

憂「おねえちゃん!!」

唯「ん~?」ペラ…

憂「お行儀悪いよ!!」

憂「昨日だって一昨日だってその前だって…」

憂「ご飯食べてる時は食べるのに集中してっ!!」

憂(それにさ…最近ずっと…その本に構いっきりじゃない…)


結局、怒りの大もとはシス魂(こん)由来である。


唯「分かったよ~モグモグ…」ペラ…

憂「プルプル…」


憂のボルテージが飛躍的に上昇する。
珍しいことだ。


憂「おねえちゃん!!」


テーブルを思いっきり叩く憂。

その衝撃で、烏賊の塩辛を盛ってある小皿が倒れ、
中身の一部が唯のアヴェスターにかかってしまう。


唯「ああぁぁぁーーー!!?」

憂「!?」

憂「ご…ごめん…!」


開いているアヴェスターの、右側のページに、肌色の液体と烏賊の切り身が点々とつく。


唯「あ…あぅあぅ…」

憂「ご…めん…」


涙目になる憂。
小さい頃の思い出―唯のおもちゃを誤って壊してしまった―が頭をかすめる。


塩辛がかかったページには、文章でなく絵が描かれている。
あご髭を持つ男性が、トカゲのような竜のような、
爬虫類のような何かを踏付けている絵だ。

髭の男性は長いゆったりとしたローブを着込み、背中に光背と羽根(翅?)を有している。

爬虫類のような何かは、苦悶の表情を浮かべながら、
その目に憎悪をたたえて本の外界を睨みつけている。


憂「ごめんなさい…」


一層、シュン、とする憂。


唯「…」

憂「おねえ…ちゃん…」

唯「ま…」

憂「『ま…』?」

唯「…あ、いいや。読めなくなったわけじゃないし~」

憂「えっ…」


大雑把というか、無頓着というか、大度量というか…


唯「ティッシュで軽く吹いて…」

唯「ぽぽいのぽいっ…と。」

憂「…怒ってない?」

唯「ぜーんぜん。『あべすた』に夢中だった私も悪いし。」

憂(よかった…)


ご存じの通り、憂がこの世でもっとも恐れるのは、愛姉に嫌われることである。


唯「一区切りだから、ご飯食べ終わったらおフロ入ろっと。」

唯「久しぶりに憂も一緒に入る?」

憂「!」

憂「うん!」


唯のアヴェスターからは、烏賊の醗酵臭とともに、
微かに、それ以外のにおいが発せられていた。





先ほどの平沢家の一件から二時間後

中野家、居間


梓父「あずさ、お母さんから氷のおかわりもらって来てくれ。」

梓「うん!」


梓の父が同年代の男性と透明な酒を飲んでいる。
この間の古本屋の店主だ。


店主「ごめん、あずさちゃん、水もお願い!」

梓「はいっ♪」

店主「泡盛は薄めて飲みなさいよ!割ってさ!」

梓の父「先輩と違って、生(き)を味わいたいんですよ♪」

店主「肝臓にも胃にも悪いっんだよ!」

梓「はい、氷、とお水です♪」


梓は、部室や学校ではあまり見せない、人懐っこい表情を浮かべている。


店主「ありがとね、あずさちゃん!」

店主「…っと、お前は本屋一つしかないオレと違って、奥さんと梓ちゃんがいるんだから!」

梓の父「本屋一つだけって…」

梓の父「そういえば、この間も、梓の部活の…唯ちゃんだっけか、あの子に…」

梓の父「…高価な本を何冊も、タダ同然で大判振る舞いしたらしいじゃないですか?」

店主「いいんだって、読みたい人間が読みたい本を読めばさ。楽器と同じさね。」

店主「それに、何千冊もあるうちの、ほんの少しだ。」


そういうと古本屋の店主は、傍らに置いてある紙袋から何冊かの古書をとりだす。


店主「あずさちゃん、これもあのお嬢ちゃんにあげてやってくれ!」

梓「!」

梓の父「はぁぁ…先輩…」

梓「小父さん!これ以上はホントに悪いですから!」


唯先輩を甘やかすと…、と続けたくなる梓。


店主「いーからいーから!」


こういうタイプの人間は、自分の気に入った相手へ
モノを贈り与えることに矜持を持っているようだ。

店主が差し出した本は、日焼けが目立つのが二冊、真新しいのが一冊、計三冊。


梓「『ブンダヒシュン』、『ミスラ讃歌』…」


古いほう二冊の背表紙を読み上げる梓。


店主「『ブンダヒシュン』はイスラム教が今のイランを覆った時代のもんで
   ゾロアスター教の創造神話が書かれてる。」

店主「『ミスラ讃歌』はミスラに捧げられた『うた』を集めたもんだよ。」


真新しいほうの名前も読み上げる


梓「『アーリマン讃歌』?」

店主「それは眉唾もんだよ。イラン各地でここ最近発見された碑文や石碑を元にしてるらしいけど…」

店主「悪神アーリマンに捧げられた『うた』らしい。」

店主「『らしい』ってのは、どうも捏造されたモノみたいなんだよな、その内容。」

店主「まあ、珍しいもんだから、一応ね!」

梓は『アーリマン讃歌』を手に取る。


見開き部分には、トカゲのような竜のような、爬虫類のような何かが
涙を流しながら、本の外界を無意思の瞳で見つめている。
次に数ページ捲ってみる。

そこはちょうど、アーリマンと腐敗の神秘について謳われた箇所だ。


梓父「アーリマンですか…昔、大学の講義で聞いたことがありますね。」

店主「キリスト教でいう、サタンみたいなもんだ。
   まあ、堕天使じゃなくて、主神アフラマズダーの兄弟神なんだが…」

店主「学者さんの弁だと、イスラム教以前のイランには
   アーリマンを奉ずる一派もいたらしいんだと。」

梓父「いわゆる悪魔崇拝みたいな?」

店主「今の俺らの感覚からすればな。
   もっともさ、昔のイラン人の宗教感覚なんて全くわからんだろ?」

店主「なんともいえんさ。」

店主「とにかく、その本は、アーリマンを奉ずる一派が残した文書を集積したもの、」

店主「ということなってるわけ。」


梓は読め進める。
次の讃歌は、アーリマンと老いについて謳われた部分だ。

その内容は、自然の移り変わりと老いの意味について書かれている。
率直で醜悪な表現も目立つ。
はたして、これも唯に渡していいものか、と梓は考えてしまう。


店主「おっと、もうすぐ日が替わりそうじゃないか。」

店主「そろそろ、お暇するわ。」

梓父「せっかくだから泊まっていって下さいよ!」

店主「いいっていいって!」

店主「あ、あずさちゃん、その本お願いね。」





そして、また、平沢家。

唯は夢を見ている。
これは唯本人にも分かっている。

まわりは全くの真っ白。
色がない。

そして目の前には、七色に輝く竜のような、大きな生き物が、
長い首をもたげて、大きな、少し細長い目で、唯を見つめている。

唯はパシャマを来たまま、正面の竜と向き合っている。

竜のような生き物は、長い首と、少し寸胴な胴体を持ち、
視界の端にはヒョロッとした、長い尾がある。
瞳の色は、その輝きのため窺い知れない。

竜の胴体はぷっくりと膨れて、まるで臨月間近の妊婦のよう。


そして竜の傍らには、光りを放つ人型があった。
背中に羽根(翅?)のようなものを生やして、
ローブのような物を羽織っている、ように見える。
あまりにも発する輝きが強く眩しく、それ以上は判別できない。


『わたしは…』


竜が突然、声をあげる。


『ズルワン。』

『供物、いたみいる。』


竜は長い首を、一層、唯に近付ける。

輝く人型のほうは黙ったまま。しかし、視線は感じる。


『これは、我が子。』


竜は、輝く人型を、我が子、といった。



『さて、ユイ。』


『お前は何を望む?』


『なんなりと言え。』



竜は唯に問う。

唯は答えない。

かわりに、輝く人型へ顔を向ける。


唯は、人型を指さす。

そして呟いた。


唯『ドゥルジ。』


ドゥルジ(虚偽)と。


その瞬間、まわりの白が解け始める。

白はどんどん溶けて黒が現れる。



全くの暗闇になる。


『戯れだ。』


竜はそう発した。
大変低く、不快なほど湿って響き渡るようは声。

その瞬間に竜の体が腐り始める。

膨れていた胎(はら)も無くなっている。

高速度写真の映像を見ているようだ。

骨と腐肉にまみれると、竜は朽ちるのを止めた。いや、今でもゆっくりと朽ちているのだ。
時折どす黒い血だまりを作って、腐肉が崩れ落ちる。

暗闇でよく見えないはずなのに?


唯『デーウァの君。』

『いかにも。ダエーワを統べている。…いや、デーウァを統べている。』

『お前の言葉に則ろう。』


竜は瞳の無くなった、ぽっかりと穴の空いた目で、唯に頭を近付け、唯を見つめる。

竜が近付くほど、その腐臭は強くなる。

唯は少し顔をしかめる。

そのとき、耳に酷く障る哄笑が響き渡った。

ドゥルジと呼ばれた人型が笑い声をあげているのだ。

すでに光りを失っており、のっぺりとした白色をしている。

本当に大きな紙で作った人型のようだ。

唯が人型のほうに視線を向けると、哄笑は一層大きくなり。人型の形が歪む。
そしてその刹那、見るもおぞましい人型の生き物に姿を変えた。


大きさは小学校低学年の児童ぐらい。
そのかたちは、一言でいえば、単眼症の赤ん坊が成長したような、
そんなかたちをしている。


ゆえに、顔の真ん中には大きな一つ目と、その下にほんのわずかの鼻、裂けた口。
その口内から笑い声が聞こえてくる。
腕は二本だが足は一本。
体色は気持ちの悪いほど血の気の全くない白。死人のそれだ。

メソポタミア神話のフンババにも似ている。


『我が子だ。』


朽ちつつある竜、アーリマンはかしらを人型に向けて、そう言う。


唯『あむしゃすぷんたと争う六柱の君の一柱、ドゥルジ。嘘を統べる君。』

ドゥルジ『フフ…ハハ…いかーにもっフフフ…フハッ…フッハハハハハハハ!!』


一つ目の人型が声を発する。
男子児童の声とも、女子児童の声とも、甲高い老人の声ともとれる、不快な音だ。

ドゥルジが声を発し終えたあと、
アーリマンのまわりの暗闇から五つの物体があらわれる。
あるものは爬虫類と人が融合したかたちをし、地を這い、
あるものはどす黒い血塗れの肉塊として空中に浮かんでいる。

あるものは…

そのような醜悪なかたちをした物体が五柱、ドゥルジと合わせて六柱。


『我が子たちだ。』


竜はそういう。


『わたしは、ユイ、お前が気に入った。』

ドゥルジ『うそだうそっ!ヒヒッ…ヒーヒッヒハハハハ!!』


おぞましい笑みを浮かべた後、ドゥルジは口を挟む。

アーリマンは続ける。


『お前は麗しい。身も心も。』


アーリマンがそう言った後、突然、先ほどの肉塊のような物体から声が発せられる。


『げに…眩しい…げに…ウォフと争うた…時のよう…』

唯『アカ・マナフ、あむしゃすぷんたが一柱ウォフ・マナフと争う、悪思を統べる君。』


唯は肉塊を指して、そう言う。


アカ・マナフ『いかにも。』


肉塊は答える。


アカ・マナフ『ダエーワの主よ、眩しいからこそ…染め甲斐があるというもの。』

『その通り。』


アーリマンは答える。



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