紬「澪ちゃん」
私はエレベータの中に立っていた。
正面にムギの心配そうな顔があった。
何が起きたのか分からないまま、私はしばらくぼうっとムギの顔を眺めていた。
紬「どうしたの?」
さっきの地獄のような風景は残らず消え去り、痛みの記憶すらどこにも感じられない。
自分がここに居ることさえ不自然なような気がして、私はムギに訊ねた。
澪「……梓は……?」
紬「梓ちゃんがどうかしたの?」
ムギは首をかしげた。
エレベータは滞りなく上昇しつづけていた。
澪「……いや、なんでもない」
私は小さくため息をついた。
なぜ助かったのかは分からない。
もしかしたら全部夢だったのかもしれない。
……それでも私は、梓の存在が突然目の前に現れた事が無意味だとは思えなかった。
私はじっとエレベータの緩慢な動きを感じながら、幻のような梓の後ろ姿と、
ぽつりと呟いたあの言葉を考えていた。
(――行かないで下さい)
それは今となっては現実感すら消えて、本当に夢の中の出来事だったかのように曖昧な記憶だった。
エレベータは自然に止まった。
紬「さて、元々たいした案内もできなかったけど、私の役割はここでおしまい。
りっちゃんはこの階で待ってると思うから、後は澪ちゃんに任せるわ」
澪「……ありがとう、ムギ」
扉が開き、私はムギに礼を言うと、エレベータから降りた。
紬「澪ちゃんこそありがとう……会えて本当にうれしかったわ。
でも、これでもう二度と会えなくなるのね。…………さよなら」
澪「……ああ。さよなら……ムギ」
扉がゆっくりと閉まっていった。
ムギの寂しそうな笑顔が完全に見えなくなったとき、
扉の向こう側で何かがぶつりと切れる音がした。
その直後、地鳴りのような恐ろしい轟音が建物を貫いて、
――――ガシャァァ………ン
地面に叩きつけられて砕けた。
私は深呼吸すると、心の中でもう一度ムギに別れを告げた。
この先に律が待っている。
この階には部屋がひとつしかなかった。
おかげで迷うことなく律に会うことができた。
それはとても見晴らしのいい部屋だった。
律「よう」
律は、私が最後に見た時と同じ格好をしていた。
さっぱりとしたTシャツにジーンズというプライベートのラフな格好だ。
体つきは細く引きしまって若々しいのに顔は妙に老けていて、無理に笑う癖のせいで口元がやや歪んでいる。
澪「律…………」
律「澪もしばらく見ないうちに老けたなぁ~?」
そう言ってにかっと笑った。
私はとても笑う気になんてなれなかった。
澪「こんな所に呼び出して……今まで一体何やってたんだよっ!」
思わず責めるような口調になってしまう。
私はこんなにも心配していたのに、それを笑ってごまかしているのが妙に腹立たしい。
そして同時に懐かしくなって、安心する。
律「私にも色々あってさ。……ごめんな、澪。心配かけさせて」
澪「私と梓を放りだして勝手にどっか行って……消息不明で心配しないわけないだろ……」
5年ぶりに会った親友との再開を喜ぶよりも、溜めていた不満の気持ちが口をついて出た。
私はやっと、私の平和を取り戻したような気がした。
唯とムギが死んでHTTが解散したあと、残された私たちはそれぞれ別々の道を歩んだ。
梓はソロで音楽活動を続け、音楽プロデューサーとしても成功していった。
当時、憔悴しきっていた私は、誰よりも早く立ち直って仕事を再開した梓を薄情だと蔑んだ。
私は世間の目から隠れ他人と接しないようにひっそりと暮らしていたのだけれど、
(お金は沢山あったから働く必要はなかった。つまり引き籠りの生活をしていた)
そんなに早く気持ちを切り替えられる梓を羨ましいとも思った。
無気力で病的な生活を送っていた私の元を訪ねるのは律だけだった。
その時から律は実際的に私の心の支えになっていた。梓とは会いたいとも思わなかった。
それからしばらく経ったある日、突然梓が家を訪ねてきた。
律がいなくなったという知らせを告げると、彼女は泣きながら私に謝ったのだった。
――律先輩が消えたのは、私の責任なんです
そう言って梓は真実を語り、私は梓を誤解していたことを悟った。
律は梓の元にも頻繁に訪ねていたのだった。彼女の心の支えになるために。
梓はまるで懺悔でもするように粛々と語った。
律が自分に音楽を続けるよう勧めてくれたこと。
一人では立ち行かなくなってしまった時、いつも助け船を出してくれたこと。
どんなに些細な悩みや不安も相談にのってくれたこと。
そして梓は、何度も私の元を訪ねようと考えた、と話した。
――律先輩に止められていたんです。澪先輩と会うにはまだ時間が必要だって……。
――それに私のためにも良くないって……そう言って……。
律は私と梓を置いてどこかへ行ってしまったのだった。
私のせいだ、と私は思った。
私が律に依存しすぎて、何もかも頼りにしすぎて、全部を律にまかせっきりにして……。
律が何を背負っているかも知ろうとしなかった。
私と梓は長く話し合った。
律はいつか必ず戻ってくると信じていたけれど、自分たちがこれからどうすればいいかは分からなかった。
最初は取り乱していた梓も次第に落ち着いて、とりあえず仕事はこのまま続けると決めた。
その時私は、今度は自分が梓を支える番なのだと思った。
律の代わりになれるかどうか自信がなかったけれど、私に出来ることはそれくらいしかなかった。
梓はもう、HTTの夢から覚めかけていたのだ。
律が望んでいたのはまさにそれだったのだと気付いた。そして私に対しても。
それから1年も経つと、梓はもう私を必要としないくらい一人でやっていけるようになった。
普通よりもだいぶ遅いけれど、梓は結婚して家庭も持った。
そして自然と会う機会も減っていった。
梓の幸福を考えると、きっとHTTの事は綺麗さっぱり忘れるのが私たちにとっての幸せなのだろうと
思わずにはいられなかった。
梓は救われたのだ。
でも私は納得できなかった。
そして私は自分の役割を終えてやることがなくなり、律を探す旅に出た――。
最終更新:2012年09月16日 23:41