無言で歩くムギの後ろをついていく。

廊下の突き当たりでムギは立ち止った。

その薄明かりの中に古風めいた扉と点滅する数字が見える。


澪「エレベータ……そういえばこのホテルは何階建てなんだ?

  外から見たら結構高かったけど」

紬「実は私もよく分からないの」


ムギは素っ気なく答えた。

どうやら本当に知らないようだった。


紬「知らない方が楽しめることもあるのよ。

  案内役としては失格かもしれないけどね」


大げさなくらい音を立ててエレベータの扉が開いた。

橙色の光りが少し眩しい。


紬「さ、乗って」


私が足をかけるとエレベータは不安定に揺れた。


澪「大丈夫なのか、このエレベータ……」


ムギは揺れる箱など気にも留めず、エレベータの扉を閉めてしまった。


紬「では22階にまいります」

澪「22階……ずいぶん高いところまで行くんだな」


私とムギを乗せた箱は重たそうに動き始めた。

階層を示す錆びだらけの針が2階、3階、4階と徐々に速度を上げていく。




止まった……22階だ。

扉が開くと、そこは相変わらず薄暗い、埃っぽい廊下が続いていた。


紬「さあ、ここから先は澪ちゃん一人よ」

澪「え!? ムギは一緒に行かないのか?」


私は急に不安になった。


紬「私はずっとこのエレベータで待ってるから心配しないで。

  澪ちゃんを待っている人がこの先にいるから、済んだら戻ってきてね」




私は締め出されるようにして廊下へ出た。

廊下はエレベータのぼんやりとした灯かりで照らされているだけで、足元もよく見えない。

私は恐る恐る歩き出した。

時々後ろを振り返ってムギの姿を確認するも、次第にそれも遠退いて

とうとう辺りは真っ暗になってしまった。


私はどうすればいいか分からず、その場に立ちつくした。

ムギは私を待っている人がいると言っていた。

それは多分律のことだろう。

けれど律の姿なんてどこにも見当たらない。


澪(どうしよう……引き返そうかな……)


そう思って振り向くと、自分が今まで歩いてきた道すら暗闇に閉ざされていた。

身動きひとつ取れない、完璧な暗闇。

空気はカビ臭く、じめじめしていた。

不気味な静寂が私の周りを漂っている。



困ったな、と私は考えた。

このままじゃムギのいるエレベータにも戻れそうにない。

それに、怖い。

自分の心臓の音すらも暗闇に溶けて消えてしまいそうだ。



澪(……怯えていてもしかたない。とりあえず歩いてみよう)


私はそろそろと壁に手をついて廊下を進んだ。

ひんやりとした感覚が手のひらに伝わる。

濃密な闇の中で私の足音だけが巨大に響いている。



……どれくらい歩いただろうか、壁を撫でる私の手が曲がり角に触れた。

身を乗り出すと、その先に小さな豆粒ほどの光りが見えた。

ずるずると体を引きずるようにして光りの方へ行ってみる。

それはドアの隙間から洩れている光りだった。



ドアを開けて中に入る。


澪「…………律?」


揺らめく蝋燭の明かりに人影が映った。

律……じゃない。



唯「久しぶり、澪ちゃん」



そこに居たのは唯だった。

気だるそうにベッドに腰掛けて、私の方をじっと見つめている。

蝋燭に照らされたその顔には掘り込まれたような濃い陰影が浮かんでいた。


澪「唯……? どうして唯がここに?」

唯「居ちゃ駄目なの?」


唯の言い方は刺々しかった。


澪「そんなことはないよ。会えて嬉しい」


私は扉を閉めて部屋に入った。


唯「座って」


私は言われるまま正面のベッドに腰掛け、唯と向かい合った。

唯は無表情で、私の足元に視線を落としている。

あのはつらつとしていた生前の唯とはまるで別人のように暗欝として、

言葉はなく、沈むようにそこに座っていた。


唯「私が」


そう言って唯は顔を上げて、生気の無い目で私を睨んだ。


唯「私が殺された時、澪ちゃんだけが、私の死体を見るのを嫌がった。

  どうしようもないほどぐちゃぐちゃにされて、人間らしささえ奪われて、

  見せしめのように殺された事実を認めようとしなかったのはなんで?」


澪「……恐ろしかったんだ」


唯の問いかけに、私は上手く返事ができなかった。


澪「それに、信じたくなかった」





当時、私たち宛てに届いた唯の死体の写真は想像を絶するほど凄惨そのものだった。

一緒に送られてきた犯人の脅迫文章がなければ、その物体が唯の死体だとは気付かないくらいに。

ただでさえ唯の死に耐えられなかったムギは、それを見て心が壊れてしまった。

そして数日後に唯のあとを追って自殺した。


私はその写真が送られてきたとき、ちょうどその場にはいなかった。

だから実際に写真を見たわけじゃない。

律からその話を聞いただけで吐き気がしたし、しばらく立ち上がれないほどショックを受けた。


唯「でもムギちゃんは受け入れてくれたよ。私の死を受け入れて、自殺の道を選んだんだよ。

  それなのに澪ちゃんは中途半端なまま私の死に責任を感じて、決心も何もなく

  人生をやり過ごそうとしている」


唯の言っていることは半分当たっているし、半分当たっていなかった。

私は今でも唯が死んだことを信じられない。信じたくないという気持がある。

けど、唯が殺された責任は私にだってちゃんとある。

その責任はHTT全員に均等に与えられていたし、私はそれを自覚している。

そして私の人生にも決心と覚悟を持たなくちゃいけない。


澪「大事な人を失ったことが認められないなら、受け入れなくてもいいんじゃないかと私は思ったんだ。

  唯は私の中にこうして生きているし、私が悲しいのはもう二度と唯と一緒に演奏できないことなんだ。

  私にとってはそれで十分なんだよ。上手く説明できないけど、これは逃げとか諦めとかじゃないんだ」


唯は呆れたようにため息をつくと、私を見て笑った。

その白い肌と灰色に濡れた瞳がとても美しかった。

見ている者の魂ごと引き剥がしてしまうような、強烈な、魔力的な美しさだった。

思わず彼女の肌に触れたい衝動に駆られた。

私は唯の陶器のように硬く冷たい皮膚を撫でる想像をした。すると私の指の這った跡に

ひびが入り、粉々に砕けてしまうような気がして思いとどまった。


唯「……そっか。澪ちゃんは澪ちゃんなりに、私の死を乗り越えようとしてるんだね」

澪「正確には、唯が死んだ意味を理解しようとしてる。心を整理したくてここに来たんだ」

唯「少しは役に立てたかな?」

澪「たぶん……」


私は少し考えてから言った。

唯はまたも呆れたようにため息をついた。


唯「大丈夫かなぁ……。あんまりのんびりしてたら澪ちゃん自身が救われないんだよ」

澪「ごめん。今は謝ることしかできない。

  でもきっといつか、お互い笑顔で会える日がくると思う」

唯「うん」


唯は静かにうなずいた。



死んでしまったはずの彼女がこうして目の前に現れても、私はちっとも恐怖を感じたりしなかった。

唯は死んでもなお、完全な存在として私の記憶の中に生きていた。

私にはいつも悩みがあり、ためらいがあり、迷いがあり、不完全な人間だった。

私は唯に憧れていたのだった。


澪「私は唯に憧れていたんだ。誰よりも純粋な唯に」


唯はその純粋さゆえに私たちの歪み、間違いをすべて背負って、そのために殺された。

私たちがデビューしてから15年ものあいだ活動を続けられたのは、全て唯のおかげだった。

世間にもてはやされ、手に負えないような莫大なお金を得たときでも、

唯は放課後ティータイムと私たちの他には何も見えていなかった。

私たちがやりたいようにやってこれたのは、全部唯がいたおかげだったのに、

私たちは唯を守ってやることさえできなかった。


唯「誰も悪くないんだよ」と唯は言った。


唯「もちろん私を殺したファンの人は悪いことをしたけどね。

  ただ自業自得とまではいかないけど、そうなった原因は私たちにもあるわけだし」


やがて世間から飽きられ、人気のピークを過ぎてしまっても、私たちの活動は何も変わらなかった。

確かに私たちを支えてくれたファンの人たちはたくさんいたけど、私たちは彼らの期待に応えたり

彼らのために演奏することはなかった。


澪「そのことで私たちも散々悩んだよな。どうすればみんなに満足してもらえるのか、

  どうすれば私たちは怒られないで済むのか……」

唯「私たちはただ好きなことをやっているだけだったのに、ね」

澪「……そもそも、私たちは自分たちのやり方を変える術を知らなかったんだ。

  あまりに純粋すぎて、あまりに無垢すぎて、何をするべきかなんて答えは1つしかなかった」


唯が殺されて、ムギが死んで、初めて私たちは放課後ティータイムの夢から覚めた。

その時にはもう遅かったんだと気付いた。

お金も名誉もいらなかったのに。


唯「澪ちゃんは後悔してるの?」

澪「……後悔なんて、ない。私たちは何も間違っていなかったんだから。

  他人から見れば間違っていたかもしれないけど、私たちがそれを認めたら

  何もかも終わってしまう気がするんだ。でも……」

唯「分からないんだね。それが本当に正しいのかどうか」


私は急に泣きたくなった。

そう思うと涙が次々にあふれて、自分がすごく惨めで哀れな人間に感じられた。


澪「どうしてもっと素直になれないんだろう?

  殺されるのが唯でなく、私だったら良かったのに」

今まで何度もそう考えて、その度に死ぬことを想像して怖くてたまらなり、


心の中で唯とムギに謝り続けてきた。

それすら私にとっては表面的な部分でしかないことに果てしない絶望を感じるのだった。



次第に涙はぽろぽろと流れだして、私は懸命に手で覆うけれど、

涙は私の顔の色々なところを伝って床に落ちていった。

喉の奥があつくなって、なぜ自分がこんなにも泣いてるのか分からないまま、私はしばらく声が出なかった。




唯「泣かないで、澪ちゃん」


とても優しい声が聞こえた。

混乱する私の頭のなかに、"あの頃"の唯の、陽だまりのような笑顔が浮かんだ。


唯「誰も澪ちゃんを恨んだりなんかしないよ。

  私、澪ちゃんが好きだもん。だから誰も嫌いになったりなんかしないよ」

澪「……うん。…………」


それでも私は泣き続けた――



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