紬「いらっしゃいませ。当ホテルの案内役は私、琴吹紬が務めさせていただきます。

  澪ちゃん……ご用件はすでにりっちゃんから承っております。こちらへどうぞ」


礼服を着たムギは、このホテルの内装に似つかわしくないほど輝いている。

その光りの後を追うように、私は黙って彼女の後をついていく。

私たちの他には誰もいない。


澪「……久しぶりだな、ムギ。いったいあれからどれくらいの時間が過ぎたんだろう……。

  もう私には遠い過去の、自分とは無関係な出来事のようにしか思い出せない。

  私を為す全てのものはあのまばゆい時代の中にあったはずなのに、私は薄情なことに、今の私が大切なんだ。

  ……今の私はこんなにも汚れているのに」

紬「…………」


ホテルの吹き抜けの天井はおそろしく高かった。

壁はのっぺりとした薄い灰色をしている。

埃の積もった大理石の床はひんやりと冷気を湛えて、辺りは青白い光りに満ちている。


紬「……私たちは今が大事だもの。いつだってそうだったじゃない」

澪「それを望んでいるのは……私たちだけじゃないのか」

紬「…………」

澪「なあムギ。ちょっと寄り道していかないか? このホテルの1階を案内してくれよ」

紬「それなら、あちらのレストランなどはいかがでしょう」

澪「……うん、そうだな。ちょうど喉も乾いてきたし、あそこで休もうか」


私たちはカビ臭いひび割れた扉を開けて、レストランに入った。

とても狭いレストランだったけど、あの薄暗いホテルとは違う世界のように中はきらきらと明るかった。

その小さな部屋の真ん中に、ちょうどいい大きさの丸いテーブルが一つだけある。

テーブルの上には子供が好きそうな丸いモンブランのケーキと、

上品な香りの紅茶がおしゃれなティーカップに注がれて置かれている。

私とムギは向かいあって座った。


紬「澪ちゃんはとっても綺麗だったわ。長くて艶やかな、滑らかな黒髪は私でさえ憧れたもの」

澪「今は綺麗じゃない?」

紬「……澪ちゃんの綺麗だった部分は、もう私の目には見えないほど擦り減ってしまったわ。

  澪ちゃんの美しさは、もはや澪ちゃんの内的な部分にしか発見できないし、それは澪ちゃん自身によってしか

  分かり得ないことなの。…………年を取るということはそういうことなの」

澪「でもムギは今も綺麗だよ」

紬「ありがとう」


ムギは照れたように笑って、いつもどおりの優雅な仕草で紅茶をすすった。


澪「ムギは変わらないな……私はいつも周りに振り回されてばかりで、そのくせ自尊心だけは一人前なんだ。

  笑っちゃうよな。あの時のいかにもな少女らしさは、ある意味では私の誇りの一部でもあったのに、

  私には自覚が足りなかったんだ。結局、何かが歪んでいることに気付かないまま、私は大人になってしまった」

紬「そうね……確かに澪ちゃんは、ちょっと卑屈になりすぎてるかも」

澪「卑屈なのは数少ない私の本性な気もするけど」

紬「そんなことないわ。澪ちゃんは自信がないだけなのよ。

  何もかも自分のせいだと思いつめることが、澪ちゃん自身を変えてしまうんだわ。

  でも変わるのは悪いことじゃないの。駄目なのは、自分の意志で変わろうとしないで周りに流されること」

澪「変わるのは悪い事じゃない?」

紬「むしろ、変わらなければいけないのよ。私は変わることを拒んで、苦しんで、こんな姿になってしまった。

  言っちゃうけど、私の苦悩に比べれば澪ちゃんの悩みなんて大したことないと思う。

  澪ちゃんは自分からも周りからも逃げているもの」

澪「……決めなくちゃいけないんだ。もう時間がないのは分かってる」

紬「そう。だから澪ちゃんはここに来た」


ムギの優しい瞳が、私の小さく落ち窪んだ目を覗きこんだ。

私はかすかに笑って見せた。

ムギは私のために、ここに居てくれている。


澪「そういえば、私が振り返るときはいつもムギがこうやって見守ってくれていたんだな。

  引っ張るのが律で、支えてくれるのがムギだった……。

  私が原点を振り返る時、律と重なって見えた影は、ムギだったんだ。

  今なら言えるよ。……ありがとう」

紬「ふふっ。案内役が私で、よかったでしょ?」


私は食べかけのケーキをそのままにして、小さなレストランを後にした。




薄暗い廊下を私たちは静かに歩いていった。

いくつもの扉が固く閉ざされて壁に並んでいる。

ろうそくほどの灯かりがぼんやりと私の影を形作っている。


澪「静かだな。このホテルには私たち以外、誰もいないのか?」

紬「うーん……いるような、いないような……もしかしたら、いるかも」

澪「あ、あんまり怖いこと言うなよ……」

紬「怖がりなのは相変わらずなのね。……さ、着いたわ」


ムギはある扉の前で立ち止まった。

番号もふっていない、他のどの扉とも区別がつかない、普通の扉だ。


澪「ここに律がいるのか?」

紬「さあ、それはどうかしら……」


ムギはいたずらっぽく笑った。

そういえば気付かなかったけど、この扉、どこかで見たことがあるような……。

カチャ という音を立てて扉が開いた。


澪「ここは……桜ケ丘高校の音楽室……?」

紬「懐かしいでしょう?」


懐かしい……懐かしい。

もう何十年も前にここを去ったはずなのに、私の記憶の中の景色と全く変わっていない。

窓から明るい光りが漂っている。

今とは違う輝きに満ちている。



………

………………


律『ムギ、紅茶おかわり~』

唯『わたしも~』

澪『お、おい。なんでもかんでもムギにやらせちゃ悪いだろ……』

紬『いいのよ澪ちゃん。澪ちゃんはおかわり、いる?』

澪『私は大丈夫だけど……』

紬『梓ちゃんは?』

梓『わ、私も結構です。それよりも練習……』



………………

………



思い出の風景に5人の影が重なって見える。

あの3年間が、淡い水彩画のように蘇る。


澪「……あの頃は無垢だったな。みんなと居られることが何よりも幸せだったんだ。

  悩みも不安もなかった。あったとしても取るに足らないちっぽけな不安だった……」

紬「私たち、あんまり真面目に練習しなかったものね」

澪「まあ、それもあるけど……私が抱えてた不安はもっと漠然としていた。

  でもみんなと同じ大学に進むと決めたときに、それはいつの間にか消えていたんだ」

紬「みんなと離ればなれになるのが怖かった?」

澪「私たちの関係が壊れてしまうことが怖かったんだと思う。

  私は気付かないうちに他の居場所を失ってたんだ。軽音部以外の秋山澪を私自身信じられなかった」

紬「それはきっと私も一緒ね。私たちはお互い依存しすぎたのかもしれない」

澪「5人揃って同じ大学に進学するなんて異常だよ。普通じゃない。

  だけど私たちはそれで間違ってなかったんだ。高校を卒業しても放課後ティータイムを続けることができたのは

  結果として良かったし、幸せだった。誰からも批難されなかったし、私たちもこれで良いと思っていた」


私たちは最後まで選択を間違えなかった。

でも歪んでいたことは事実なんだ。


澪「もしも私たちの選択に間違いがあったとすれば――」

紬「…………」

澪「私たちが出会ったことが、全ての間違いの始まりだったのかもしれない」


気付くと私とムギはホテルの廊下に立っていた。

扉も消えている。


紬「本当にそう思う? 澪ちゃん」

澪「思わない……というより、思いたくない。でも、間違いを認めたくないという気持ちが

  こんな結果を生み出したんじゃないか……そう感じるときもある」

紬「う~ん……それを考えはじめたらキリがないわね。

  それに今懐疑的になってもしょうがないわ。 とりあえず先に進みましょう」


私が口にした言葉はムギを傷つけたかもしれない。

私自身も少し傷ついた。

放課後ティータイムなんて無い方が良かった……そんな考えは認めたくない。

だけど今の私の心には、認めなくちゃいけないという思いもある。

揺らいでいるんだ。




2