*

 医師の話によると、中絶の手術は成功したらしい。
術後の経過も良好で、今は学校側が処置を決めるまで自宅待機という状態だった。
ただ、良好というのは肉体的な観点でしかないと、そう紬は思わざるを得ない。

 退院後、紬達が見舞いに訪れた時、律は明らかに意気消沈していた。
消え入りそうな儚さが、細い体躯の全面から醸されている。
小さい体ながらも元気を讃えていたあの頃とは、まるで別人のようにさえ思えた。

 唯が声を掛けても、梓が声を掛けても、また紬が声を掛けても。
律の返事からは、力が抜けていた。
それどころか学校側が紛糾している処分にさえ、律は関心を示さなかった。
ただ署名活動をしている事に、礼を述べるだけだった。

 それだけならまだしも、澪の前でさえ律は塞ぎ込んでいるらしい。
澪も律の慰撫にならないのなら、自分など何の役も為さないのかもしれない。
そう思いながらも、紬は足繁く律の見舞いを続けた。
その間にも日に日に、律の精神は衰弱していっているように見えた。

 ただ、今日の律は珍しく多弁だった。

「ねぇ、ムギ。
日が迫るにつれて、澪の嫉妬心が大きくなるって言ってたけど。
それ、多分本当だね。あのままだったら、大変だったかも。
私も中絶の手術の日が迫るにつれて、罪悪感が大きくなっていったから」

 律が一息にここまで長い発言をした事など、見舞いに訪れてからは初めてだった。
律が元気を取り戻す兆候になれば良いが、発言の内容を聞く限りそうは見えない。

「りっちゃんが罪悪感を抱く事じゃないわ」

 紬が慰めるように言っても、律は首を振って返す。

「いや、私が殺したんだよ」

「そんな事、思っちゃ駄目。私が、悪いのよ」

「ムギは悪くないって。
そうだ、一応確認だけど、ムギだけが来る時間だよね?」

 最初のうちは部員全員で見舞っていたが、
律の方から個別のスケジューリングを希望されていた。
全員と話す事は体力的に辛いという理由だった。

「ええ、私の時間ね」

「うん、後二時間は親も聡も居ないから、その辺の事、話せるね。
ムギには話したい事が、あるんだ。迷惑じゃなければ、聞いて欲しいな」

 その為に個別の見舞いを要望したのではないか、紬はそう思って頷く。
もしかしたら親や聡の不在も偶然ではなく、律が人払いした結果かもしれない。

「ええ、迷惑なんかじゃないわ」

「ありがと。それで、さっきの話の続きだけどね。
日が迫るにつれて罪悪感は大きくなったけど、
本当に大きくなったのは、寧ろ手術の後だったよ。
取り返しが付かない事をしたんだなーって、改めて分かって。
その事が、実感を伴って襲ってきて。
そしてそれは、日が経つごとに、大きくなっていくんだ……」

 律がシーツの袖を掴んだ。
何か言葉を掛けるべきだろうか、それとも今はまだ黙って聞くべきだろうか。
紬が判じかねているうちに、律が続けていた。

「そんな経験の最中に居るから、分かる。
きっと澪は……仮に私が出産をするまで耐える事ができたとしても、
その後は耐えられなかったんだろうなーって。
産まれた赤ちゃんを見れば、取り返しが付かないって思うだろうって。
日が経つにつれて、その実感がどんどん澪の暗い感情を助長していって……。
そして結局、どっちにしろ赤ちゃんの命は短い事になってたと思うんだ。
本当は、澪の子でもあるのにね。
だから、私」

 突然、律が紬に抱き付いてきた。

「私、こんな自分嫌なんだよっ。澪の事、嫌いになりそうな自分がっ。
澪のせいで赤ちゃんの死が不可避だったって、そんな思考したくないんだよっ。
澪の為に下した決断なのに、澪の事を嫌いになったりしたら、赤ちゃんも可哀想だよっ。
ママどうして殺したのって、そう言われてるような気がするんだ……。
私、澪の事を嫌いになりたくないよっ。
澪を憎みたくないよ……ずっとずっと、好きなままでいたいよ……。
そうじゃなきゃ、私の行為、意味ないじゃん……」

「嫌いになんて、ならなくていいの。
澪ちゃんもりっちゃんも、悪くないんだから」

 紬は律の身体を抱きとめて、慰めるように言った。
そして以前律がそうしてくれたように、柔らかい髪を優しく撫でた。
あの時の律が見せた母のような抱擁を、自分は実践できているだろうか。
自問してみても、自信のない答えしか返ってこない。

「ねぇっ?ねぇ、ムギは……。
ムギは、澪の味方で居てくれるよね?ムギだけは、澪の味方だよね?
ムギは澪の事、嫌ってないよね?好きだよね?
私が澪をどう思っても、ムギは澪の味方してくれるよねっ?」

 律は顔を上げると、慌ただしく言葉を並べて懇願してきた。
自身よりも澪を案じている、その姿勢が切ない程に伝わってくる。

「ええ、澪ちゃんの味方よ。澪ちゃんを嫌いになったりしないわ。
だから、安心して?」

「うん……ありがとう……。その事、お願いしたくて。
それで……」

 それで個別のスケジューリングを頼んだ、という事なのだろう。

「うん、分かってる。任せて。
勿論、りっちゃんの味方でもあるけどね。
りっちゃんも澪ちゃんの味方なんだから、丁度いいわね。
二人の味方が同時にできて」

「うん、私も澪の事、好きであり続けるよ。ずっとずっと、好きだよ……」

 律は儚げに笑った。
透き通るような美しさで──


 翌日、紬は律が自殺した事を聞かされた。
澪を頼んだ事が遺言だったのだと、その時になって漸く悟った。

 律は自分の言葉通り、最期まで澪を愛し続けた。
それでも紬は、律を祝福する気には勿論なれなかった。
ただただ、悔しさと悲しみ、そして自責に心を嬲られるばかりだった。


*

 自室に招いた澪を見て、根を詰め過ぎてやしないかと紬は不安になった。

 律が自殺してから日を経て、澪も大分回復してきたようだった。
律が自殺した当初は、阿鼻叫喚の如き取り乱しようだった。
律を追って自殺するのではないかと、本気で心配した程である。
それでも紬が懸命に支えて、学校に通えるようにまでなっている。
勿論、唯や梓の協力もあった。
律が生前に言い残した言葉を、取り敢えずは実践できた形になる。

 学校側も律の自殺を経て、考えを改めたらしい。
生徒に対するカウンセリング体制を整え、
また仮に生徒の妊娠があってもサポートする方向へと変わった。
律の死が中絶の罪悪感である事を、重く見た結果だろう。

 勿論それは遺書にあった内容であり、
律の自殺の理由がそれだけではない事を紬は知っている。
律は澪を憎みたくなかったのだ。
憎んでしまえば、澪の為に中絶した意味さえ失われる。
胎児の死を無駄にしない為には、澪を愛し続けるしかない。
だから憎しみに傾く心を抑えられないと悟った時、律は自殺を決断したのだろう。
憎しみに完全に転化する前に、愛したまま死のうと。
中絶を経て弱っていた精神状態も、それに拍車を掛けたに違いない。

 紬は改めて律を悼みつつ、紅茶の差し入れを持って澪に話し掛けた。

「いいポスターが出来上がりそうね」

 澪は今、新しい部員勧誘のポスターを作っていた。
欠けたドラムを埋めなければならないのだ。

「うん。今度こそ、入ってくれるといいな」

 部員集めは難航していた。部から自殺者が出たのだから、当然かもしれない。

「ええ。でも、頑張り過ぎないでね」

 律が居ない悲しみを埋めるように、澪は部活に没頭していた。
幾ら回復してきたとはいえ、精神には深い傷痕が残っているはずである。
自身の心身も労わって欲しかった。

 だからこそ休息の意味も込めて澪を自室に呼んだのだが、
ここでも澪は部活の作業に手を付ける始末だった。

「分かってるよ。ただ、何かしてないと、思い出しちゃうからさ」

 何を思い出すのか、聞くまでもない。
そしてその気持ちは、紬にも分かる。
律の自殺当初は澪のフォローに没頭していた事が、紬にとって慰めにもなったのだ。

 それでも、休息は必要だろう。

「気持ちは分かるけどね。ティーブレイクしましょ?ね?」

「そうだな。折角淹れてもらったんだし、貰おうか」

「作品に紅茶が飛ぶといけないから、こっちのテーブルで」

 紬が紅茶を別の机へと置くと、澪もつられたように立ち上がった。

「んっ」

 だが、歩く事はなかった。
立ち上がると同時に姿勢を崩して、倒れ込んでしまった。

「みっ、澪ちゃんっ?」

 紬は慌てて駆け寄ると、澪の名を叫んだ。
だが意識は既になく、返事も当然のように聞こえてこない。
咄嗟に呼吸と脈拍を確認すると、気を失っているだけだと分かった。
その事に少しだけ安堵して、紬は救急車を呼んだ。




 医療機関に着く頃には、既に澪の意識も戻っていた。
ただ付き添った紬は念の為と、澪には精密な診察を受けてもらった。
澪が搬送された先は先進的な医療機関という事もあり、規模の割に設備も整っている。
澪は大袈裟だと言っていたし、紬にもその自覚はあった。
最近は些細な事にさえ、どうしても念を入れるようになってきている。
色々と見逃してきた事への後悔が、そうさせてしまっているのかもしれない。

 ただ、不意の意識喪失は、重大な病のサインともなりうる。
心労と過労の蓄積だと片付ける事は、些か安直過ぎるだろう。
それに丁度MRIが予約なしで撮れる時間帯という事もあり、タイミングは良かった。
混んでいないのだから、結果も今日のうちに聞ける事になる。
尤も、総合病院や大学病院以外でMRIを設置している医療機関は、もともと穴場ではある。
それでも折角の機会、活かした方がいいだろう。

 澪の診察結果は、すぐに出た。
紬も診察室に付いて行こうとしたが、職員に遮られた。

「個人情報がありますので、ご友人の方は申し訳ございませんが……」

「そうですか。澪ちゃん、一人で大丈夫?」

「そんな過保護にしなくても平気だよ。
どうせ、念の為に撮っただけなんだ。何もないよ」

 幾ら空いているとはいえ、迅速過ぎる事が気になった。
異常が発見されていなければいいが、と思いながら待合室へと戻る。

 だが紬には、待合室の椅子へと腰を落ち着ける間もなかった。
澪が診察室に入ってすぐに、取り乱したような叫び声が漏れてきたのだ。
澪の声だと判断した紬は、咄嗟に駆け出した。
院内だという意識は、簡単に吹き飛んでいた。

 職員が止める間もなく診察室に入った紬は、取り乱す澪と宥める医師双方の視線を浴びた。

「ム、ムギっ。聞いてくれよ、この人達、おかしな事言うんだよっ」

「お、落ち着いてください、秋山さん」

 医師が制止する声も聞かずに、澪は続けた。

「私、男性経験ないのに、この人達、私の子宮に胎児が居るって」

 途端、紬の身体を雷に打たれたような衝撃が突き抜ける。
見落としていた。女同士で妊娠できるという事は、こういう事なのだ。

──それにその話が本当なら、澪だって妊娠していてもおかしくないよ。

 律がかつて言いかけた言葉が、補完されて紬の脳裏に蘇る。
そう、澪は律と交わっていた。
澪が妊娠する事だって、有り得るのだ。

「まぁ、落ち着いてください。ここでは他の来院者の方の妨げになります。
今、説明しますから。
取り敢えず、別室に行きましょう」

 紬と澪は、小さな別室へと移った。
急患室と書かれたプレートで、事故等で運ばれた人を一時的に待たせる場所だと知った。
今は誰もこの部屋に居ないので、説明するには絶好の場所なのだろう。

「あの、まず秋山さん。ご友人の方に話を聞かれても、構いませんか?」

 紬の方を一瞥してから、医師は言った。
先程は職員が有無を言わせずに、紬を遮っていたはずだ。

「ええ、構いません。それより、どういう事なんですかっ?」

 澪が認めると、医師の顔にあからさまな安堵が広がった。
面倒な来院者だと思い、付き添って来た紬に宥める役を期待しているのだろう。

「ええ、ですから、MRIで全身を見た結果、胎児が子宮内に発見されました。
胎児が長らく居た影響が蓄積して、今回の貧血に至ったんだと思います。
それで、残念ですが、この胎児は、今でこそ辛うじて死んではいませんが……。
流産は、確定です。
非常に身体が小さいまま、顔の形ができていますが、
内臓や循環器、呼吸器が見受けられません。
これでは体外に出れば、生きる事はできません。
そして母体に留まっていても、今から臓器が作られる事もないでしょう。
妊娠それ自体はかなり前らしく、既に脳や顔は成長しきってますから。
今回の件でも明らかなように、このまま母体内に留めれば、
母体にも悪影響を及ぼします。
できるだけ早い時期に、母体から摘出すべきです。
それで、これがその、映像です」

 医師は澪に言葉を挟ませずに長々と説明した後、ボードにMRI写真を貼り付けた。
紬はその写真には目もくれず、澪を見つめていた。
証拠を見せられた事で、澪の表情には苦悶が浮かんでいる。
認めざるを得ないが受け入れられない、その様相が表れていた。

「まだ未成年ですから、御両親を呼びましょう。
御両親も知るべき事ですし、摘出手術の段取りも整えなければなりません。
それまで、ここで休んでいてください。
連絡先は、来た時に書いて頂いた連絡先の、ご自宅欄でよろしいですね?」

 初診の患者に渡される用紙には、病状の他に住所や連絡先も書かなければならない。
その連絡先を医師は確かめているのだ。
だが澪は、全く別の事を口にしていた。

「何で……妊娠なんて……。私、律としか、同性としかした事ないよ?
なのに、妊娠したって事は……つまり……」

 医師は溜息を吐いて立ち上がった。

「最近、そういう事を訴える同性愛者の方が増えてきているそうですね。
ですが、それは医学的には有り得ない事です。
パートナーの方に露見したくない気持ちは分かりますが、
現実を見てきちんと話し合う事が大切です。
それでは、用紙のご自宅欄に連絡しておきます。お待ちください」

 医師の言葉で、紬の願いの影響が所々に出始めていると知った。
それでもまだ虚言で片づけられ、医学界は見解を改めていないらしい。
紬は額を指で抑えて、下を向いた。
自分のせいで方々に不信と諍いが広がっている。
ましてや、双方が妊娠する事も有り得るのだ。
実感を伴う後悔が、紬を苛む。

「つまり……律の言う事、本当だったって事か?」

 絶望的な澪の呟きを聞いて、紬は視線を戻した。
澪は顔色を青白くして、なおも呟く。

「律は本当に、私の子を身籠っていたのか?
なのに私はそれを信じられず……律に中絶させて、律も自殺に追い込んだのか?
私が、律を、殺した、のか?自分の、子供、も」

 真実に気付いた澪は、青白くなった顔を両手で掴んで震えた。
自我の全てが砕け散ったかのような、痛ましい姿だった。
そしてその姿以上に、澪の心は追い詰められているだろう。

 紬は澪を見ていられず、視線を逸らした。
逸らした先には、先程医師が貼り付けたMRI写真があった。
確かに一目で奇形と分かる。顔以外、何もできていな──

「っ」

 紬の視線は、その顔に釘付けになった。
怒っているようにも笑っているようにも、男のようにも女のようにも見える。
帽子のような突起さえ見えた。
よくよく見れば不完全な身体部分も、服を着ているように映った。
一夜しか見ていないが、それはトントゥの姿と重なっている。

「そんな所に……居たの……」

 紬は唖然とした声を漏らした。
トントゥはもう居ないのだと、探す事自体を諦めていた。
だが実際にはティーカップから出て行っただけで、すぐ近くに居たのだ。
ティーカップの使用を拒んだ、澪の下に。

 紬は漸く全てが分かった。
トントゥは紬の勝手な解釈で、ティーカップを捨てられた事に立腹したのだろう。
そもそもトントゥは、一夜にして願いを叶えるとは言っていない。
だから紬の意識の間隙を衝いて、願いに沿う形で復讐していたのだ。
気付けるはずもない事を見落とさせて、紬が自責に苛まれる姿を楽しみながら。

 そう、トントゥは特等席で、非日常が齎す災厄をずっと観ていた。

「なぁ、ムギ。そういえばお前が前に言ってた話、本当か?」

 絶望に怒りが混ざった声を靡かせて、澪が立ち上がった。
律の妊娠が自身との性交の結果だと分かった以上、澪に紬の話を疑う理由もなくなる。

「お前のせいで女同士が妊娠できる世界になったっていうのも、本当なのか?」

 澪の両手が、紬の首に向かって伸びてきた。
律を死なせた絶望と、紬に対する怒り。
その二つが織りなす凄まじい情念が、澪の声にも顔にも感じられる。
自分を殺して、澪自身も死ぬつもりなのだろう。

「お前と私が、律を死なせたようなものだな」

 紬は否定するつもりも、抵抗するつもりもなかった。
ただ、圧迫されて声が出なくなる前に、これだけは言いたかった。

「ごめんなさい」

 本当は澪の腹を殴りたかった。
そうして、そこに居るトントゥを──


<FIN>

以上で完結です。
お読み頂いた方、ありがとうございました。
それでは失礼します。