*

 翌日、律の顔を見て紬は驚いた。
所々にガーゼが貼られたその顔に、他の生徒も興味を示したらしい。
律はそれに対して「出来物だよ」の一言で説明していた。
だが、紬には出来物では説明できない程に腫れて見えたし、
ガーゼの隙間からは痣も覗けた。
まるで、殴られた痕のように。

 だが澪は昨日、顔までは殴っていなかったはずだ。
とすれば昨日、紬と別れた後で何かあったのだろうか。
紬は気になったが、答えを聞く機会はすぐに訪れた。

 休み時間に、律が目配せしてきた。
紬と目が合うとすぐに律は立ち上がり、教室から出て行った。
目配せがサインだと感じ取った紬も、すぐに後を追う。

 律に導かれた先は、部室だった。

「来てくれてありがと、ムギ」

 紬は入ってすぐ、律の礼に迎えられた。
その事で、やはり目配せは付いてくるよう促す合図だったのだと、紬は分かった。

「意味ありげな視線送ってきたから、気になって」

「気付いてくれて良かったよ。
ムギには、色々と説明しなきゃいけないと思ったから」

 律はそう言うと、椅子に腰掛けた。
紬も倣うように、椅子へと座る。

「ああ、そうだ、その前に。まず、このガーゼだけどさ。
実は、吹き出物とかじゃないんだ」

「でしょうね」

 他の生徒も多分、薄々嘘だと勘付いていただろう。

「うん、ムギに言っちゃうとね、お父さんに……とうとう殴られちゃった。
腫れたし、痣にもなってるから、隠してるけどね。
仮に出産しても、経済的援助は一切しないって、そう断言もされたよ。
まぁそれもショックだったけど、殴られたのはもっとショックだったな。
今まで、娘の私、可愛がってくれてたから」

 可愛がっていたからこそ、出産を認める事ができないのだろう。
紬と律以外の者から見れば、相手の素性さえ不明なのだ。

「痛かったでしょう?」

 そうとしか言えない自分が歯痒かった。
殴られる前から既に、律は家の中で針の筵だったというのに。

「うん、痛かった。
それで、本題だけど……その、出産の事なんだ」

「あの、そういう話、ここでは。
そうだ、学校が終わったら、私の家に来ない?
私の部屋なら、危険もなく話せるわ」

 紬は一応、ここに来る時に後ろを気にはしていた。
誰も付いて来なかったはずだが、それでも盗み聞きの不安は消えない。

「あー、もういいんだ。そういうのに敏感にならなくっても。
だって私、堕ろすから」

 律は言った直後、顔を机に俯せた。

「え?あの……」

 紬は驚きに目を見開いて、律を見つめた。
今、律は確かに堕ろすと言った。その事は紬も理解している。
そしてそれは、紬が望んでいた事でもある。
それでも唐突な事に、紬の反応が理解に追い付かなかった。

 紬がどう反応していいか迷っているうちに、律が顔を上げて言う。

「まぁ、そういう事があったから……堕ろす事にしたんだ。
でも本当は……昨日の事があったから。
澪の事、犯罪者になんて、できないから」

「そう……」

 相変わらず、掛ける言葉が見つからない。

「うん。いつか澪は多分、私をこ……手にかけると思う。
それでなくとも、昨日は赤ちゃんを……」

 律の身体が震えた。

「大丈夫?」

「うん。澪をね、子殺しにしたくはないんだ。
どうせ澪は私もろとも、近いうちにこの子を……だから。
だから、私が殺すんだ……」

 そう言い切った律の頬に、涙が一筋零れた。
激情に衝かれるように、律は続けて言う。

「昨日の事で、改めて分かったよ。
澪は自分が犯罪者になったとしても、この子を許す事がないんだって。
だって、昨日、澪の目論見が成功しても、どうせ逮捕されてたんだし。
ムギにも諭されて、その事が漸く私にも分かった。
澪の事、好きだから……そんな人にしたくないんだよぉ……」

 律は再び顔を机に伏せて、痛々しい嗚咽を漏らした。
紬はその背を擦ってやった。
授業に遅れてしまっても構わなかった。

 一頻り泣いた後で、律は再び顔を上げて言う。

「それでね、ムギには澪を責めて欲しくないんだ。
この子を殺すのは、あくまで私なんだから。
唯達は事情をあまり知らないから、
親に諌められた事で堕胎の理由を通すつもりだけど。
ムギは、昨日何があったか分かってるから。
ムギは澪の殺意も分かってるから……私が堕胎する事で、
澪が悪いって誤解するんじゃないかって。
悪いのは私だから、私だからね?澪を絶対に、責めないであげて?」

 この懇願こそが、紬を呼んだ本題である気がした。
律は本当に澪が好きなのだ。

「澪ちゃんを責めるだなんて、とんでもないわ。
私だって、中絶には賛成だったんだし。
それにりっちゃんは、悪くなんてないわ。悪いのは、私なの」

 声が震えて、トントゥの顔が憎々しく脳裏を過ぎった。
自分が願わなければ、トントゥさえ居なければ。
紬は何度目か分からない遅すぎる後悔に、再び胸を掻き毟りたくなった。

「ムギも悪くないよ。私の事、考えての事でしょ?
それと……澪にはまだ、話してない。唯にも、梓にも。
澪達には、部活の時に改めて堕胎を告げようと思う。
親に殴られて経済的援助をしないって言われた、それを堕胎の理由にしてさ」

 律はそう言うと、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「私って、本当に最低で馬鹿な女だよね。
本当はさ、この顔だって、ここまで殴られずに済んだんだ。
お父さんにも、娘を殴るような嫌な思いをさせずに済んだんだ。
だって、殴られる時点では既に、堕胎を決意してたんだから。
殴られた事がショックなのは本当だけど、
それでもそのまま殴らせる事で、堕胎の理由を作ろうとしたんだよ。
澪や唯達を、本心を探られずに納得させられるように。
上手く理由思い付けないからって親を利用して、本当に私は」

 自分ばかり責める律が痛ましくて見ていられず、
紬は思わず抱き付いていた。

「止めて……止めてよ、りっちゃん。自分を責めないで。
悪いのは、全て私なの。
私が、あんな事を願ったから」

 激情を迸らせる紬に、律の訝しげな声が挟まれる。

「願う?」

「そうなの、私の願いなの。
信じてもらえないかもしれないけど、ある夜にトントゥっていう妖精が現れて……。
願いを叶えてくれるって言うから、女性同士でも妊娠できる世界をって、願っちゃったの。
そうしたら、こんな事に。
いや、もしかしたら、願いが叶ってないと思った私が、
トントゥが宿っていたティーカップを捨てたから。
その事で、復讐してるかもしれないの。だから、悪いのは私なの。
本来、全ての苦しみは、私が被るべきなの。
ごめんなさい、私、こんな事になるなんて思わなくて。
私……私……」

 紬は長い独白の後、堪え切れずに嗚咽を漏らして泣いた。

「なーに言ってるんだよ。もしそれが本当なら、澪の子を孕めて幸せだったよ。
んーん、ムギの言う話とは関係ないと思うよ。
だってムギ、普段からそういう事を願ってるでしょ?
だから偶々、私が奇跡かなんかで妊娠した事が、自分のせいに思えてるだけだよ。
それにその話が本当なら──いや、とにかく。
トントゥとかいう妖精だって、その事で合理化を図る為に、
紬の脳が生み出した幻の記憶かもしれないし。
だから、ムギは悪くないよ」

 律は怒るどころか、紬の髪を撫でながら優しく言った。
その優しさに甘えるように、紬は更に泣きじゃくる。

「ごめんなさい……私……私……」

「ムギは悪くないよ、よしよし」

 律は紬が泣き止むまで、ずっと紬の髪を撫でてくれた。
まるで自分が幼き頃の、母のように。


*

 律の中絶の手術を翌日に控えて、紬は澪の自室へと呼ばれた。

「なぁ、ムギ。律が中絶する理由だけど……。
親から殴られたり、経済的援助をしないっていうのは、嘘なんだろ?」

 紬が部屋に訪れて開口一番、澪が言った。
やはり澪も、その理由を信じていなかったらしい。
律が部活で中絶の経緯を告げた時、
澪だけではなく唯や梓の顔にも不信が浮かんでいた。
ただ、律の中絶それ自体は皆が望んでいた事であり、誰も疑義を唱えようとはしなかった。
理由を糾して話が混乱してしまうよりも、中絶という結論それ自体を尊重すべきだと考えたのだろう。
あの時の、喜びも表せず異議も言えない重い雰囲気を、未だに紬は憶えている。

「殴られたりしたのは、本当でしょうね。
実際に、顔を腫らしていたし」

 紬は迷った末、そう答えた。
だが、澪にそのような逃げが通用するはずもなかった。

「私が聞いているのは、事実かどうかじゃない。
殴られたのは本当だろうけど、律が中絶を決意した理由はそれじゃないんだろ?
律はムギにはそれを、言っていたんじゃないのか?
律が中絶すると言った時、ムギはあまり驚いてなかったし」

「仮に本意が別にあったとしても、りっちゃんは言わなかった。
なら、それを尊重してあげましょう?」

 嘘を吐き通す自信もなく、紬は躱す事しかできない。

「私のせい、なんだろうな。
あんな事した、翌日だったんだし」

 澪は顔を逸らした。言われるまでもなく、分かっている事らしい。
紬が何も言い返せずに黙っていると、澪は続けて言う。

「いや、せい、っていうのは違うな。
だって、私の望みどおりに、律は中絶に至った訳だし。
なぁ、ムギ。私は律を殴った夜……恐ろしかったんだ。
何度も、いっそ律を殺してしまおうかって、そういう衝動に駆られてたよ。
自分の中に生まれてくるどす黒い衝動を抑えられない、そんな恐怖があったんだ。
だから、律が中絶を決断してくれて、安心したよ」

「そう……」

 紬や律の予感は、やはり間違っていなかった。
澪はいずれ、律を殺していただろう。
そうならなかっただけでも、僥倖と思うべきなのかもしれない。

「なぁ、ムギ。今になって言うけど……あの時、止めてくれてありがとな。
それを言いたくて。電話とかじゃなくて、直接。
もし、止めてくれなかったら……私は……狂ったまま……律を……」

 澪の身体が震えた。
一応、澪が暴力を振るった事は、胎児には影響を与えていなかったらしい。
だがあのまま続けていれば胎児は勿論、律さえも危うかったろう。

「いえ、私にも責任がある事だから。
それに、その話はここでは止めましょう?
澪ちゃんのご家族、居るんじゃないの?」

「一階だよ。それに、今更聞かれたって構わない。
律の事は、もう、赤裸々になってるんだし。
それで……なぁ、ムギ。律、学校に居られるかな?」

 澪は案じたように言う。
そちらこそが本題だろうか、そう紬は思った。

「ええ、大丈夫だと思うわ。
澪ちゃんがその為に、署名活動を頑張っているんだし」

 既に、学校側も律の妊娠を把握していた。
中絶の手術で長期休学する為に、律の両親が届け出たのだ。
その判断は正しいと紬も思う。
梓はかつて学校側には適当な理由を付けて休めば良いと言っていたが、
それでは露見した時に更に不利な立場へと追い込まれる。

 今、学校側は、律の処分を巡って紛糾していた。
さわ子が退学にさせまいと頑張っているらしいが、退学を望む教員も居るとの事だ。
澪はその事で、校内で律の退学阻止を求める署名活動に奔走している。
紬や梓、唯も協力しているが、澪の熱意には特に鬼気迫るものがあった。
本当に律を愛しているのだと、その事が伝わってくる。

「ああ、上手くいくといいな。復学も、手術も」

 祈るように言う澪に、紬も合わせる。

「きっと上手くいくわ」

 上手くいって欲しいと、心から願った。
勿論、トントゥ以外の存在に願った。


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