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 部室から出た直後、律は涙を執拗に拭いた。
それでも瞳は赤いままで、泣いた跡が顔の至る所に残っている。

「下、まだ唯達が残ってるんでしょ?」

 唯や梓に泣いていた事を悟られたくないのか、自分の顔を気にしながら律は言う。
それは意地や羞恥よりも、澪に対する心象が悪くならないようにという配慮故だろう。

「大丈夫よ、多分帰ったし、残っていても私が上手く言い繕うから。
少なくとも、部室で起こった事は、私の胸の内に留めておくわ」

 紬の言葉で、律は幾分か安心したようだった。
紬は律を先導して、階下へと歩き出した。

 階下には、まだ唯と梓が残っていた。
扉の閉まる音が聞こえなかったのかもしれない。

「あ、ムギちゃん、やっと戻ってきた。
随分遅かっ……って、りっちゃん泣いてるっ?」

 律の表情を確認した唯が、驚いたように言う。

「な、何があったんですか?」

 梓も続いて驚きを露わにしたが、説明する気はなかった。
それは律と約束を交わしていなくとも、同じことだったろう。

「何でもないわ。ちょっと、揉めちゃっただけみたい。
さ、唯ちゃん達も帰りましょう?」

「でも……」

 梓は躊躇うように、上を見た。
澪が下りてこない事に、不審を感じているのかもしれない。

「私は室内の会話を聞いていないから、事情は知らないわ。
ただ、りっちゃんや澪ちゃんの様子を見れば、聞かない方がいいって分かるの。
梓ちゃんも、それは分かるでしょ?二人の問題なのよ、コアな部分に立ち入っちゃ駄目なの」

 仲間に嘘を吐く後ろめたさはあったが、澪と律を守らねばならない。
紬は胸中で梓に謝りつつも、澪を糾さぬよう釘を刺した。

「じゃあ、結果もまだ聞けないんだね?
その、どういう選択したのか、とか」

 唯が気になる事は尤もだと、紬とて思う。
それでも、明かす訳にはいかない。

「ええ、そうみたいね。でもそれは、澪ちゃんが言っていた事でもあるわ。
今日に結論が出るとは限らないって」

 紬は唯を躱すと、再び律とともに歩き出した。
これ以上質問を受けて、嘘を重ねたくはない。

 唯と梓は澪を待つつもりなのか、紬達に付いて来なかった。




 校舎を出て暫く歩くと、律が呟くように言った。

「ムギの家、こっちじゃないでしょ?いいの?」

 既に涙こそ止まっているものの、声は未だに掠れていた。

「ええ、家まで送るわ。心配だし」

「うん、ありがと」

 律も一人では心細いのか、素直に紬の申し出を受けていた。
そうしてまた暫く無言が続いた後、律が再び口を開く。

「あのね、あの後……話し合いが始まった途端、
澪はいきなり堕胎を迫ってきたんだ。
最後通告だ、とか言って」

 誰かに話を聞いてもらいたいのかもしれない。
ただ、澪の対面に関わる為、唯や梓には話せない。
何が起きたか知っている紬にしか、話せないのだ。
紬は律が話すに足る時間を確保できるよう、歩調を緩めた。

「それで私が断ったら、澪ったら……お腹を、パンチしてきて。
怖かった、怖かったよぅ」

 思い出す事で辛くなったのか、律の顔から再び涙が落ちた。

「あの、りっちゃん。辛いのなら、無理しない方がいいわ。
話したくなった時に、またいつでも聞くから」

 どうせ事情はもう、推知できている。
澪が話し合いの前に見せた態度は、律を安心させる為に装っていたものだったのだ。
家で暴力的な方法に訴える事は、家族に阻止される危険があった。
それに、一般家庭に防音など然して期待できない。
加えて澪は焦っていた事もあり、家で実行できる状況が揃うまで待てなかった。
そこで紬の協力を得た事で、部室で決行しようとしたのだろう。
勿論、実行後は簡単に露見してしまう事だ。
だが、捨て身の澪に取って、後の事はどうでも良かったに違いない。
とにかく、律を流産させる事が先決だったのだ。

「んーん、今聞いて欲しい。ムギが迷惑じゃなければ、だけど」

 紬の言葉に、律は首を振った。

「迷惑だなんて。りっちゃんが抱え込んじゃう事の方が、余程心配だもの」

「ん、ありがと。
それでね、私はこの子を守ったんだけど、澪の攻撃は激しくて。
私はもう駄目かもって、思った。赤ちゃん守れないって」

 前方に通行人の姿を確認した事で、律は一旦口を噤んだ。
こんな時でも、律は澪に対する配慮を忘れていない。
つくづく、律は澪が好きなのだと再認識させられる。

 通行人を遣り過ごしてから、律は言葉を続けた。

「でもムギが来てくれて、助かったよ。
あ、いくつかパンチ受けたり、踏まれてお腹が圧迫されちゃったけど……。
この子、影響ないよね?あのくらいで、死んだりしないよね?」

「それは……大丈夫だと、思うけど。りっちゃん、そこまでダメージ受けてないみたいだし。
でも、分からないわ。専門の人に、診てもらった方がいいかも」

 律を安心させたいが、素人の紬に判断を下せる事ではない。

「それは、できないよ。
だって、殴られたり踏まれたりしたって、言える訳ないから」

「でしょうね。だから適当な理由を付けて、診察してもらえばいいわ。
胎児の様子に不安があるから、精密な検査をして欲しいとか言って。
母親が胎児を過度に心配するのは多分普通の事だから、
お医者さんも不審には思わずに診てくれると思うの」

 紬の助言に、律は感心したように頷いた。

「ああ、そうか。そういう手もあるね。ありがと、ムギ」

「いえ、気にしないで」

「んーん、ムギには感謝してるよ。ムギには色々と助けてもらってるし。
でも……」

 律が続きを言い淀むように、目を伏せた。
紬は辛抱強く待った。律を急かしてはならない、と。

 暫く沈黙が続いた後、律が躊躇いがちな声で言った。

「ねぇ、ムギ。さっき澪が言ってたけど、協力ってどういう事?」

 今度は紬が躊躇ったが、律を相手に隠すつもりはない。

「昨日ね、澪ちゃんから相談を受けていたの。
その、りっちゃんに堕胎してもらう為の、ね。
どういう方法を取るかまでは明かされてなかったけど、
できる限り穏便に説得するって、約束してくれたから……。
だから、澪ちゃんに協力を約束したの」

 説明する言葉が言い訳じみてしまい、澪を盾にしているようで良心が咎めた。
それでも、律の信頼を失いたくなかった。
それは自分の名誉の為ではない。
律が自分という慰撫を失ってしまう事を避ける為だった。

「そっか……そうなんだ。
じゃあムギも、私の中絶に賛成、って事なんだね」

 紬はまたも躊躇ったが、結局言った。

「ええ、そうね。
やっぱり出産は退学の危険性が高いし、上手く育てられるかどうか。
それに、澪ちゃんの事もあるわ」

「澪、か。強く反対してたもんね」

 律は寂しげに言った。

「ええ、多分澪ちゃんは、りっちゃんが退学になる事や、
経済的に行き詰る事だけを理由に、強硬に反対してるんじゃないと思うの。
嫉妬が、一番近いのかな。
澪ちゃんは、胎児がりっちゃんと自分の子だと信じていないわ。
浮気相手の存在を確信してる。だから、許せないのよ。
他人の子を産もうとしている事が」

 紬の単なる想像ではない。
実際に澪も、相手の男に対する嫉妬心を胎児と絡めて度々口にしていた。
その事で律を口論の度に責めてきた。
だからこそ律にも納得がいくのだろう、反論は一切挟まずに頷いている。

「そうだよね、そう見えちゃってるんだよね。
私、信じてもらえてないんだよね。
もし産んじゃったら、澪はもう二度と私と仲直りしてくれないよね」

 律は悲しみを隠すように、繕った笑みを浮かべた。
それでもまだ紬には、律の見通しは楽観的に思えた。

「それどころか、産ませてくれるかさえ分からない。
更に強硬な手段を使ってでも、阻止してくるかもしれない」

「でも、澪は今日、ムギに説得されて退いていたよ?
もうあんな事、してこないんじゃないの?」

 確かに澪は、律の命が危険に晒されると聞いて止まった。
だからと言って、次がないと言い切れるのだろうか。
澪の精神は、日が経つにつれて破綻してきている。
律の死と流産を秤にかけて、出産を認める方向に傾くとは思えない。
嫉妬を源泉に動く澪は、思考を別の方向に傾かせるのではないだろうか。
その懸念を、紬は口にする。

「いえ、そうとも限らないわ。次は、りっちゃんもろとも、かもしれない。
その後、自分自身も手にかけるかもしれない。
実際に澪ちゃんは言っていたわ、お前を刺し殺して私も死にたいくらい、って」

「でも……それは今日、できなかったよ?
私を澪は死なせる事ができずに、止まったよ?
なのに今後、私を……手にかけるかもしれないの?」

 律の声は震えて、縋るようだった。
嘘を言ってでも慰めてやりたい、でも、一凌ぎでは今後に危険が及ぶ。
その鬩ぎ合いを経て、紬は後者の考えを取った。

「ええ。今日の段階ではまだ、りっちゃんを取り戻す方向だった。
でも、胎児とりっちゃんの命が不可分に近いと、澪ちゃんは今日改めて分かった。
この状況で、次に澪ちゃんはどう考えるかしら。
徐々に精神が危うくなっている澪ちゃんは、こう考えるかもしれない。
ならいっそ、りっちゃんを殺して、永遠に自分のものにしてしまおうって」

 紬は反応を窺うように律を見遣った。
律は考え込むように黙っていた。
その深刻な横顔が気になったが、紬はなおも続けて言う。

「そしてその事は、日が経つにつれて実現の危険性が大きくなるの。
出産予定日が迫って、出産が現実味を帯びれば帯びる程、澪ちゃんの嫉妬心も大きくなる。
現に、りっちゃんが浮気の結晶を産み落とすっていう現実に、
澪ちゃんはどんどん耐えられなくなっていってるわ。
それは勿論、澪ちゃんの中での話なんだけれど」

「そっか。今日はまだ出産がそこまで現実的じゃなかったから、
私の命で止まるだけの精神的余裕が澪にあったってだけなんだね。
それが今後、私を命ごと奪う方向に変わっていくかもしれないんだね」

 自分自身へと説明するように、律は言った。
声に出す事で、改めて確認しているのだろう。

「あくまで、私の推測だけどね」

「んーん、説得力はあったよ。確かに澪は、日に日に怖くなってった。
それに今日の事は逆に、澪にそういう覚悟を固めさせちゃったかもしれないし。
あ、ムギ。送ってくれて、ありがとね」

 気付けば、既に律の家の近くまで来ていた。

「ここでいいの?家の前まで、送るつもりだけれど」

「いいよ。今の家族、ちょっと見せられなくってさ」

 律の妊娠は、彼女自身の家庭にまで不和を齎しているらしい。
律に逃げ道はない、その事が紬の悲しみをいや増す。
それでも、他人の家庭に立ち入る事は憚られた。

「そう?じゃあ、この辺で。また明日ね、りっちゃん」

「ん、また明日なー」

 最後に律は、空元気を見せた。
笑顔を浮かべて、手を振っていた。
対して、紬は笑顔を返せなかった。
律の方が余程、辛い思いを抱えていると分かっているのに。


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