*

 部室の扉に設置された窓を覗く前から、既に紬の嫌な予感は確信へと変わっていた。
扉へと近付く度徐々に、叫びのような声が漏れ聞こえてきていたのだ。
話の内容までは分からないが、異常な事態だと断言できる要素だった。

 紬は踏み込む覚悟を固めつつ、扉の窓から室内を覗き込んだ。
途端、衝撃と驚愕、そして悲しみが紬を貫く。
ある程度の異常を織り込んでいたとはいえ、事前の心構えなど簡単に吹き飛んだ。

 瞳に映る光景は、あまりにも凄惨だった。
腹部を庇うように両手で押さえる律、そして腹部目がけて拳を振るう澪。
律の表情は涙と悲痛で崩れ、澪の表情は怒りと興奮に歪んでいる。

 扉に張り付いた事で、防音の部屋からでも微かに声が漏れてくる。

「止めてっ、赤ちゃんが死んじゃうっ、私の赤ちゃん、死んじゃうっ」

「こうするしかないんだよ、馬鹿律っ」

 紬は一瞬の硬直の後、すぐに動いた。
ドアノブを捻り、室内へと踏み込んだ。
そして声が外に漏れないよう、すぐに扉を閉ざす。
今の澪に唯達が気付かないようにという、咄嗟の判断だった。

 紬が踏み込むと、律と澪の動きが一瞬止まった。
二人の緊張に満ちた瞳が、紬へと注がれる。
途端、澪の表情が緊張から安堵に変わった事で、紬は危うく嘔吐しかけた。
やはり澪は、自分に共犯の意識を抱いている。
自分もこの残酷な行為に加担しているように感じられて、
紬の胸に息苦しい程の自責が圧し掛かった。

「ム、ムギっ。助けてっ」

 先に声を上げた者は、律だった。
手を上げて、紬の方向へと駆け出そうとする。
だが足が勢いづく前に、澪の手が律の襟首を掴んでいた。

「無駄だよ、律」

 澪はそう言うと、律の身体を引き寄せた。
律の細く小さい体は、澪の力に簡単に翻弄される。
振り回されるように引き戻され、再び腹部へと拳が見舞われた。

「止めてったらぁっ。私の赤ちゃんが死んじゃうよぉ……止めてよぅ……」

 律は腹部を咄嗟に腕で庇うと、涙ながらに訴えた。
だが、澪に容赦する気配は見られない。
更に律を殴ろうとする仕草に、紬も堪らずに声を張り上げる。

「澪ちゃんっ。お願いだから、止めて……」

 澪は動きを止めると、怪訝な表情を紬に向けてきた。

「ムギ、どうして止める?
お前は私に、協力してくれるはずだろ?」

 協力という言葉に、律の顔が翳った。

「こんなやり方まで、認める訳ないでしょう?
こんな酷い方法に、協力なんてできる訳がない」

 紬は激しく首を振った。

「じゃあ、どうしてこの部室にまで来た?
梓達に見張りを任せて、私の加勢にきてくれたんじゃないのか?」

「確かに梓ちゃん達に見張りを任せてはいるけれど……。
ここに来た理由は、澪ちゃんに不審を感じて、りっちゃんが心配になったから、よ」

「じゃあ、昨日私に協力するって言ったのは、嘘なんだな?
お前は嘘を吐いていたんだな?」

 澪の表情が、怒りに歪んだ。
紬は目を逸らしながら答える。

「あの時は、こんな方法を取るだなんて、想像もできなかったから。
できる限り穏便に説得するって、約束もしてくれていたから。
電話の後で不審に気付いて……今日の澪ちゃんの態度もおかしかったし」

 本当は、電話が終わった段階で予想はあった。
律を強制的に中絶に追い込むのではないか、と。
想定していたのは物理的な暴力ではなく、脅迫の類ではあったが。

「それが無理だって、分かりきった事だろっ?
だから、こうするしか無いんだよっ」

 澪は振りかぶった拳を、素早く律の腹部に見舞った。
虚を衝かれた律はまともに受けて、腹部を抑えて蹲る。

「えぐっ、赤ちゃんが、私の赤ちゃんが……。
止めてよ、可哀想だよ、死んじゃうよ……助けてあげてよぉ……」

 律は苦しそうな呻き声の合間々々に、哀願するような声を出した。
涙の溜まった瞳で、上目に澪を見遣りながら。
その憐憫を誘う姿勢にさえ、澪は表情を変えていない。

「澪ちゃん、お願いだから……止めて?
こんな方法、犯罪よ?」

 紬も嘆願するように言った。
もし、澪が止めないのなら。実力行使も辞さないつもりだった。

「だから何だ?どうせ、相手の男は殺したかった。
その対象が胎児になった所で、私の行為に変わりはないんだよ。
いいさ、犯罪を経て刑事裁判にまで発展すれば、
相手の男の素性も明らかになるかもだしな。
マスコミ万歳」

 澪は正気とは思えないような事を言ってのけ、蹲った律の腹部を蹴った。
腕で庇ってはいるものの、衝撃は腹部へと突き抜けたらしい。
律は小さな悲鳴を漏らすと、腹部を更に庇うように床へと俯せた。

「無意味だよ、律」

 澪は律の背面から子宮を圧するように、足で強く踏み付けた。
律の口から、苦しそうな呼吸音が漏れる。
その合間を縫うように、断絶的な声が押し出されてゆく。

「止めて……助けてあげて……。
この子を、殺さないで……澪ぉ……優しかった頃に戻ってよぉ……。
澪ぉ……死んじゃうよぉ、私の赤ちゃん、死んじゃうよぉ……」

 言葉で説得するような悠長は、もう限界だと紬は悟る。

「澪ちゃんっ、りっちゃんから退いてっ」

 紬は咆哮とともに突進し、その勢いで澪を律から退かせようとした。
だが澪をその場から剥がすには至らなかった。
澪の力は、紬は想像していた以上に強い。

 階下にまで届く程の声を張り上げて、唯達に助けを求めたくさえなった。
部室の扉が開く音を聞いて、既に唯達は帰ったかもしれない。
紬が指示した通りに。
それでも唯達が帰っていない可能性はある。
また、唯達でなくとも、誰かが声を拾ってくれるかもしれない。

 だが紬は気付いていた。律は悲鳴を上げながらも、極力声量を抑えている事に。
犯罪に及びつつある澪を庇いたいのだろう。
そんな律を見ては、紬も我慢せざるを得なかった。
それに、澪の対面を守りたいのは、紬とて同様なのだ。

「邪魔するなっ、ムギっ。お前はもう、下に戻って見張ってろ。
全部私でやる。刑事責任も全て私が被る。
だから邪魔するな」

 澪は紬を突き飛ばしながら、更に律の背部や腰、臀部に足を幾度も踏み下ろした。
制服の背が澪の足跡で汚される度、律の口から悲鳴と嗚咽が溢れる。

「そういう問題じゃないのっ、澪ちゃんっ。
駄目っ。お願い、りっちゃんに乱暴しないでっ」

 紬は澪の脚にしがみ付いて、哀願を込めて言う。
律の身体から澪の足を払う事はできずとも、圧力を軽減させる事はできる。
少なくとも、勢いを付けて踏み下ろす事はできない。
澪は邪魔な紬を排除してくるかもしれないが、
どれだけ攻撃されても紬は離れないつもりだった。

 だが澪は、紬に手を出しては来なかった。
代わりに心底から凍るような笑みを浮かべて、狂ったように言う。

「ああそうか。もっと、手っ取り早い手段を取れば良かったんだ。
生殖器に手を突っ込んで、胎児を引き摺り出してやる。
それで流産は確定だ」

 紬の顔から血の気が引いて、気が遠くなりかけた。
ブラックアウトしそうな視界の中、澪の手が律のスカートへと伸びる。
律は身を捩って逃れようとしているが、澪に圧されているので動きは鈍い。
紬の手が澪を止めようと動けば、自由になった澪の足が律へ踏み下ろされるだろう。
どうしようもない絶望の中、紬は足掻くように言う。

「止めて……りっちゃんが死んじゃうわ……」

 澪の手が、止まった。

「律が……死ぬ?」

 我に返ったように、澪は呟いた。
胎児の殺害を実行できても、律の死には耐えられない。
その様相が、ありありと表れている。
紬はこの機を逃さず、畳み掛けるように言う。

「ええ、そうよ。
そんな無茶な事をすれば、出血多量か感染症か、りっちゃんの命まで消えちゃうわ。
勿論、腹部を殴ったり踏んだりする事だって、内臓破裂の危険があった。
中絶じゃ済まないわ」

 紬は医学の専門的な知識がある訳ではない。
それでも、生殖器から胎児を引き摺り出すような行為が、
律に致命的な傷を与える事くらい想像できた。
澪とて、それが分からないはずもない。
ただ、極端な興奮状態の中で、冷静さも思考も欠いていただけなのだ。
だから、指摘されれば容易に気付く。

「でも……でも、こうするしか……」

 澪は絶望したように言う。
紬が抑えている脚からも、既に力が抜けていた。

 その隙を逃さずに、律が澪の足下から脱した。
そのまま小走りに、律は澪から遠ざかってゆく。
澪が反応する前に、紬は咄嗟に足を引っ張って転ばせた。
澪が転んだ機に、守るように律の前面に立って言う。

「ごめんなさい、澪ちゃん。
でも、りっちゃんを死なせる訳にはいかないから。
勿論、澪ちゃんに犯罪を犯させる訳にも」

 澪は地に臀部を付けたまま、上半身だけ起こしてこちらを見遣ってきた。
澪に視線を向けられた事で、律に恐怖心が再来したのだろう。
律は紬の背に隠れながら、制服の裾を掴んできた。
掴む指から、確かな震えが伝わってくる。

「律……どうして、どうしてそんな目で私を見るんだよ……。
律ぅ……」

 澪の絶望に満ちた声が、室内を劈いてゆく。
紬にまでその絶望が伝播して、身体が悲しみに震えた。
それでも紬は、澪を諭すように言う。
二度とこのような行為に、及ばぬように。

「ねぇ、澪ちゃん。澪ちゃんが、りっちゃんを愛しているのは分かるの。
でも、暴力に訴えても無駄よ。
りっちゃんはきっと、最後まで胎児を守り抜こうとする。
それを暴力で排除して中絶させようとすれば、どうしても母体に致命的な負担は避けられないの。
文字通り、りっちゃんの命が盾になってしまうの」

「じゃあ……じゃあ、律は。
自分の命を盾にしてまで、何処かの男の種を守ろうとするのか。
私よりも、そんなにその男の事が大事なのか……」

 澪は屈辱と嫉みに震えた声を響かせ、拳を握りしめた。

「これは、男の人のじゃないよ?澪の子だよ?
何度でも言うけど、私、他の人と、関係してないから」

 紬の後ろから、律が掠れた声で言った。
嗚咽で声が枯れていても、絶対に伝えたい事なのだろう。

「まだそんな事、お前は言うのか……律ぅ……」

 澪が再び興奮する前にと、紬は律を伴って歩き出す。
ともかく、今の不安定な澪から、律を遠ざけたかった。

「澪ちゃん、冷静になろ?私も色々、考えるから。
忘れないで、私は二人の味方だから。
私は二人が最も幸せになれるよう、頑張るつもりだから」

 紬は扉に向かいながら、澪を見て言った。
本心からの言葉だった。

 澪は追いかけて来なかった。
力ない視線を、部室から出て行く紬達に送っていただけだった。


9