*

 だんだんと、澪は部活で律の妊娠の話をしなくなっていった。
ただ、それは決して澪が落ち着いた兆候ではない。
手段を電話に変えただけで、律に対する堕胎の強要は激しさを増して続いている。
それを紬は、律から聞いて知っていた。

 一方、律の方でも澪の要求を躱すようになってきたらしい。
最近では律はもう、澪からの電話を取る事がなくなったと言っていた。
澪も同様の愚痴を、紬に対して零していた。
律が電話を取ってくれなくなった、と。

 紬は双方から相談を受ける相手でもあった。
律は唯や梓を避けてこそいないが、堕胎を勧める側として信用は置いていないらしい。
澪もまた、律とよく話す紬に情報を期待しているのか、頻繁に話し掛けられた。

 澪からの電話が鳴ったのは、そんなある日の事だった。
シャワーを終えたばかりの紬は、ドライヤーを止めて応答した。

「はい、もしもし」

「あームギ、夜遅くに、悪いな」

 澪はすっかり憔悴しきった声で言った。

「いえ、とんでもないわ。どうせ今、特にする事がなかったから。
いくらでも、電話に付き合えるのよ」

 澪に遠慮させまいとする配慮を込めた。
自分には特にできる事がないのだから、せめて不安の捌け口としての役割くらい果たしたかった。

「そっか。なぁ、律の事なんだけど……。もう一回だけ、最終確認させて欲しい。
本当に、紬は律の相手を知らないのか?
いや、以前は知らなかったとは思うけど、例えばその後で。
律の方から、相手を匂わせるような言動とか、なかったか?」

「ええ、りっちゃんは主張を変えていないわ。澪ちゃんの子だと」

 律に対する支持を改めて明らかにすべきか、紬は一瞬迷ってから遠慮がちに付け加えた。
澪の反論を誘いたくはないが、律を突き放したくもない。

「私も、その事に付いては……りっちゃんを信じてる。ごめんなさい」

 澪の大仰な溜息が、スピーカーを通して聞こえてきた。

「まだ律は相手の男を庇っているのか。
それで律は、やっぱり産む意思を撤回していないんだよ、な?」

「ええ、そうね。何とか思い留まらせたいのだけど……」

 律は一人でも育てる気でいるが、そう簡単な事ではないだろう。
ましてや、退学処分という危険性も孕んでいる。
何より澪の納得を得ないまま律が出産に踏み切れば、
惨事を招きやしないかという危惧もあった。
今の澪は、それ程までに危うく紬には映る。

「ああ、絶対に出産なんてさせない。必ず思い留まらせるよ。
浮気の結晶である新生児の存在なんて、絶対に許さない」

 澪の口から狂気じみた言葉が漏れて、紬を不安にさせた。
無茶をするのではないかと、それが気懸かりだった。

「確かに、中絶が一番、現実的な解決策でしょうね。
りっちゃんは勿論、生まれてくる子にとっても。
でも、急いた事をしては駄目よ?
りっちゃんの理解を得ながら、説得していかないと」

「そんな悠長な事を言っているような状況じゃない。
それはムギも分かっているだろ?
律はいつ処分されるか分からない、そんな状況なんだって事」

 澪の言う通りだった。
学校では既に、律が妊娠したという噂が広まりつつある。
律は周囲に警戒する事無く、妊娠の話をするのだから当然かもしれない。
このままでは、何れ学校側も噂を無視できなくなるだろう。

「それは……そうなんだけど。
確かに、早く解決しないといけないんだけど……」

 言いながら紬は、歯痒い思いに囚われた。
自分が招いた事なのに、有効な解決策を打ち出す事ができない。
まるで、自分がただの観察者のように思えてくる。
悲劇に踊らされる二人を、見ている事しかできないのだから。

「ああ、本当に早く解決しないといけない。
学校が具体的な処置に乗り出すまでがリミットだ、それまでに律を流産させないと。
今の律は、学校から事実確認や出産の意思を問われたら、普通に産むって答えそうなんだ。
そんな態度を取る律に、学校が穏便な措置で済ますとは思えない」

 何処か引っ掛かる思いを抱きながらも、澪の言う通りだと紬とて理解した。
もし中絶すれば、学校も退学処分までは下さないかもしれない。
ただ、出産するとなれば、話は変わってくる。
それでも紬は、律の心にも配慮して欲しかった。
律の心とて、崩れそうな程に脆い状態なのだ。

「ええ、分かるわ。
りっちゃんは学校が相手でも、産む意思を撤回したりはしないでしょうね。
でも、りっちゃんも今は辛い心を抱えているはずだから……。
急ぎつつもできるだけ穏便に説得しましょう」

「ああ、できる限りは、な。
じゃ、ムギ。夜遅くに悪かったな。そろそろ切るよ。
あ……ムギは私に協力……してくれるんだよな?」

「ええ、りっちゃんにベストな選択を取ってもらいたいから。
じゃあ、また明日ね、澪ちゃん」

 勿論、今回の騒動に責任を感じているという理由もあった。

「ありがとうな、ムギ」

 澪が電話を切るまで待ってから、紬は携帯電話を手から離した。
ドライヤーを再開する気になれず、紬はそのままベッドに身を投げた。
どうせもう、髪は大方乾いている。

 仰向けに天井を見つめながら、紬は溜息を漏らした。
律の説得が不可能に近い事など分かりきっている。
だが律の出産に賛成する事もできない。
このジレンマに紬は苦しめられている。

 そういえば澪と律の会話もジレンマに陥っていると、紬は思った。
律は部活以外の場、即ち電話で澪と話そうとはしていない。
苛烈な堕胎の強要を受ける事になるからだ。
反面、部活の場では澪に胎児の話を持ちかけている。
律は澪の理解が欲しいのだから、会話を避け続ける事はできない。
紬達の監視や加勢を儚くも期待できる部活こそが、律が出産の話をできる唯一の場なのだろう。
ただ、澪は逆に、部活の場でそういった話を執拗に拒んでいる。
律を守る為にも、澪は噂が広まりつつある学内で妊娠の話はできないのだ。

 部活の場では澪が避け、それ以外の場では律が避ける。
これでは、律と澪の間に話し合い自体が期待できない。
いっその事、この自室を提供するというのはどうだろうか。紬は考えた。
家族の居ない時間帯を選んで、唯と梓も呼べば。
律と澪の双方が安心して話せる環境ができあがる。

 ただ、と続けて紬は思う。
今更話し合った所で、律が中絶を承諾するとは思えない。
そもそも、今まで律は頑なに説得を拒み続けているのだ。

 この状況下で、澪は一体どうするつもりなのだろうか。
絶対に出産させないと口にしていたが、打つ手はないように見える。
だが、先程の澪との会話を一つ一つ思い返してみても、諦める様子は見当たらない。

 そういえば、と紬は今更のように気付く。
澪は確か、電話の冒頭で『最終確認』と口にしていた。
次の手で終わらせるような口ぶりだ。
やはり澪には、何か策があるのだろうか。
律に堕胎を呑ませるような策が──

 紬は唐突に目を見開いた。いや待て、と、自分の思考を糾しながら。
澪はこの電話で、堕胎や中絶という言葉を使っただろうか。
違う、別の表現を使ったはずだ。
確か──

 紬はその記憶に至った時、背筋を冷たい感覚が突き抜けた。
背骨が氷柱になったように、固く冷たく身体が硬直する。

──流産
 そうだ、自分の記憶が確かならば、澪は”流産”という言葉を使っていなかっただろうか。
『それまでに律を流産させないと』と。

「嘘っ……」

 紬の口から、小さな叫び声が漏れた。
記憶違いであって欲しいと、言葉の綾であって欲しいと、紬は願った。
辞書上の意味では堕胎が流産に包含されるにせよ、ニュアンスはまるで違ってくる。
堕胎が専ら人口妊娠中絶を意味するのに対し、
流産は広く妊婦の意思を要しない自然妊娠中絶までも含む。
一般の会話では、妊婦が意思しない中絶の意で使われる事が多い表現だった。

 それを”させる”とはどういう事か。
紬は震えた。
布団を頭まで被っても、震えは止まらなかった。
歯の鳴る音が、布団の中に篭って響いていた。


*

 夜が明けても、紬は不安に苛まれたままだった。
澪が恐ろしい事を考えているように、思えてならない。
澪が怖かった。律が心配だった。

 だが、学校での澪は、落ち着いた態度を見せていた。
昨夜の電話で見せた焦燥は、欠片も感じ取れない。
その事が逆に、不自然なものとして紬には映る。
単に自分が疑心暗鬼に陥っているだけなのか、
それとも澪が繕った態度で恐ろしい胸の内を隠しているのか。
紬には判断を下す事ができなかった。

 部活になっても、澪は穏やかなままだった。
最近はずっと刺々しい雰囲気を放っていただけに、
唯や梓はあからさまな安堵を顔に浮かべている。
尤も紬には、澪の態度の豹変は違和感しか齎していない。
澪が穏やかになる要因など、まるで思い付かないのだ。

 一方で紬は自身が抱く不審を、昨夜の電話が原因だと自覚してもいた。
その電話のせいで猜疑に嵌り、神経質になっているだけかもしれない。
そう思い、何度もバイアスのない視点で澪を見ようと試みた。

 だが、部活が始まってそう時間が経たぬうちに、澪の言葉で紬の不審は決定付けられた。

「なぁ、律。そのお腹の赤ちゃんの事なんだけど。
今まで私、自分の都合だけ押し付け過ぎていたかもしれないな」

 紬は自分の耳を疑った。
あれ程中絶に執着していた澪が、急に態度を軟化させたのだ。
加えて、澪から学内で妊娠の話を振った事も不自然だった。

 唯や梓の顔にも、安堵から一転して不安が浮かんでいる。
尤も、この二人は不審故ではなく、
澪が出産を認めてしまうのではないかという懸念故かもしれない。

「えっ?澪、それって……」

 律は驚いた様子を見せた後、表情に期待を浮かべて澪に言った。
その顔に、訝る様子は見受けられない。

「いや、何も律の言い分を全て認めた訳じゃないぞ。
ただ、私も自分の意見に凝り固まっていたというか……。
だからさ、今までの自分の意見を見つめ直す意味も兼ねて、
もう一回律とじっくり話し合いたいんだ」

 澪は優しそうな表情と声で言った。
律に対するこのような澪を、紬はここ暫く見ていない。

「う、うん。そうだね、私も澪とは、話したいと思ってたし。
でも……まだ、私の言う事を信じてくれた訳でも、
出産に賛成してくれる訳でもないんでしょ?」

「それを冷静に確かめる為の、話し合いだろ?
でも、私は律を信じたいし、律の幸せに全力を尽くしたい。
だから、律のどうしても産みたいっていう意思を確認できたのなら、
前向きに検討してみたいとは思ってるよ」

 律の顔に喜色が広がり、弾むような声が爆ぜる。

「わぁっ、うん、絶対に私ね、産みたいんだ」

「待てよ、律。今話し合う訳じゃないって。部活の最中だし。
部活の時間が終わって、校内がある程度静かになってから、だ。
周りに聞かれたい話じゃないしな」

 やはり、澪は部室で話を付けようとしていた。
どういう心境の変化だろうか。紬の猜疑は、更に深まる。

「えー?どうせ産むんなら、もうバレたっていいんじゃないの?
私ね、早く澪と赤ちゃんのお話がしたいよ。
それに部室の近くなんて屋上使う人しか来ないし、
部室は防音だから話し声も漏れづらいよ」

 急く心を抑えられないのか、律は口を尖らせていた。

「まだ完全に認めた訳じゃないからな。まぁ、かなり前向きに考えてはいるんだけど。
それに、だ。出産するのなら、律が学校に籍を置いたままという形が理想だ。
だから、その方法も併せて、相談したいと思ってる。
一応、考えはあるけど、計画段階だからまだ学校側には知られたくないんだ」

「え?私、退学にならずに赤ちゃん産めるの?
澪達と一緒に卒様もできるんだっ。やっぱり澪は凄いね」

 律は感心したように言った。
恋人の聡明さを誇るような表情も浮かんでいる。

「あの……それって、学校で話し合う必要あるんですか?
家で話せば、もっと安心して話せるんじゃ……」

 紬も気になっていた事を、梓が問い掛けていた。
確かに今まで律は部活以外では澪を避けていた。
ただ、澪が出産に前向きな考えを示した事で、律の警戒も解けている。
今なら家で話すよう誘う事も可能だろう。

「家族の目とかあるから、さ。当事者同士で水入らずに、真剣に話したいんだ。
それに、親を如何に納得させるか、っていう話もあるから、
当の親や家族に聞かれる訳にはいかないんだ。
だから、家は使えない」

「あ、そうですよね。私の家は不在がちだから、つい見落としてました」

 梓は納得したようだった。

 加えて、律の家には聡も居るのだ。
澪が今まで律との連絡に電話という手段を用いていたのも、
家族の目を気にしての事かもしれない。

 紬も納得したが、澪の豹変にまで得心がいった訳ではない。
そもそも紬は、澪が翻意した事そのものに不審を抱いているのだ。

「うーん、でも……やっぱり出産は、色々と問題があると思うけど。
澪ちゃんに考えがあるとしても、そう簡単に乗り越えられる困難じゃないような。
それに、やっぱり、女の子同士で妊娠は考えられないよ」

 否定的な言葉を挟んだ唯に、律が顔を曇らせて噛み付いた。

「何言ってんのさー。お子様の唯には分かんないよーだ」

「律先輩。唯先輩は、律先輩を心配して言ってるんですよ?
そういう言い方は、良くないです」

 梓は律を窘めると、唯に向けて言葉を続けた。

「ただ……確かに、唯先輩の言う事は私も尤もだと思います。
でも……律先輩が譲らない以上、どうしようもありません。
当の本人に出産を強行されれば、それまでですからね。
だから、律先輩の事を一番よく分かってる澪先輩に賭けるしかないんです。
どういう結果が、出るにせよ」

「そりゃ、りっちゃんに意地を通されたらそれまでだけどさ。
でも、だからと言って、根負けして我儘を通しちゃうのは……」

「それは唯先輩の言う通りです。
でも、このまま律先輩一人を暴走させるより、
澪先輩が絡んだ方が良い方向にいくと思います。
澪先輩は我儘を通させたというより、現実的な判断をしてるんだと思いますよ」

 唯と梓は、律が頑なに主張を変えない為、
澪が根負けして意見を翻したと思っているらしい。
このまま平行線の関係を続けたまま出産されるよりも、
いっそ認めてしまってフォローした方が良い、と。

 確かに澪がそういう判断を下したのなら、この豹変も有り得る話だろう。
だが紬は、昨夜の電話で澪の意思を確認している。
僅か一夜にして、考えがここまで変わるとは到底思えなかった。
嫌な予感が、背筋を突き抜ける。

「何だよー、澪は根負けしたとかじゃないって。
私の言う事が正しいって、やっと分かってくれたんだよ。ね?みぃおっ」

 律は唯と梓の会話に不満を訴え、澪にも同意を求めた。

「それを確認する為の話し合いだよ。
それで、その話し合いの時なんだけど。
悪いけど、ムギ達は部室の階段の下辺りで、人が来ないか見張っててくれないか?
誰か上って来そうなら、携帯にコールしてくれ。
手間を取らせて申し訳ないとは思うけど」

 ムギ達、と澪は言った。唯達でも、梓達でもなく、ムギ達と。
その事が、自分に対するメッセージのようにも紬には感じられる。
そういえば澪は昨日の電話を切る直前、紬に協力を求めていた。
まさか、この事を言っていたのだろうか。

「ん?私達は、その話し合いには参加しないの?
澪ちゃんの考えっていうのも、凄く気になってるんだけど」

 唯が表情に不安を浮かべて言った。
唯はあくまでも出産に反対であり、その意見を反映させたいのだろう。

「ごめんな、デリケートな問題だから、律と二人きりで話し合いたいんだ。
今までこの問題を、二人きりで面を合わせて話し合った事が無かったし。
今日に結論が出るとは限らないけど、出た時には報告するから」

 申し訳なさそうに言う澪に、梓も加勢する。

「まぁ、そうですよね。やっぱり、二人きりで話す事も必要だと思います。
それに見張りは必要になる訳ですし。
私は構いませんよ、澪先輩。見張り、任せて下さい」

「うーん、あずにゃんがそう言うなら、仕方ないね。
二人を見張りに立たせて、私だけ参加する訳にもいかないし。
ん?そうだ、ムギちゃんもそれでいいの?」

 唯の視線が紬に向いた。
二人が同意しては、紬だけ拒んでも意味は無い。
それに、久し振りに嬉しそうな表情を浮かべる律に、水を差したくもなかった。
何より、澪の視線が刺すように紬へと注がれている。
昨日の約束を反故にしないだろうな、と言っているようにさえ見えた。
紬は嫌な予感に包まれながらも、澪の無言の圧力に屈するように頷く。

「ええ、任せて」

 紬も同意を返すと、澪の表情に安堵が広がった。

「良かった、ありがとうな、本当。
それで、まだ校内から人が減るまで時間が掛かるだろうから、練習しようか。
ここ最近、あまり本格的な練習できてなかったよな」

 梓と律が嬉々として同調し、唯も特に不服を零さず従った。
紬も皆に追随してキーボードを弾いたが、どうしても集中できなかった。
澪の意図が、気になって仕方がなかったのだ。


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