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 その日の夜、紬は早速澪へと電話を掛けていた。
無機質なコール音はすぐに止み、代わって澪の声が紬に届く。

「ムギ、どうしたんだ?今日、律の事で、何かあったのか?」

 開口一番、澪は律の事を問うてきた。
部室を飛び出していった律の事が、心配で仕方がないのだろう。

「いえ、特に何も無かったわ。
用件自体は、りっちゃんの事ではあるんだけどね」

「ああ、困った奴だよな。
本当は私を裏切った律と、律を誑かした男を八つ裂きにしてやりたいよ。
やる訳にはいかないけど、さ」

 澪の静かな声には、怒りと狂気が篭っていた。
真実その願望を抱いている、けれど必死に抑えている。
その胸中が伝わってきた。

「その事なんだけどね。りっちゃんは、裏切っていないわ。
荒唐無稽な話に思えるかもしれないけど、電話を切らないで最後まで聞いて欲しい。
りっちゃんが宿している子は、澪ちゃんの子で間違いないと思うの」

「おいおい、ムギまで何だよ……。そりゃ私だって律を信じたいけど。
でもそれが有り得ないって、分かりきった事だろ?」

 澪の声は怒りから一転、呆れたような調子を帯びていた。
女性同士の妊娠が可能か否か、問うた時の反応を彷彿とさせる。
あれは確か、トントゥが現れた次の日だったと。
紬には能天気だったあの頃が懐かしく思えた。

「ええ、有り得なかったの。
私だって、自分が噛んでいなかったら、きっと信じきる事はできなかったと思う。
でもね、私が絡んだ結果、女性同士でも妊娠できる世界になってしまった。
だから分かる、あれは、澪ちゃんの子だと」

 女性同士で妊娠が可能な事と、律の孕む子が澪との結果である事。
厳密な論理だけで言えば、前者から後者は導き出せない。
単に可能性が生まれるだけだ。
ただ、女性同士では妊娠ができないという前提さえ崩れれば、
紬には律の言う事を疑う動機など皆無だった。
律と澪の強い絆は、紬とて分かっている。

「ムギが絡んでる?
琴吹グループでそんな薬が開発された、とか言い出すんじゃないだろうな?
そんな架空の物語の設定にありがちな話、現実に信じると思うのか?
律が浮気した、どうあってもこの事実は揺らがないよ」

 ただ、当の澪は律を信じていなかった。
妊娠は男女間の性交が必要になるという科学は、それ程までに強く一般に信仰されている。

「んーん、違うの、人力じゃないの。魔法みたいなものなの。
ある夜にね、トントゥっていうフィンランドの精霊が現れて、
願い事を一つ叶えてくれるって言うから、女性同士でも妊娠できる世界をお願いしたの。
その結果が、りっちゃんの妊娠よ。ごめんなさ」

「更に荒唐無稽になってるよっ」

 割り込んできた澪の叫び声によって、紬の言葉は遮られた。

「あのな、ムギ。そんな冗談で笑える心境じゃないんだ。
頼むから、空気を読んでくれ。私の心にも配慮してくれ。
今の私に、これ以上無茶な話に付き合う余裕はないんだよ」

 無理もない反応だと、言った紬本人でさえ思う。
それでも律に澪の理解を届けてやりたい、その思いに急かされるように口を動かす。

「ええ、確かに信じ難い話だとは思うわ。
でもね、私の話を信じるかはともかく、りっちゃんに対してはどう思う?
りっちゃんが嘘を言っているように見えるかしら?
私には、あの辛そうな顔や声が、嘘を言っているようには見えないの。
私よりも付き合いが長くて深い澪ちゃんには、釈迦に説法かもしれないけど」

「ああ、嘘を言っているようには見えないな。だからこそ、だからこそだよ。
律は本当に妊娠してるって、それがひしひしと伝わってくるんだよ。
律は、私よりも大切な人を作って、そいつを隠してるんだよ……。
あの悲痛な姿は、そいつを想う一心故の姿なんだよ……」

 律の真摯さと自身の常識を重ねあわせて、澪なりに合理化した解釈なのだろう。
紬はその解釈を崩すべく反駁する。

「隠す必要があるとは思えないわ」

「幾らでも理由なら考えられるさ。
相手も高校生で退学にさせたくないとか。
或いは既婚者相手の不倫で、相手の家庭に不和を齎したくない。
もしかしたら社会的な地位のある相手で、
女子高生相手の性交が途轍もないスキャンダルになるとかかもしれない。
何れにせよ、相手の男は逃げてるんだ。
逃げていないのなら、自ずと相手は明らかになるはずなんだ。
律は私を犠牲にして、逃げた相手を庇ってるんだよ……」

 澪が列挙したように、隠す理由など幾らでも想像できる。
そして澪が挙げたどれもが、現実的に考えられるものだ。
それでも紬は、澪の考えの穴を探して足掻く。

「でもそれなら、澪ちゃんを巻き込む理由がない。
澪ちゃんの子だなんて、言うかしら?」

「その理由だってあるよ。律は暗に、私に味方に付くように言ってるんだよ。
これは私と律との間の子供、それを強引に通させる事で、相手の男を隠すつもりなんだ。
勿論、当事者同士が認めても、周囲は認めず妄言だと思うだろうさ。
でも一人で狂言を喚くより、二人で狂人を装った方が周囲は諦めやすい。
そういう目論見があるんだよ」

 そこまで言った澪の声が、不意に虚ろなものへと転じた。
それはもう紬に説明しているのではなく、独り言を呟いているようにしか聞こえない。

「酷いよな……私を裏切っておいて、私に加担させようとしているんだから。
私から律を奪った男を庇う為、私を利用しようとしてるんだから。
許せないよ……律も相手も、あの胎児も……。
どうして私にそんな残酷な仕打ちを強いるんだよ……律ぅ……」

 容赦のない想像に苛まれる澪の姿が脳裏に浮かび、紬は胸が軋む思いだった。
言動から律の意図を推測して、澪はその結論に辿り着いたのだろう。
確かに尤もらしい推理だが、澪にとって残酷な結論だった。
自然、紬は慰めるように言う。

「考え過ぎよ、澪ちゃん。
りっちゃんはそんな人じゃないわ。
澪ちゃんの事を愛しているし、浮気だってしていないわ。
……悪いのは、私なの。私があんな事を願ったせいで、こんな事になってしまっているの。
ごめんなさい、私、こんな事になるなんて思いもしなくて……」

 先程遮られた謝罪の言葉も併せて言った。
対して澪は、暫く言葉を返してこなかった。
紬が不審を感じた頃、漸く澪が口を開いた。
その声は低く暗い。

「なぁ、ムギ。どうしてお前は荒唐無稽な話を捏造してまで、律を庇うんだ?
律の有り得ない話にも加勢するんだ?
もしかして、お前」

 澪の声に凄みが篭り、紬へと迫ってきた。

「知ってるんじゃ、ないだろうな?
律の相手、昨日聞いているんじゃないだろうな?
それで律の目論見に加担する為に、ふざけた話をでっち上げてるんじゃないだろうな?」

「りっちゃんは、そんな企みなんてしていないわ。
澪ちゃんを利用するなんて、りっちゃんにできる訳がない」

 紬は悲しみを抱きながら答えた。親友から疑われた事が悲しかった。
紬以上に澪と深い関係を持つ律は、更に深い悲しみを味わっていただろう。
そう思うと、律が堪らなく不憫だった。

「私もそう思っていたよ。裏切られたけどな。
なぁ、知ってるなら答えてくれ、律の浮気相手を。
お前も知っていて律が庇いたがる相手って、もしかして弟の聡か?
近親相姦なら、律が悟られたくない理由になる」

 あまりの推量に、紬は言葉を返せなかった。
澪は律の近親にまで、疑いの目を向けてしまっている。
崩壊寸前の澪の心が分かって、憐憫と恐怖の情が紬の胸に湧く。

「いや……或いは。それなりの地位があって既婚者で、紬も庇いたくなる相手って。
もしかして、お前の父親か?それなら、律がお前に話した事も納得が」

「ふざけないでっ。そんな訳ないでしょうっ」

 反射的に紬は叫んでしまっていた。
一瞬のうちに沸き立った怒気と反発を、抑える事ができなかったのだ。
それでも紬はすぐに冷静さを取り戻し、自分を顧みながら謝る。

「ごめんなさい、怒鳴ってしまって」

 元はと言えば、自分が悪いのだ。
それなのに澪を怒鳴るなど言語道断だと、紬は深く反省した。

「いや……私が悪い、言い過ぎたよ。今のはあんまりだったよな、ごめん」

 紬の一喝で澪も冷静さを取り戻したのか、
自身の言葉を恥じ入るように謝ってきた。

「いえ、私が悪いの。澪ちゃんは本来、何も悪い事なんてしてないんだから」

 にも関わらず、澪に謝られる事は恐縮だった。

「どうだろうな。私がもっと律の事を良く見ていれば、
こんな愚行に走る前に止められたかもしれない。
それに……浮気される側にだって、原因はあるのかもしれないし」

「澪ちゃん……お願いだから、自分を責めないで」

 非の無い澪が自責を感じる事に、紬は言いようのない遣り切れなさを覚えた。

「別に自分を責めてる訳じゃないよ。
それはそうとムギ、そろそろ電話、切るな。
どうも疲れてるみたいだし、少し休みたいんだ。
本当はあんな事、言うつもりじゃなかったのに。どうしちゃったんだろうな、私。悪かった」

 紬の父に対する失言を指しているのだろう。
紬の方こそ、その後に怒鳴った事を恥じている。

「いえ、私の方こそ、ごめんなさい。
それに誰だって、前後不覚になる事はあるわ。
今回は事が事だから、尚更ね。
お休み、澪ちゃん。また明日」

「ああ、お休み」

 澪と通話を終了した紬は、深い溜息を吐いた。
結局、トントゥの話は信じてもらえず、目的を果たせなかった。
勿論、物証さえあれば、トントゥを見せさえすれば信じてもらえるだろう。
だが宿っているティーカップは、既に捨ててしまっている。
とうに清掃業者に回収され、その行方を追跡するなど不可能だった。
そもそもティーカップがあっても、トントゥが姿を現すとは限らない。

──否
それ以前の問題だと、紬はトントゥの伝承を思い出して震えた。
トントゥは宿っている物を粗末に扱われれば、出て行ってしまう性質がある。
そうしてその後に、災厄を齎すのだ。
今の惨状が、その災厄なのだろうか。

「だったらっ、私一人を苦しめればいいじゃないっ。
捨てたのは私よっ、私なのよっ?
なのにどうして、澪ちゃんやりっちゃんが、ああまで苦しまなければならないのっ?
やるなら、私に災厄を降らせてぇっ」

 もう此処には居ないトントゥへと向けて、半狂乱に紬は叫ぶ。
口では不条理を訴えながらも、心では察しが付いていた。
紬の願い事と結び付けて、間接的に災厄を齎したのだと。
それに紬はトントゥそのものを迫害したのではない。
宿っている器を粗末に捨てたのだ。
だからこそ、紬の居場所に災厄を齎している。
その一つがHTTであり、やがては世界そのものなのだ。

「どうすれば、いいのよ……」

 紬は力無く呟いた。
澪との電話では目的を果たせずとも、彼女の危うい心理状態がひしひしと伝わってきた。
破綻しかけた精神を崩壊寸前の自制心で留めている、そんな印象を受けた。
時間はあまり残されていない、だがどうすれば良いのか分からなかった。


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