澪の表情には、またも怒りが滲み出ていた。
穏やかな表情を繕う事など、初めから困難だったのだろう。
それは昨日に見た澪の剣幕を思い出せば、容易に推せる事だった。
そもそも、許す方向へと思考を転換した事だけでも、
相当な葛藤を一夜のうちに経たはずである。

「やだっ、絶対に産むもんっ。澪の子だもん。
中絶なんて、絶対にしないからっ」

 律は叫ぶように言うと、澪を真正面から見据えた。
澪は最早表情を繕う事はせず、律を憤怒の形相で睥睨している。

「あの、律先輩。声、抑えて下さいよ。
もし、誰かに聞かれたら……」

 二人が睨み合う中、梓が遠慮がちな声で言葉を挟んだ。
律は気付いたように目を落とすと、「ごめん」と一言だけ呟いた。

「それに、澪先輩の言う事、尤もだと思いますよ。
今ならまだ、間に合います。
学校には適当な理由付けて休んで、その間に……その、お腹の手術すれば……。
学校には、バレなくて済むかもしれません」

 律が大人しくなった機に、梓が畳み掛けるように言った。

「梓まで、何言ってるんだよぉ……」

 律の口から、涙交じりの声が漏れた。
それでも、梓が言葉を撤回する事は無かった。
それどころか、更に言葉を募らせている。

「律先輩の為ですよ。学校にバレたりしたら、
最悪……退学だって有り得るんですよ?
大体、育てる資力も能力も無いのに産んだら、生まれてくる子だって可哀想ですよ」

「資力は何とかするもん。
能力だって、どんなベテランの母親だって、
初めて産んだ時は初心者だったんだ。
母親って、赤ちゃんと一緒に成長していくものだって、育児誌にも書いてあったし」

 もう律は、育児誌も読み始めているらしい。
本当に出産する気でいるという事が、紬にも伝わってきた。

「確かに、りっちゃんの言う事は、正しい面もあると思うよ。
でもね、退学になる可能性については、ちゃんと考えたの?
今後のキャリアや将来設計に重大な影響が及ぶって事、ちゃんと考えたの?」

 律を諭す唯の意外な言葉に、紬は驚いた。
唯は本来、キャリアや将来といったものへの関心が、最も薄い者だったはずだ。
普段は興味がないよう装って、実際には考えていたのだろうか。

 否、と紬はすぐに認識と視点を改めた。
唯の言葉の意外性は、律に訪れている状況の深刻さを表しているのだ、と。
唯という刹那的な快楽主義者でさえ、キャリアや将来設計という言葉を口にしてしまう程に。

「何だよ、何だよ、皆して。
資力だの、キャリアだのって、要はお金とか地位とかじゃん。
それが不要とは言わないけど、人生それだけじゃないし。
愛情こそが私の人生のメインだもん。だから、好きな人の赤ちゃんは絶対に産むから」

 尚も抗う律に、澪が苛立ったように声を荒げて迫る。

「いい加減にしろ。浮気した分際で、愛がメインだなんてふざけてるのか?
色欲がメインじゃないか、説得力が無いんだよ。
大体、相手の男とはどうなってるんだ?
有り得ない事を言うばかりで、話に全く出てこない。逃げられたのか?
愛がメインだと言うのなら、そんなヤリモクの男は捨てて、
腹からもそんな男の種は堕ろして、私の所に帰ってこい。
それが金や地位に勝る純愛だ」

「馬鹿澪っ。逃げてるのは、澪の方じゃん。
澪の方こそ、私の事、信じてよ」

 律の声が震えを帯び、瞳にも薄っすらと涙が滲んだ。

「誰が馬鹿だっ、馬鹿は男に弄ばれたお前の方だろっ」

 澪は怒気露わに叫ぶと、拳を握り締めて律へと振りかざした。
律の身体が怯えたように縮こまり、唯と梓の顔にも緊張が走る。

「駄目よ、落ち着いて、ね?澪ちゃん」

 危険だと咄嗟に判断した紬は、素早く澪の手を掴んで言った。
到底、見過ごす事などできなかった。
これは律と澪が以前見せていたスキンシップではない、怒りに任せた暴力だ。

「律、お前、分かってるのか?
もし、妊娠が学校にバレたら、梓が言ったように最悪退学だって有り得るんだぞ?
いや、不純異性交遊なんだから、出産すると言うなら多分、退学だ。
純愛だったり、反省して堕ろすというなら、まだ温情が期待できたかもしれない。
でももう、純愛じゃないのは明白だ。堕ろすしか無いんだよ」

 紬に手を掴まれたまま、振り解こうともせずに澪は言った。
もしかしたら、暴力に走りそうな自分を止めて欲しいのかもしれない。

「純愛だよ……澪も、純愛でしょ?」

 澪へと問い掛ける律の声は縋るようだった。

「私に言わせれば、浮気に純愛なんてない。
それに、学校から見ても、だ。
相手の男さえ明らかにできないような妊娠を、純愛だと認めるとでも思うのか?
不埒で不純で、淫らな性欲に身を任せて避妊を怠ったとしか思わない」

 澪の言葉は冷徹ながらも、尤もな言説だと紬とて思う。
相手を隠す妊娠など、不純異性交遊の結果としか学校には見えないだろう。
ただ、紬には律の言う事が真実だと分かっていた。
分かっているからこそ、律が不憫だった。

「ひ、酷いよ、澪。私、澪としかしてないのに、淫らなんて……。
私、本当に男なんて居ないのに」

 律の瞳に溢れる涙は、今にも零れそうだった。
信じてもらえない悲しみや悔しさが、紬にも伝わってくる。
ただ、澪には伝わらないだろう。

「そこまでその男を庇うのか?それは、まだ浮気が継続中だって事だ。
既に捨てられてたとしても、浮気である事に変わりはない。
まだその男を強く想っているって事だからな。全く反省してない。
私の下に帰ってこないなら、絶対に許せない。絶対にだ」

 澪の腕に力が篭り、紬の拘束を解こうと動いた。
だが、澪が紬の拘束を脱するよりも早く、律が動いた。

「馬鹿澪っ、もういいしっ。
私、一人でも頑張るっ。澪の無責任っ」

 律は涙を溢れさせながら叫ぶと、背を翻して部室を飛び出していった。
無責任という言葉が刺さって、紬は咄嗟に後を追った。

「待って、りっちゃんっ」

 それでも部室を出る直前で足を一旦止め、澪を振り返って言う。

「ごめんね、澪ちゃん」

 自分の願い事が原因で、澪と律を苦しめている。
その事に対する謝罪だった。
事情を知らない澪には通じないだろうが、謝らずにはいられなかった。
尤も澪は、腕を掴まれた事に対する謝罪だと思ったらしい。
掴まれていた腕を振って、答えていた。

「いいよ、そんなに痛くなかったし。
それより、律を頼むな」

 紬から解放されても、澪は律を追おうとはしなかった。
自分が追いかけても、冷静に向き合えないと自覚しているのかもしれない。
それが澪に残された最後の自制心のように、紬には思えた。

「ええ、分かったわ」

 紬は請け負うと、再び駆け出した。
律を心配して追いながら、澪の自制心がいつまで保つかも不安視していた。
.
 校門を出てから程無くして、紬は律に追い付いた。
既に律は走っていなかった。
時折嗚咽を漏らしながら、たどたどしい足取りで俯き気味に歩いている。
紬は横に並びながら、声を掛けた。

「りっちゃん、大丈夫?」

「えっ、ムギ……」

 急に声を掛けられて律は驚いたようだったが、紬の顔を確認すると安堵が広がった。
唯や梓と違い、紬は先程澪に加勢していない。
逆に、殴る素振りを見せた澪から、律を庇ってさえいる。
律にとって紬は唯一、安心して話せる相手なのだろう。

「酷いよね。澪も、梓も、唯も」

 実際、律は紬に同意を求めるように、澪達を批判してきた。

「皆、りっちゃんの事が心配なのよ」

 紬は非難された彼女達を庇った。

「唯と梓はムギの言う通りかもしれないけど……。
でも、澪は違うもん。
私が妊娠したと知って、堕ろさせようとして。
澪の方こそ、ヤリ目じゃんか。あんな無責任な奴だとは思わなかったよ」

 律は吐き捨てるように言った。

「あの、りっちゃん。場所、変えない?
そういう話は、ここではしない方がいいと思うの」

 紬と律は、まだ学校の近くに居るのだ。
通学路という事もあって、帰宅途中の生徒の姿も散見されている。

「いーや、ここでいいよ。よく考えたら、隠す必要なんてないんだし」

 律の顔には、暗い影が浮かんでいた。
思いつめたようなその表情に、紬は不安を感じて問い掛ける。
自棄になっていないだろうか、と。

「りっちゃん……?でも、学校とかに知られたら、問題よ?」

「ていうかさ、どうせ学校にはバレるよ。
だって私、産むもん。隠しようがないし」

「でもそれじゃ……最悪、学校に居られなくなっちゃうわ」

 律の居ない学校生活など、想像もしたくなかった。

「ん、構わないよ。この子が居るから」

 紬の思いとは裏腹に、律は自分の腹部を擦りながら答えてきた。
自分達の悲しみも知って欲しいと、紬はそれを言葉にして伝える。

「私達が悲しいわ。澪ちゃんだって、りっちゃんが居なくなったら悲しむはずよ」

「何さ、澪なんて。無責任のヤリ目じゃんか。
悲しむだなんて、するかどうか」

 律の頬が拗ねたように膨らむ。

「それは違うわ、常識とあまりにも掛け離れた現象だから、信じられないだけよ。
きっと、近いうちに、澪ちゃんも真実だと気付くと思うから」

 言いながら紬は、暗い気分に陥っていった。
そのうち、各地で身に覚えのない妊娠をする同性愛者が増え、
それが基に常識は覆されていくだろう。
だがそこに至る過程では、不信故の諍いや望まぬ妊娠が多々生じてしまう。
自分の浅はかな願い事が原因だと思うと、その重さに押し潰されてしまいそうだった。

「じゃあムギは……ムギは私の言う事、信じてくれてるの?
私が澪以外としてないって事、信じてくれてるの?
このお腹の子が、澪の子だって事、信じてくれる?」

 律の瞳が不安に揺れた。
この原因を招来した者としての責任感が、否が応でも高まって口を衝く。

「勿論、信じるわ。だから、その話は別の場所でしましょう?
私のお家なんて、どうかしら?大した持て成しはできないけれど。
ここでは澪ちゃんにも迷惑が掛かるわ」

「澪に迷惑は掛からないよ。
どうせ皆、女の子同士の妊娠なんて有り得ないって思うだろうから」

 紬は驚いて律の顔を見つめた。
それを常識として認識しているのなら、どうして律は自分の妊娠を受け止められるのだろうか。

「でも……りっちゃんは……」

 妊娠という言葉を躊躇って紬が言い淀んでいると、
律が察したように言葉を放ってきた。

「私の場合はさ、澪としかしてないって、分かってるから。自分の事なんだし。
だからこれは、澪の子でしか有り得ないんだ。
きっとね、神様か何かが、私に授けてくれた奇跡なんだよ。
澪の子を産みたいっていう私の願いを聞き届けてくれたんだよ」

 実際には、神ではなくトントゥだった。
そして律の願いを聞いたのではなく、紬の願いを叶えた結果である。
紬が暗い顔で黙していると、律は続けて言った。

「だからさ、この奇跡を逃したら、きっともう、澪の子は授かれないし。
奇跡が二度も起こるはず、ないからさ。
いや、無下に扱ったりしたら、逆に罰が当たりそう。
んーん、そういう事情を抜きにしても……。澪の子、堕胎なんてできないよ」

 律が出産に意固地になっている理由が、紬にも分かった。
澪の子を堕胎したくない、という思いだけではない。
律はこの懐胎を、奇跡だと捉えている。二度と訪れない奇跡だと。
律にしてみれば、この僥倖を絶対に逃したくはないのだろう。
出産を思い留まらせる事が、紬にはますます困難に思えてくる。

「でも……相手の澪ちゃんが、それを望んでいないのなら。
澪ちゃんだって親になるのなら、準備が必要なはずよ。
パートナーの意思を、無視する訳にはいかないと思うの」

 紬は縋るように澪の名を口にした。
律にとって澪は、依然最も強い影響力を持っている。

「うん……私だって子供を山車に、澪の将来設計を拘束するつもりはないよ。
澪にとっては計画外で常識外の妊娠だったんだし、育児なんて期待してない。
私だって、以前までは女の子同士の妊娠なんて、有り得ないって思ってたくらいだからさ。
だから、これは私の我儘。この子は私一人で育てるよ。えぐっ」

 不意に、律の言葉に嗚咽が混じる。
それとともに、瞳から大粒の涙が滴り落ちた。

「澪にはただ……認めて欲しかっただけで……。
少しでいいから、愛してあげて欲しかっただけで。
それで不安な私を、励まして欲しかったんだよぉ……」

「りっちゃん……帰ろう?家まで、送るわ」

 泣きじゃくる律の背を撫でてやると、小さな痩せた身体から震えが伝わってきた。
せめて澪に認められない孤独から救ってやりたいと思った。

 澪にトントゥの件を話そうと、紬は決意した。
そうして、律が宿している胎児は澪の子だと伝えたかった。
信じてもらえるかは分からない。
だが、不安に拉がれて泣く律を見ては、話さずには居られなかった。


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