再び澪が激しないように言うと、紬は律に向き直った。
律の顔も声も、嘘を言っているようには見えない。
病院の検査で陽性ならば、想像妊娠のケースも考え難い。
だが、女性同士で妊娠できない事は、事実なのだ。

「ねぇ、りっちゃん。その事、親にもまだ言ってないって言ってたけど。
でも、りっちゃんは未成年なんだから、
病院の先生から御両親に連絡しなかったの?」

「病院っていうか、クリニックだけど」

 紬にはどうでもいいと思える事を訂正してから、律は続けた。

「連絡はしたがってたよ。
でも、皆に……特に澪に先に伝えたかったから、自分で言うって言っておいた。
そうしたら、納得してくれたみたい。
絶対に親に伝えるようにって、しつこく念を押されたけどね」

 その時の様子が、紬には目に浮かぶようだった。
親に妊娠を知られたくない女子高生を前に、対処に惑う医師の姿が脳裏に過ぎる。
紬はその映像を頭から振り払うと、律への質問を続けた。

「それはそうと、りっちゃんは妊娠の可能性を考えてたの?
妊娠の検査をしたっていう事は、妊娠するような心当たりがあったの?」

 律は首を振った。

「んーん。そもそも、私の方から妊娠の検査なんて頼んでないし。
向こうからやってきたんだよ。
どうも私の症状から推測しての検査だったらしいよ」

「症状から妊娠の検査に結び付いたって事は、りっちゃんが行ったのは産婦人科なの?」

 今度は、律の首が縦に揺れた。

「うん。正確には、泌尿器科と産婦人科を持ってるクリニックだけど。
もともと、生理不順でクリニックには行こうとは思ってたし。
私の体調が崩れてたのも、そういう器官に原因があるのかなって思ってたし」

 泌尿器科と産婦人科の組み合わせは、
女性専用の医療クリニックとしてよくある形態だった。
デリケートな症状を抱えた律が向かう先としては、納得できる。

「その検査の前に、男性経験とか訊かれなかった?
それには、ノーと答えたの?」

 再び、律の首が縦に動いた。

「うん、訊かれたよ。女の子としかしてないって、正直に答えたよ。
それでも検査はされたけどね」

「本当に、そう答えたのか?
本当に男性経験がないって答えたのなら、そもそも検査なんてしないはずだけどな」

 澪が疑う様な口振りで、割って入って来た。
だが、その時の産婦人科医の胸中が、紬には何となく理解できた。
妊娠を疑って産婦人科に来たが、土壇場で怖くなってしまった女子高生。
そこで男性経験を誤魔化す事で逃げようとした。
そう産婦人科医は思い、妊娠検査を行ったのだろう。

 勿論それは、律の言が真実だという前提が必要となる。
ただ、紬には律の真摯な態度が、嘘を言っているようには見えない。

「まぁまぁ、澪ちゃん。
ここは一日、様子を見てもいいんじゃないかしら。
お互い、冷静になる冷却期間が必要だと思うの。
りっちゃんも、ちゃんと御両親には言わなきゃ駄目よ?」

「はぁ、分かったよ。このまま話を続けても、拗れるだけだしな」

 澪は疲れたように言うと、椅子へと腰を落とした。
続いて律も首肯で紬への同意を示すと、目を伏せながら言った。

「うん、ちゃんと親にも言うよ。
今日のところはムギの言う通り、これ以上はこの話を続けない方が良さそうだね。
今日は急の事だから動転してるだけで、
明日になれば澪も冷静に話を聞いてくれるかもしれないし」

 澪の睥睨が、律を射竦めた。
また怒声が飛び出るかもしれないと紬は警戒したが、澪は黙って睨み続けるだけだった。
それでも、律に対する威圧としては十分だったようだ。
律は気圧されるように後ずさると、背を翻しながら言う。

「あー、今日のところは、もう帰るね。
部活、って気分じゃないし」

 それは紬とて同様だった。澪には聞くまでも無いだろう。
唯や梓も同様らしく、抗議の声は上がらなかった。



 律が部室を去った後で、梓が声を潜めて言う。

「どう、思います?妊娠、本当だと思いますか?」

「うーん、あずにゃんは、どう思うの?」

「……嘘を言ってるようには、見えませんでした」

 唯に問い返された梓は、紬と同様の感想で応じていた。

「でも……女の子同士じゃ、妊娠なんてできないよ?」

 唯の言っている事は正しい。
梓もそれを理解しているのか、反論はしなかった。
紬も理解していた。
理解しているからこそ、あの日の夜、トントゥに女性同士でも妊娠できる世界を願ったのだ。

 トントゥに思い至った紬は、思わず息を呑んだ。
そうだ、自分には女性同士でも妊娠できる事に、心当たりがあるのだ、と。
だが、その願いは叶っていなかったはずだ。
──本当に叶っていないのだろうか?
紬は何か、重大な思い違いをしている気がした。

 誰も言葉を発しない重苦しい空気が続いた後で、澪が呟くように言った。

「つまり、どちらかが嘘なんだろ?
妊娠か、貞潔かの、な」

「本当の話に嘘が混じる、それって話全部が真実らしく見えちゃうからね。
全部ならともかく、一部だけって、気付きづらいし。
詐欺師が良く使うテクでもあるし」

 澪へと同調する唯の言葉に、紬は危うく声を上げそうになった。
すんでの所で堪えたが、胸は激しく早鐘を打っている

「ああ。それでもし、律の妊娠が嘘なら。
吐いていい嘘と吐いてはいけない嘘があるっていうのを、厳しく教え込むよ。
それで、済ませてやる。
でももし、私に対する貞操が嘘だったのなら」

 澪の表情が歪み、声にも凄みが篭った。

「どこまでやってしまうか、私にも分からない。
禁忌を犯さない自信さえない」

 澪に圧倒されるように、部室に再び沈黙が下りた。




 唯達と別れて一人歩く帰り道、紬の脳裏に唯の言葉が蘇る。
紬に思い違いを気付かせた、キーワードが。

──全部ならともかく、一部だけって、気付きづらいし

 願いは叶っていたのだ。ただ、紬の想定と異なり、変化が一部に訪れただけだった。
それが故に、気付く事が遅れてしまった。
不完全な形で叶ったのではない、単に紬の想定が勝手な思い込みだっただけだ。

 紬の願った「女性同士が妊娠できる世界」では、
それが当たり前に受け入れられた世界を想定していた。
目が覚めれば女性同士の妊娠が普通となった、非日常的な世界に変わるのだと。
自分だけが、新しい世界へと行くように。

 だが実際には、単に女性同士の性交で妊娠できるようになっただけで、
人々の意識や社会体制までもが変わった訳では無いのだ。
非日常な世界に変わるのでもなく、行くのでもない。
女性同士の妊娠という非日常が、日常の世界へと持ち込まれただけだった。
非日常がやって来ただけだった。
そう、願いは叶っていた、杓子定規に。

 己の誤算に、紬は唇を噛み締めた。
そこまで想定できなかった事が恨めしかった。
半信半疑のまま軽い気持ちで願った事を悔いていた。

 止まない悔恨を抱えたまま、紬は帰路を歩く。
明日以降への不安も、その胸に併せ抱いて。

*

 次の日の休み時間、律が不満げに愚痴を零してきた。

「ねー、聞いてよー、ムギー。私が家に帰った時には、親ももう知っててさ。
あの先生、何で電話するかな。
ちゃんと、私から言うって言ったのに」

 クリニックの担当医が律の家に電話をして、親に律の妊娠を伝えたと言う事らしい。
律は不服そうだが、紬には納得できる行動だった。
妊婦は未成年であり、しかも高校生なのだ。
律の意に反して親に連絡したとしても、責める気になれない。

「仕方ないわよ。事が事だもの」

 自然、紬は律の担当医を擁護するような口調になる。

「そうは言うけどさー、お蔭で親に怒られまくっちゃったよ。
後で気付けば、私が部活やってる間の着歴は、親からの電話で埋められてたしさー。
もうちょっと、皆私を信用して欲しいよ」

 それは担当医や親だけに向けた言葉ではないだろう。
紬には律が”皆”という語に、澪も含めているような気がしていた。

「それで、御両親は何と?」

「猛反対。酷いよね、命を何だと思ってるんだって感じ。
でもいいもん、澪さえ居れば、私は頑張れるし。
昨日は衝撃的だったのか、あんな感じだったけど。
でも一日置いて冷静になってるだろうから、きっと自覚してくれる……って信じたいよ」

 紬は今朝、一人で登校してきた澪を思い出しながら言う。

「そう言えば今朝は、りっちゃん、一人で登校したみたいだけど……。
澪ちゃんとはまだ、その事を話してはいないの?」

 律は頬を膨らませ、斜め下に顔を向けた。

「澪ったら、酷いんだよ。先に勝手に行っちゃって。
私は澪の事、信じたいのに。
そういう態度取られると、信じたい気持ちがあっても、どんどん不安になっちゃうよ」

 まだ、澪とは会話を交わしていないらしかった。
確かに今日の澪は、朝からずっと律を避けるように過ごしていた。
それでも時折律に向ける視線には、確かな憤怒が込められていた。
今も澪は教室に居ない。
それも律を避ける行動の一環であるかのように、紬には映った。

──教室。
澪の不在を確かめた時、紬はここが教室である事を思い出した。
それと同時に、澪の意図にも気付く。

「ねぇ、りっちゃん」

 呼び掛けて律の注意を引くと、紬は大仰に口を固く結んで見せた。
同時に、視線を左右へと激しく振った。
律は紬の言いたい事に、気付いてくれたらしい。

「ああ、そっか。話は後にしようか。紅茶でも飲みながら、ね」

 周囲の耳がある場所で、妊娠の話をすることは危険だった。
いつかは露見する事だが、律の家庭から学校に話が通るまでは噂にさえすべきではない。
澪はそれを見越して、律を避けていたのだろう。

「ええ。後で、ね」

 紬は頷いた。
恐らく澪は部活の時に、律と話をするつもりでいる。
部員は全員、律から妊娠の話を聞いていた。
澪にとって、憚らずに話せる場となるのだ。

 仮に澪が律の妊娠の話に触れずとも、律からその話を展開する事だろう。
紅茶でも飲みながら、という律の言葉がそれを示している。

 その方が、紬にとっても安心できた。
他人の居る場では避けるべき話題だが、今の澪と律を二人きりにして話し合わせる事も不安だった。
澪が冷静に構えられるか疑わしい、否、澪が正気を保てるか疑わしかった。
そしてその原因は、自分にあるのだ。
悪いのは律でも澪でもない、自分なのだ。
紬はその重さに目眩すら感じながら、放課後を待った。




 部活が始まり部員が揃うと、早速律が口を開いた。

「ねー、澪ー。昨日の事だけど、信じてくれる気になった?」

 その単刀直入な問い掛けに、早急に話を付けたい律の不安が表れていた。
胎児を宿す律にとって、パートナーである澪の理解は急務なのだ。

 紬は紅茶の用意を諦めて、話の展開を見守る事にした。
ティーカップや熱湯といった凶器を、荒れるであろう話の場に置きたくなかった。
また、危険な結果に結び付くような兆候があれば、即座に介入できる態勢で居たかった。
唯や梓も紬と同じ考えを抱いているらしく、律と澪に注意深い視線を注いでいる。

「どうしても妊娠したと、言い張るんだな?」

 澪の口から低い声が漏れ、瞳の端が吊り上った。

「だって、嘘じゃないし。親も知ってる事だよ?
いずれ学校にも連絡いくと思うから、妊娠はすぐに明らかになると思うよ?」

「……相手は、何処の男だ?
いや、何処の誰であろうと。堕ろせ。早急に、だ」

 澪は不気味な程、落ち着いた声で静かに言った。
その声音とは裏腹に、顔は憤怒に歪んでいる。

「なっ、相手は、澪だよ?
澪の子供、堕ろすなんてできないよ……」

 律の声は、段々と小さくか細くなっていった。

「女同士で、妊娠なんてできる訳が無い。
幼稚な事を言うな」

 澪の声は静かながらも、震えが交じっている。
怒りを無理矢理抑え付けている、その苦心が紬にも伝わってきた。

「でも、事実、澪としかしてないんだから、しょうがないじゃんっ。
何なら、DNA鑑定でもする?それで、結果は明らかになると思うよ」

「その費用を、律は持っているのか?親が出すんだろ?
結果が分かりきっている事に、十数万円もの費用を親が出すと思うのか?
中絶費用だって、親に工面してもらうんだろ?その上更に、そんな費用まで求めるのか?」

 澪の言う事は正論だった。
二十万円は勿論、十万円も大金である。
それを紬は、経験を通してよく承知していた。

 一年生の頃、唯にギターを入手させる為、琴吹系列のショップで値切った事があった。
二十五万円を五万円で購入した事は、当然のように父親の耳にも入った。
結果、紬は厳しく叱責された。
それは金銭の感覚を学び直そうと、紬にアルバイトを決意させた契機でもあった。

「確かに、親だって、澪と同じ考えなんだろうけど……。
でも、澪が信じてくれないんだもん」

 律とて、それが大金であると分からないはずもない。
澪の言葉に、効果的な反論ができずにいる。

 対する澪は表情を穏やかに転じて、諭すように言う。

「安心しろ。いいか、律。私はお前を許すよ。
本当は浮気だなんて、許せるはずもない。
お前を刺し殺して私も死にたいくらいだ。
でも、律の事が好きだから……許してあげたいんだ」

「だから、浮気なんて、してないって」

 律の抗議を無視して、澪は続けた。

「多分律だって、赤ちゃん欲しさにヤっちゃったんだろ?
その幸せを叶えてやれない私だって悪いんだ。だから、許すよ。
ただし、ケジメは付けろ。その子は堕ろせ。
男とも縁を切れ」

「男なんて居ないよっ。どうして、どうして信じてくれないの?
私、出産は初めてで、不安なのに。
パートナーの澪に、励ましてもらいたいのに。
どうして、堕ろせなんて言うの?
この子の事、認めてよ。愛してあげてよぉ……」

 律の口から、悲痛な声が漏れ出た。

「他のヤツと浮気してできた子なんて、愛せる訳も無いだろ。
今ならまだ間に合う。頼むから堕ろせ。
それで、無かった事にしてやる。無かった事にしてやれる」


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