*

 紬達の部活には、頻繁にティータイムが入る。
そのティータイムを迎えると早速、紬はバッグから左利き専用のティーカップを取り出した。
トントゥが宿っている事は夢だったとしても、
ティーカップ自体にはまだ有用な使い道がある。
左利きの澪に是非とも、使い心地を試してもらいたかった。

 紬は左利き専用のティーカップを水洗いして充分に拭くと、
他のティーカップとともにテーブルに並べた。
勿論、左利き専用のティーカップは澪の手前に配した。

 模様も形状も違うティーカップが一つだけ配られた事に、
澪は訝しげに眉を顰めた。
だが、このティーカップの説明を受ければ、
澪の表情は一転して喜びに満ちるだろうと。
紬はその時を楽しみにして、紅茶を五つのティーカップに注いだ。

「待ってましたー。この時を楽しみに、部活に来てるんだよねー」

 注ぎ終わったティーカップに早速口を付け、唯が嬉しそうな顔を浮かべた。

「唯先輩、部活の本分は練習ですからね」

 窘めつつも、紅茶を飲む梓の顔は満悦が走っている。
二人の反応に紬は満足したが、一番反応が気になる相手は澪だった。
紬は澪に向けて、紅茶を飲むように促す。

「ねぇ、澪ちゃん。澪ちゃんも、早速飲んでみて?
紅茶は他の人と同じだけれど、そのティーカップ、面白いコンセプトがあるの。
あ、取っ手は左手で掴んでね」

 今まで紅茶を飲む時、澪が左右どちらの手を使っていたか。
そこまで紬は観察していなかった。

「コンセプト?確かに、私だけ皆のとは違うけど」

 澪は言われた通りに左手で取っ手を掴み、紅茶を口に含んだ。
そして喉が嚥下を示して上下し、澪がティーカップから口を離す。

「どう?」

「どうって……。普通、だけど」

 期待を込める紬に対し、澪の返答は素っ気無かった。

「なぁ、ムギー。澪のティーカップには、どんな意味があるの?」

 律が興味津々といった様子で訊いてきた。

「実はそれ、左利き専用のティーカップなの。
別荘にあったから、使い心地が気になっちゃって。
それで、澪ちゃんに使い心地を試してもらおうと思ったの。
あまり、使い心地良くなかった?」

 紬は律に応えつつ、再度澪へと話を振った。

「んー、そう言われてみれば、若干飲みやすいかも。
ただ……ティーカップって、別に複雑な操作や力が必要な訳じゃないから、
いつものでも別に不便は感じてないんだよな」

 澪はそう言った後で、気付いたように付け加えた。

「あ、ごめんな、ムギ。折角、持って来てもらったのに」

「え?ああ、気にしないで。
気になったってだけだから、試してもらって助かったわ」

 言葉とは裏腹に、紬は胸中でまたも落胆していた。
澪の喜ぶ顔を想像していただけに、その反動は大きい。

「なぁ、澪ー。ちょっと、私にも試させてもらっていい?」

 律が手を伸ばして、取っ手を掴んで持ち上げた。
が、使い心地が良くないのか、ティーカップを口元に傾ける動作は拙かった。

「んー。左利き専用なだけあって、右利きの私には使いづらいな」

 普通に扱えた澪とは違い、律は使いづらさを訴えている。

「面白そー、私にも試させてー」

 続いて唯も試したが、その動きは律同様に拙かった。

「むー、確かに。これ、使いづらいね。
でも、澪ちゃんには、普通に使えるんでしょ?
なら、このまま使っちゃえば?って、ムギちゃんの物だけど」

 唯の視線が、澪と紬の間で交互に揺れる。
その視線を受けて、紬は澪へ向けて問いかけた。

「どうする?私は澪ちゃんが気に入ってくれたのなら、
明日からも澪ちゃんに使い続けてもらうのもいいかなって思ってるけど。
いえ、その方が、有効活用できていいかな。
どうせ、右利きの私には上手く扱えないんだし」

 澪は考え込むように顎に手を当ててから、申し訳なさそうに口を開いた。

「ごめん、ムギの気持ちは有り難いんだけど……。
やっぱり私、皆と同じものがいいかな。
その方が、仲間って感じがして。
特に、このティータイムって、バンド名になるくらい私達を象徴するものだから、
皆と一緒の方がいいかな」

 考えてみれば、澪の歌詞にはメンバーの連帯を大切に思うものも多かった。
澪は最もHTTの結び付きを重視しているのだ。
ティーカップの使い心地以前の問題だったと、紬は己の浅慮を恥じた。

「そうね、そうよね。分かったわ」

「ホントごめんな、ムギ」

 尚も謝る澪に、紬は手を振って返す。

「いえ、謝らなくていいわ。逆に嬉しいくらいよ。
澪ちゃんが私達との繋がりを、本当に大切に考えてくれてて」

 半ば本心で、半ば残念だった。


 学校から再び持ち帰ったティーカップを眺めて、紬は溜息を吐く。
願い事は叶わず、澪の役も為さない。
期待が二重に裏切られた反動故か、このティーカップが憎らしく思えた。

「要らないわ」

 幾ばくかの怒りとともに、紬は家のゴミ捨て場へと投げ捨てた。
少し自棄になっている自覚はあったが、
このティーカップを見る度に怒りは再来しそうだった。
精神の衛生に対する配慮だと割り切って、紬は部屋へと戻った。

 紬は今夜もまた、机にうつ伏していた。
昨夜とは違い、作曲の合間の仮眠、のつもりだった。
だが、結局睡魔には勝てず、そのまま眠りに落ちてしまった。

 朝起きた時、紬の背にカーディガンは掛かっていなかった。

*

 トントゥの件から、幾週間もの日が月を跨いで流れた。
その頃にはもう、紬はもうトントゥの事など忘れかけていた。
今日も緩々と流れる時間を、大切な部活の仲間とティータイムを通じて共有している。

「ムギー、今日も私のには」

「分かってるわ、レモン、でしょ?」

 律にみなまで言わせる必要もなく、
紬は冷蔵庫からレモンの輪切りが入ったタッパーを取り出した。
律はここ最近レモンティーに嵌ったのか、頻りと紅茶にレモンを入れている。

「またレモンティー?
最近、りっちゃん酸っぱい物ばかり食べたがるねー。
ティータイムのスイーツも、フルーツばかり欲しがるし。おめでた?」

 唯がからかうように口にすると、律が甲高い声で応じた。

「あーら、この子ったら何言ってるのかしら」

 二人のやり取りを眺めながら、ふと紬はずっと忘れていたトントゥを思いだした。
だが、すぐに頭から追い払った。
叶わなかった願いなど、あまり思い出したい事ではない。

「それはそうと……最近、食生活大丈夫か?
食が細くなったんじゃないか?」

 心配するような澪に、梓も続く。

「そうですよ。最近の律先輩、体調を崩す事多くないですか?
頭痛とか腹痛とか、果ては胸痛とか。だるそうな事も多くなりましたし。
一度、病院で見てもらった方がいいんじゃ」

「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。
確かに最近食欲ないけど、寧ろ丁度いいくらいだし。
だってさ、何かお腹、出てきた感じするんだよね。
果糖とか摂り過ぎかなぁ」

 律は愚痴を零した後で、付け加えた。

「ま、近々クリニックに行こうとは思ってるからさ。
体調を崩す事が多いってのも、その時に併せて聞いてみるよ」

「併せて聞くって、りっちゃん、他にも何か具合が悪い事あるの?」

 明るい唯にしては珍しく、不安そうな顔が浮かんでいる。

「大した事じゃないよ。ここんとこ、女の子の日が不順でさ。
病気を疑ってる訳じゃないけど、念の為に行ってみるよ。
って、そんな顔すんなよ。どうせ、ストレスか何か」

 律は唐突に言葉を切ると、口元を手で押さえて机に蹲った。
吐き気を堪えているのだと動作で分かったが、咄嗟の事に紬は動く事まではできなかった。

「り、律っ?」

「りっちゃんっ?」

 叫ぶ澪と唯の声が交差する中、律は拙い動作で腰を浮かせて言う。

「ちょっ、ごめ、お手洗い、っ」

 口元に手を当てたまま、律は腰を屈めて駆け出した。
弾かれたように澪が後を追い、それに連れられるように紬も続いた。
唯や梓も付いてきているらしく、後ろから慌ただしい足音が聞こえてくる。

 律は言葉通りに、手洗いの個室に駆け込んでいった。
その中に澪も入って扉を閉め、すぐに鍵の閉まる音も響いてきた。
この先に入る資格がある者は、確かに澪だけだろう。
紬はその行動に納得して、唯達とともに個室の前で待った。

 程無くして水を流す音が聞こえ、それに嘔吐の音が混ざった。
排尿とは違い、水を流す程度では嘔吐の音までは消せない。
お世辞にも綺麗な音ではないが、紬には個室の中の二人が美しく思えた。
澪は律の吐瀉物を厭わず、律も澪に見せる事を厭っていない。
そこまで互いに見せ合える仲なのだと、不安の中で紬は二人の絆を再確認した。

 律の嘔吐が止むと、もう一度水の流れる音が響いた。
そして扉が開き、中から澪に支えられて律が出てきた。
朗らかな普段の姿とは対照的に、酷く窶れている。

「あー、予定変更。明日にでも、病院行ってくる」

 律は開口一番、そう言った。

「いや、できれば今日の方がいいよ。一緒に付き添おうか?」

 申し出る澪に対して、律は手を振った。

「いや、一人で大丈夫だよ」

 律は拙い足取りで蛇口に向かうと、口を漱ぎ始めた。
重大な病が宣告されなければいいけど、と。
紬は祈るような気持ちだった。


 次の日、午後から律は学校へと姿を見せた。
その表情は明るく、昨日の窶れていた姿が嘘のようだった。

「りっちゃん、大丈夫だったの?」

 気になって紬が問い掛けると、律は首を左右に振った。

「うん、大丈夫、大丈夫。
それよりさ、今日の部活で、重大発表があるんだ」

「こんな調子で、律は私にも病院での事を教えてくれないんだよ。
何か隠してるんじゃないだろうな?」

 澪は口調こそ訝るような調子だが、震える声音には不安が表れている。
紬も不安だった。
あまりにも深刻な病名だからこそ、律は空元気に振る舞っているのではないか、と。

「隠してる事なんて、何もないよ。
まだ発表してない事があるってだけで。部活の時のお楽しみ」

「どうして今、言えないの?」

 内心の不安の表れだろうか。
紬は自然と詰問するような口調になってしまった。

「梓にも聞いてもらいたいからさ。
親にもまだ言ってない、トップシークレットなんだ」

 胸を張る律に、紬はそれ以上の追及を諦めた。
今何を言っても、律ははぐらかすだけだろう。

「ふーん、部活が楽しみだねー」

 唯の純粋な声が、場違いなような気さえした。


 部活の時間になり部員が全員集まると、澪が早速律を促した。

「で?重大発表ってのは、何なんだ?」

 待ってました、と言わんばかりに律が立ち上がった。
だが律が口を開く前に、梓の横槍が入る。

「重大発表?何ですか?それ」

「りっちゃんたらね、午後から学校に来るなり、
今日の部活で重大発表があるって言ったんだよ」

 唯が説明すると、律が後を引き取った。

「そ。皆に聞いて欲しかったからね」

 律は勿体ぶるような間を置いてから、宣告するような語勢で言葉を放った。

「実は私、できちゃいましたー」

 紬は一瞬、律が何を言っているのか理解できなかった。
律の言葉には、主語が欠けている。

「あの、できたって?何が、できたんでしょうか?」

 皆を代表するように、梓が問うた。

「ん、赤ちゃん。唯の言うとおり、おめでただったよ。
私が体調崩してたのって、妊娠の兆候を示してんだろうってさ」

 紬はまたしても、律が何を言っているのか理解できなかった。
それは皆も同じらしく、一様に黙り込んでいる。
その中で一番早く声を取り戻した者は、澪だった。

「冗談はいいから。で、重大発表ってのは、何なんだ?」

「冗談じゃなくて、本当だよ。
まぁ実際には確定じゃなくて、陽性って事だけどさ。
そのうち、確定させる為の検査もあるんじゃないかな」

 尚も言動を撤回しない律に、立ち上がった澪が苛立ちを募らせた声で迫る。

「いい加減にしろ。付いていい嘘と、悪い嘘があるぞ。
浮気しただなんて、冗談でも言うな」

 律は首を傾げたが、すぐに澪の言っている事を理解したらしい。
笑顔を浮かべて、澪に言う。

「あー、大丈夫、大丈夫。
私、澪以外の人とは、してないからさ。
つまりね、これ、澪の子だよ」

 自分の腹部を指差した律に、すかさず澪の怒鳴り声が向かった。

「ふざけるなっ。女同士で、妊娠なんてできるかっ。
もし妊娠が本当なら、お前は私というものがありながら、男に身体を許した事になる。
浮気なんて絶対に、絶対に許さない。
これ以上ふざけた事を言うなら、私に殺される覚悟で言えっ」

「お、落ち着いて、澪ちゃん」

 只ならぬ澪の剣幕に、紬は慌てて宥めにかかった。

「ああ、悪いムギ。ちょっと、興奮し過ぎたみたい。
律の馬鹿な嘘に、何ムキになってるんだろうな」

 澪は溜息を吐くと、気分を落ち着けるように深呼吸した。
だが、その行動を無にするような言葉が、律から放たれた。

「なっ、何でそんな事言うんだよ、澪ー。
だって、事実なんだからしょうがないじゃん。
私だって不安なのに、澪に助けて欲しいのに。重いのは分かるけど、現実受け止めてよ」

「はい、ストップ」


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