唯「ごめんね、澪ちゃん」
時折、私は救いがたい衝動にかられることがある。
今日は忘れられない日となった。
生来、白痴の私は、社会的責任というものを十分に理解できずに、ただ赴くままに行動してしまう節があるけれども。
なぜ、この日は、澪ちゃんのベースを壊したくなっちゃったんだろう?
澪「わ、私のベース……ゆ、ゆい。ゆいー!」
ティータイムの途中、突然席をたって、澪ちゃんのベースをひったくり、ネックを掴んで床にベースを叩きつけた時、
私を襲ったのは、底の見えない暗い虚無感だった。
他の4人も、目を丸く見開いて、唐突な私の反社会的な行動を呆然と眺め、頭を働かせていたのだと思うけれど、
私は、頭の中が真っ白になって、世界がだんだん暗闇に収束していくのを恐怖し、受け入れていたのだ。
澪ちゃんが悲鳴を上げながら、私の元に駆け寄る。
澪「こ、このやろ、どけ、どけぇー!」
澪ちゃんは私を突き飛ばし、ベースを拾い上げ、深く穿たれた傷跡をいたわっている。涙を流している。
私は、口をぽかあんと開けて、その光景を見つめていた。虚無感の後に押し寄せてきたのは、これで全てが終りだという実感と、この居場所を壊してしまった事に対する後悔だった。
せっかくみんなで仲良くなれた。でも、こんな些細な事で、この友情は壊れてしまうのだ。勿体無かったと思った、そしてその事に対して嫌悪を抱いた。
紬「唯ちゃん。澪ちゃんに謝りなさい」
ムギちゃんのこんな厳しい言葉は初めてだった。
唯「ごめんね、澪ちゃん」
私は、とりあえず謝ってみた。
律「おい、唯。顔がにやついているぞ」
梓「あなた、本当に反省しているんですか?なんでこんな事したんですか?」
りっちゃんの顔には、いつものような、おどけた間抜けな調子が消えていた。あずにゃんは、声に怒気をはらませていた。
唯「反省しているよ~で、どうしたら許してくれるの、澪ちゃん」
頭では、この言葉が、火に油を注ぐだけというのはわかっていた。でも、もう引き返せないのだ。
崩れかけた塔の土台を揺らして、私は、それを更地にしないと気が済まないのだ。
ムギちゃんは、無言で私の頬を打った。
聖書の言葉が去来した。
唯「澪ちゃんもぶっていいよ。」
澪ちゃんは、突然、堰を切ったように泣き出した。
澪「し、信じ、信じて、唯のこと、信じて、唯、の、信じて、信じてた」
嗚咽に混じり聞き取りにくかったけれど、どうやら、澪ちゃんは私のことを、信じていたらしかった。
信じていた、ねぇ。過去形ということは、もはや私は信じられる類のものではなくなったんだ。
それでいいんだよ。当たり前だよ、澪ちゃん。しかし、澪ちゃんも人を見る目がないものだ。
そして、こうして達観しているように見え、私も動揺が隠しきれなくなってきた。
客観的に見るならば、私は全身、ずぶ濡れのドブネズミのように震え、指の爪を血が出るまで噛んでいた。
視点は定まらず、震え、歯が寒さでガチガチ音を立ててなってみっともない。
喉はかれ、声はでない。ただ、震え、ムギちゃんに打たれた頬が軋みだした。
律「唯。どうして澪のベースを壊した?説明しろ」
りっちゃんは、そんな弱い私に上からものをいう。
あずにゃんも、それに伴って、私をなじる。人間は、多数派になると、強気になれるらしい。
唯「ああ、あ、あ、あ、あの、私、突然、あはは、ごめんね、あは」
律「ふざけるな、唯!」
梓「唯先輩、見損ないました。」
澪「私の、ベース、ベースが、死んじゃった」
紬「唯ちゃん。これからどうする気?」
明日になったら、仲良くなれるよね?また、ティータイムできるよね?
りっちゃんがおどけて、澪ちゃんが怒って、あずにゃんが顔を赤らめて、ムギちゃんがお茶を入れてくれる。
そんな日常が帰ってくるよね?
いいや、帰ってこないよ。私のある面は、それにうんざりして、澪ちゃんのベースを折ったんだ。
そうか。衝動の裏側には、安定を望む私がいた。でも、その私自身が、あの呪われた行動を引き起こす引き金を引いたんだ。
だから、自業自得なんだ。でも、これを心神喪失として、みんなに謝り、自分を否定して再び元の鞘に戻る道もある。
この呪われた自分を肯定して、到底みんなに許してもらえるとは思えない。だが、自分を否定して、それで得られる友達。
私は、よく問題をすり替えたり、棚上げにしたりしてきた。ここでも、問題の本質をごまかしたのだ。こうして、自己批判を繰り返し、
堂々巡りの地獄に入る。
唯「悪いのは澪ちゃんだ」
頭の外から、この言葉を吐き出した。直後、私の体の震えがやんだ。音楽室の時間が止まったかのように思えた。
紬「澪ちゃんのどこが悪いの、唯ちゃん。」
ムギちゃんが尋ねてきた。当然、私だって、悪いのは私だと思っているから、反論できない。
唯「悪いのはやっぱり澪ちゃんだ。」
でも、こうして、事実に基づかない事を何度も繰り返すことで、それに真実味をもたせる裁判のテクニックがある。
しかし、それは陪審員の心証が良い場合に有効らしいので、今回の場合だと、更に私に対する信頼を失わせるだけだった。
みんな、私から離れていくのを、この沈黙の間に、痛いほど感じる。悲鳴をあげてしまいたい、今すぐみんなに、澪ちゃんに許してもらえれば、
私の魂は救われるのに。
唯「澪ちゃんが悪いんだ!澪ちゃん、部活やめろ!」
とりあえず、私は、この場で、最悪の言葉を吐き出してみた。澪ちゃんが、気を失ったのが見えた。
私はその時、笑ってしまった。救えない、本当に救えない。
律「唯、お前、今日は帰ってくれ。しばらく、音楽室に来ないでくれ。
頭を冷やそう。きっとどうにかしてたんだ。落ち着いて、時間がたったら、また話しあおう。」
突然りっちゃんが優しくなった。てっきり罵られると思っていたけれど。
あずにゃんの顔は、呆れていた。私を見る目が、まるで、他人を見るように冷たくなっていた。
唯「中野さん。今までありがと。」
だから、私はあずにゃんを、中野さんと呼んでみた。すると、あずにゃんの顔から血の気が引いていき、土気色に変わっていく。
あずにゃんはやっぱり優しかった。私は、その優しさを土足で踏みにじった。
あずにゃんも泣き出した。ムギちゃんがあずにゃんをなだめた。
もうおしまいだ。私の頭のネジは、悲鳴をあげだし、よりいっそう、裏側の私の声が大きくなっていく。
唯「死んで詫びるね、澪ちゃん。」
お前のせいだよ、私はお前のせいで死ぬんだよ。
ほら、言ったよ。澪ちゃん。これから、澪ちゃんは、生涯、私の死の片棒を担がなくちゃいけないんだよ。
唯「澪ちゃんのせいで、私は死ぬ。」
呪いの言葉を最後につぶやき、私は、音楽室の窓へかけ出した。
祟ってやった、呪ってやった!澪ちゃんの人生に傷をつけてやった!
何やってるの、私!澪ちゃんは友達なのに。でももう、今更引き返すことなんて出来ない。
ああ、ガラスが、目の前に。私は狂った牛のように、それにぶち当たり、大きな音が鼓膜を破り、青空に飛び出した。
空に浮かぶ太陽から、死者の腕が無数に伸びて、私を捉えて離さぬように感じた。
おしまい。
最終更新:2012年08月05日 00:41