私の名前は若王子いちご。
最近、私はある悩み事を抱えている。その影響なのか、仕事に集中できずにいる。同僚によれば、ぼーっとしているらしい。どうしてこんな思いをしなければならないのだろうか。私の胸の内にはいつも深い霧が立ち込めていた。
ある日、チラシを読み漁っていると、あるチラシが目に留まった。
『秋山探偵事務所』
浮気調査、尾行、ペット捜索、ストーカー被害など、どんな相談も受け付けます!
私は特に“浮気調査”に目を惹かれた。この事務所なら私の胸の霧を晴らしてくれるかもしれない。私は何と無しに服を着替えて寒空の下に飛び出した。
そして、いつの間にか私は事務所の扉の前に立っていた。どうして、ここまでするのか自分でもわからない。中からは何やら声が聞こえてくる。インターフォンは無いようなのでノックするしかない。
コンコン
事務所から聞こえてくる声がピタリと止んだ。そして、磨りガラスの向こうからシルエットが近づいて来る。私は一歩後退した。
ガチャッ
「はい?」
突然、ブロンドヘアーの女性が現れたので私は驚いた。彼女を通して事務所の中を窺うと、紅茶の香りがしてきた。肩にギターをぶら下げている女性までいた。本当にここは秋山探偵事務所なのだろうか?
いちご「ここって秋山探偵事務所ですよね……?」
私は眉を顰めながら尋ねた。すると、黒髪の長髪の女性が立ち上がった。この女性も肩にベースをぶら下げている。
「はい! 秋山探偵事務所です!」
よかった、私は間違っていない。
しかし、楽器をぶら下げながら言われてもどこか滑稽に見える。まるで、バンド教室のようだ。
「中へどうぞ~」
金髪の女性がにこにこしながら私を招き入れた。何がそんなに嬉しいのだろうか。まだ、入って三十秒も経っていないのに早くも帰りたくなってきた。
「それじゃあ、帰りましょうか」
ツインテールの小柄な少女が立ち上がると、一同が立ち上がった。
「え~? 私まだ殆ど飲んで無いんだけど?」
眼鏡をかけた長髪の女性がぶつぶつと文句を言っている。ふくれっ面じゃなければ綺麗な人なのだろう。
「また今度飲めるよ、さわちゃん!」
「そうだぞ、さわちゃん」
「ぶー!」
「それじゃあ、失礼します」
小柄な少女が申し訳無さそうに小さくなって私の側を通り抜けた。その際、一瞬私と目が合った。少女はぺこりと頭を下げて事務所を後にした。続いて、他のメンバーがぞろぞろと退出した。最後尾にいたカチューシャを着けた女性は私をまじまじと見ていた。
「こちらへどうぞ」
黒髪の女性が私をソファーへと誘導した。この人が秋山探偵なのだろうか。同じ女性なら話しやすいのかもしれない。
「お茶どうぞ~」
いちご「どうも……」
目の前に紅茶が差し出された。ありがたい、この事務所は暖房機が稼働していないのか、異常に冷え込んでいた。
もっとも、私は紅茶よりもコーヒーが好きなのだが。
澪「初めまして、探偵の秋山澪です」
唯「その助手の平沢唯と!」
紬「琴吹紬です!」
いちご「はぁ……」
いつもこんな方法で自己紹介しているのだろうか。何だかこちらまで恥ずかしくなってくる。
澪「お名前をお聞かせいただけますか?」
いちご「若王子いちごです」
唯「いちご!?」
いちご「…………」
名前を聞き返されるのは慣れていた。確かに苗字も名前も珍しい。しかし、いちいち構っていては限がない。
澪「今日はどういったご用件で?」
やっと本題に入れる。ここまで随分と時間が掛かった気がした。私は予め考えていた言葉を述べることにした。
いちご「最近、付き合っている彼氏の様子がおかしいんです」
澪「えーっと……それはいつ頃からでしょうか?」
いちご「一ヶ月ぐらい前からです」
澪「一ヶ月前ですか……」
澪は考え込むように顎に手を当てた。その様子が少し探偵のように見えた。
いちご「そこで、尾行を依頼したいんですけど……」
澪「なるほど……」
私の悩み事は彼氏の不審な行動だった。ここ一ヶ月は一緒に出かけていない。私から話を持ち掛けても、何らかの理由でそれを断る。そうして、断られる毎に私は不信感を募らせていた。
澪「わかりました」
いちご「調査期間はどれくらいになりますか?」
澪「そうですね……確実な証拠を得るなら一週間ぐらいは必要だと思います」
いちご「そうですか……」
澪「これが調査費用の目安です」
私は紙を受け取って読んでみた。調査費用はそこらの探偵事務所より少々安い程度だった。少し不安ではあるが、依頼する事にしよう。
いちご「わかりました……」
いちご「浮気調査を依頼します」
澪「ありがとうございます」
澪は丁寧にお辞儀した。
なるほど、この探偵は常識があるようだ。私の中の不安が少し取り除かれた。私は紅茶を一口飲んだ。
澪「それでは、こちらの紙に若王子さんの氏名、生年月日、住所、連絡先を」
澪「それから、こちらの紙に彼氏の氏名、生年月日、住所、特徴などをお書きください」
いちご「はい」
これで悩み事が解決するかもしれない。そう思うと少し気が楽になった。私はボールペンを手に取って、二枚の紙を手元に引き寄せた。
~~~~~
いちご「書きました」
澪「ありがとうございます」
澪「では、一週間後にまた連絡させてもらいます」
いちご「お願いします」
ガチャン
私は事務所を後にした。日は沈み、空は真っ暗になっていた。冬の厳しさを象徴するような冷たい風が吹いている。私は寒さに身を震わせた。
いちご「一週間……」
一週間後、私は何を聞かされるのだろうか。考えれば考えるほど、悪い方へと流されてしまう。
私は間違っているのだろうか、いや間違っていない。
私は自身に強く言い聞かせた。
四日後 いちご自宅
私は休日を一人で過ごしていた。彼氏は今日も用事があるのだろうか。探偵事務所に依頼してからは一度も連絡をとっていない。
私は小説を読んでいた。しかし、どうも文章が頭に入っていない。フィルターが作動していないようだった。
いちご「はぁ……」
思わずため息をついてしまった。今頃、彼はどこで何をしているのだろうか。あの気の弱そうな彼が浮気をするのだろうか。想像もつかない。
ヴーン ヴーン
携帯電話が着信して、バイブレーションが作動した。サブディスプレイには“探偵事務所”と表示されている。確か、依頼期間は一週間だったはずだ。報告にはまだ早い。不審に思いながらも、私は着信ボタンを押した。
いちご「もしもし」
澪『あ、秋山探偵事務所の秋山ですけど』
いちご「どうかしましたか?」
澪『今、仕事中ですか?』
いちご「……いえ、今日は休みですけど」
澪『そうですか。それならお尋ねしたい事があるのですが……』
いちご「…………」
尋ねたい事……? 私には思い当たる節が見当たらない。
いちご「……わかりました」
いちご「今から、そちらに向かいます」
澪『ありがとうございます!』
いちご「はい」
パタン
私は閉じた携帯を見つめながら考え込んだ。あの探偵は私に何を尋ねたいのだろうか。直接会いたいという事は何か重大な事でも発覚したのだろうか。疑問が膨れ上がり、胸の内をどんどん圧迫して行く。
行くと答えたからにはすぐに向かわなければならない。私は立ち上がってすぐに支度を始めた。
外に出ると、相変わらず身に沁みるような寒さだった。その上、空は雲で覆われていて日光が差していなかった。私はマフラーを巻き直して、事務所へと歩き始めた。
秋山探偵事務所
澪「寒い中、わざわざすいません」
紬「温かいお茶入れました~」
いちご「どうも」
なぜここの助手はいつもにこにこと笑っているのだろう。そんなに仕事が楽しいのだろうか。私は仕事が楽しくない。仕事中も悩んでいるからだ。
いちご「尋ねたい事って……」
澪「はい、その事についてなんですが……」
澪「若王子さん……今日、誕生日ですよね?」
いちご「あ……」
いちご「そういえば……」
自分の誕生日のことなど完全に忘れていた。いや、そんなこと考える暇は無かった。
唯「そこで! 今日は事務所を挙げていちごちゃんをお祝いしたいと思います!」
パチッ
突然、事務所の照明が消えて、蝋燭の明かりが灯った。どうやらバースデーケーキのようだ。
唯紬「ハッピーバースデーいちごちゃん!」
いちご「これは……」
澪「お祝いにケーキを用意しました!」
そう言って、三人は満面の笑顔を浮かべて私を見つめた。私は嬉しいのか嬉しくないのかよくわからなかった。取り敢えず、蝋燭の火を消さなければ。
いちご「ふぅーっ」
一瞬で蝋燭の火は消え去った。そして、事務所は暗闇に包まれた。
パチッ
照明が点いて、私は思わず目を細めた。
唯「おめでとう、いちごちゃん」
紬「今日はいちごちゃんが休みでよかったわ!」
いちご「私が休みじゃなかったらどうするつもりだったんですか?」
唯「あ、本当だね」
いちご「…………」
やはり、この人たちはどこか抜けているようだった。本当に調査は進んでいるのだろうか?
唯「ケーキ食べよっか!」
紬「そうね!」
いちご「私は……」
澪「若王子さんも食べますよね?」
いちご「じゃあ……」
三人の笑顔を見てからでは、とても断れる状況ではなかった。仕方無い、今は素直に祝ってもらうことにした。
~~~~~
唯「ふぅーっ! おいしかったー!」
紬「よかった」
いちご「ふぅ……」
バースデーケーキは今まで食べたどのケーキよりも美味しかった。一体、この事務所はどうなっているのだろうか。
いちご「じゃあ、そろそろ失礼します」
いちご「ケーキありがとうございました」
澪「わざわざ来てくれてありがとうございました」
いちご「はい、失礼します」
ガチャン
外に出ると、何とも言えない虚無感が私を襲った。
あぁ、寒い。とにかく家に帰ろう。私は家路を急いだ。
数十分かけて、やっと自宅前に辿り着いた。早く体を休めたい。そう思いながら、鞄から鍵を取り出したその時
「いちご!」
いちご「!!」
私は目を見開いた。なんと、後方に彼が立っていた。彼は両手に紙袋を持っていた。
いちご「どうしたの?」
「今日、誕生日だよね……?」
いちご「そうだけど……」
「よかったぁー……」
彼は安堵したのか大きな息を吐いた。なぜ、こうも喜んでいるのだろう。彼は手に持っていた紙袋を私に向けた。
「はい、誕生日プレゼント!」
いちご「え?」
「いちごの誕生日プレゼントのために一ヶ月前から何を買おうか探し回ってたんだ!」
いちご「あ……」
私は差し出された紙袋を見て、全て理解した。彼はこの一ヶ月間、この瞬間のために駆け回っていたのだ。その事を悟られないために私を避けていたのだろう。
彼の顔を見ると、私の表情を窺っている。まったく、こっちの気も知らないで……。
「どど、どうしたのっ!?」
いちご「!!」
気がつくと私は涙を流していた。急に泣き出した私を見て彼は大きく狼狽えた。私にもこの涙の理由はわからなかった。
いちご「ううん……プレゼントが嬉しくて……」
「そ、そっか! それならよかった!」
彼は達成感を顔に滲ませながら照れ笑いした。顔が紅潮している。
そうだ、こんなに気の弱くて優しい彼が浮気なんてするはずがない。まったくもってあり得ない事だ。
私は間違っていた。
「風邪を引くといけないから家に入ろう」
彼は優しく私の頭を撫でた。私はキョトンとして彼の顔を見つめた。久しぶりに近くで見る彼は以前よりも逞しく見えた。
いちご「うん……」
私たちは肩を寄せ合って家に入った。
翌日 秋山探偵事務所
私は有給を取って、探偵事務所を訪れた。
いちご「浮気じゃないってわかってたんですか?」
澪「はい、依頼を受けた後、彼を尾行していたら、どうもよく買い物に出かけていたんですよ」
澪「不思議に思って色々と調べてみると、あなたの誕生日プレゼントを探している事がわかったんです」
澪「そして、昨日、若王子さんをここに呼んだのは自分の誕生日だって事に気づいてもらうためだったんです」
澪「……とにかく、若王子さんの彼氏は浮気はしていません!」
私はため息をついた。全身から力が抜けて行くのを感じた。
澪「昨日は何かありましたか?」
いちご「彼氏から誕生日プレゼントを貰いました」
澪「それはよかった!」
唯「これにて一件落着、だね!」
澪「そうだな!」
紬「ふふふ!」
目の前の三人が笑い始めた。心の底から、解決したことを喜んでいるようだった。それはとても微笑ましい光景だった。
~~~~~
いちご「では、そろそろ失礼します」
唯「またねーっ!」
紬「また、お茶を飲みたくなったら、いつでも来てくださいね」
なるほど、この三人が揃っているから、この事務所は成り立っているのか。最後に気づくことができてよかった。
澪「あっ! 最後に渡したい物が!」
いちご「?」
澪「今度、この地域のイベントで演奏する事になったんです!」
澪「よかったら、来てください!」
いちご「……ありがとうございます」
私はチラシを受け取って鞄に収めた。
いちご「どうもありがとうございました」
澪「はい、これからもお幸せに!」
ガチャン
私は事務所を後にした。外に出てみると、どこかで子どもたちがはしゃいでいる声が聞こえた。私は空を見上げた。
いちご「雪……」
外は雪が降っていた。ふと先程受け取ったチラシを取り出した。よく見ると、プログラムナンバーに蛍光ペンで線が引かれていた。
7.秋山探偵事務所 「ティータイムズ」
いちご「ティータイムズ……」
いちご「変な名前……」
私はチラシを見てクスリと笑った。チラシの空白部分には湯気の出ているティーカップが描かれていた。
そうだ、彼氏と一緒に行こうか。家に着いたら電話してみよう。
私は胸に暖かい優しさを感じながら歩き始めた。
~完~
最終更新:2012年07月14日 16:39