日曜日 楽器店
澪唯「おぉー……!!」
至る所に大量の楽器が並べられていた。音楽好きには堪らない場所なのだろう。唯は目を丸くして辺りを見渡していた。
梓「まずはベースから見てみましょうか」
一同はベースのコーナーに着いた。様々な種類のベースが置かれていた。
純「これなんてどうですか?」
純は黒色のベースを指差した。そのベースを見た澪は戸惑いながら頬を掻いた。
澪「実は、私左利きなんだ……」
純「えぇっ!?」
梓「そうだったんですか?」
唯「左利きだと何かあるの?」
左利きに大きな反応をする二人に唯が不思議そうに尋ねた。
梓「左利き用の楽器はあまり売ってないんです」
澪「ハハ……どうせ私は左利きだから……」
澪は魂の抜けたように自虐的に呟いた。
紬「あ! あそこにレフティーフェアっていうのがあるよ!」
澪「え?」
紬が指差した方を見ると、大きなポップ広告が見えた。それを見た梓の顔が見る見る明るくなった。
梓「いってみましょう!」
レフティーフェア専用のブースに着くと、澪の落ち込んでいた表情も輝きだした。
澪「おぉ……! 左利きでも演奏できる楽器が……!」
澪はキョロキョロと辺りを見渡した。すると、あるベースが目に留まった。
澪「(何だろう……あのベースが気になる……)」
澪はそろそろとそのベースに近づいた。何かを直感的に感じた。
澪「綺麗だ……」
澪は思わず口に出してしまった。それほどにこのベースに見惚れていた。
純「そのベースがいいんですか?」
澪「う、うん……」
梓「じゃあ、決まりですね」
紬「よかったね、澪ちゃん!」
澪「ありがとう……」
梓「次は、唯さんのギターですね」
唯「すごーい! ベースよりも並んでるよ!」
膨大な数のギターに思わず唯は立ち止まった。梓を見ると、やはりどこか嬉しそうだった。
唯「う~ん……何か選ぶ基準とかあるのかなぁ……」
梓「もちろん、ありますよ!」
梓「音色や重さやネックの形、太さも色々ありますから」
唯「ふーん……」
梓の話す、どの言葉も唯のフィルターにはかからずに通り過ぎた。
唯「あっ! これ可愛い~!」
唯は素早く目に留まったギターの前で屈んだ。純が価格を見てギョッとした。
純「これ、25万円もしますよ!」
唯「えぇっ!?」
唯「そんなお金持ってないよ……」
紬「どうかしたの?」
澪と一緒にレジに行っていた紬が戻ってきた。落ち込んでいる唯の表情を見て心配そうな様子だった。
梓「このギターがいいみたいなんですけど、お金が足りなくて……」
紬「まぁ……」
短くそう言うと、紬は考え込んだ。梓と純はそんな紬を不思議そうに見つめた。
紬「ちょっと待っててね」
そう言って、紬はその場を後にした。
純「どうしたのかな……」
梓「さぁ……」
二人はその背中を見つめることしかできなかった。梓が下を見ると、唯はまだギターをじっと見つめていた。
~~~~~
紬「待たせてごめんね」
純「あっ! ムギさん!」
紬「そのギター5万円で売ってくれるって!」
梓「えっ!?」
唯「何!? 何をやったの!?」バッ
唯は興奮して立ち上がった。
紬「実はこの店、ウチの系列らしくて」
梓純「へ?」
梓と純は紬が何を言ってるのかが理解できなかった。もし、言葉をそのままの意味で解釈すれば、目の前のこの女性は想像もつかないようなお金持ちだ。
唯「ムギちゃんありがとう~! 残りのお金は必ず返すから!」
紬「ううん、気にしないで」
唯「ふふっ!」
唯は改めてギターを見つめた。この目の前のギターが自分の物になると思うと胸が踊った。
~~~~~
唯「ギターだーっ!」
店を出た直後、唯は両腕でギターを空に差し出した。他の四人が微笑ましげに唯の背中を見つめた。
外は日も沈み、夜に差し掛かろうとしていた。
澪「でも、何だか緊張するな……」
梓「趣味程度なので緊張しなくても大丈夫ですよ」
純「そうですよ、澪さん!」
純「わからないことがあるなら、私が教えますから!」
澪「うん、お願いするよ」
唯「梓ちゃん、わからないことだらけだけど、よろしくお願いします!」
梓「はいっ!」
梓は目を輝かせながら答えた。
ヴーン ヴーン
突然、携帯電話のバイブレーションの音が響いた。各々が顔を見合わせて、ポケットを弄った。
唯「あ、私だ」
視線が集まる中、唯は携帯電話を開いた。ディスプレイには憂の名前が表示されていた。唯は通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた。
唯「もしもし」
憂『あっ、お姉ちゃん……今どこにいるの……?』
唯「今から帰るところだけど……」
憂『そっか……』
唯は奇妙な違和感を覚えた。何かがおかしい、そう思った。黒い靄のようなものが胸の中に広がっていった。
唯「どうかしたの……?」
唯は声色を変えて静かに尋ねた。すると、少しの間を置いて、震える声が返ってきた。
憂『今……誰かに後ろをつけられているみたいで……』
唯「え……」
それを聞いた唯は携帯電話を片手に呆然とした。
澪は唯の異変にいち早く気づいた。
澪「唯っ! どうしたんだっ!?」
唯「う……憂が今、誰かに跡をつけられてるって……」
梓「!!」ピクッ
唯が話した瞬間、梓が大きく反応した。
澪「私に代わって!」
澪は唯から携帯電話を受け取り、耳に当てた。
澪「もしもし、憂ちゃん!?」
憂『澪さんですか……?』
憂の声は怯えきっていて受話器を通しても、震えている姿が容易に想像できた。その緊張感は澪にも伝わり、周囲に緊迫感をもたらした。
澪「落ち着いて、憂ちゃん……」
澪「今どこにいるの……?」
憂『スーパーで買い物して、その帰宅途中です……』
澪は一旦、携帯電話から意識を遠ざけ、以前に平沢家を訪れた時のことを思い返した。スーパーの場所はしっかりと覚えていた。
澪「わかった! 今からそっちに向かうよ!」
澪「電話を切った後はいつも通り、不自然な動きをしないで家に向かってて!」
憂『わかりました……!』
澪は通話ボタンを押して、携帯電話を呆然としている唯に渡した。
澪「みんなっ! 今から憂ちゃんの所に向かおう!」
澪「憂ちゃんは今もつけられている! 急ごう!」
純と梓を筆頭に一同は駆け出した。澪が後ろを見ると、唯はまだ呆然と立ち尽くしていた。澪は後戻りして唯の手を取った。
澪「唯! 何やってるんだ!」
唯「えっ! あっ……! 急がないと!」
そう言ってから、唯も慌てて三人の背中を追った。慣れないギターを背負っていたので走法は無茶苦茶だった。そして、澪もその後に続いた。
~~~~~
憂「うぅ……」
憂は眉をひそめ、小刻みに震えていた。背中の真ん中辺りに不気味な視線を感じている。振り返って見ても視線の正体はわからなかった。
「おーい!」
憂「あっ……!」
憂は俯けていた顔を上げた。向こうから梓たちがやってきた。
憂「梓ちゃん!」
梓「憂……大丈夫……?」
憂「うん……大丈夫だよ……」
梓は声をひそめながら静かに尋ねた。その意味を察した憂もヒソヒソと答えた。すると、背中に感じていた視線はいつの間にか無くなっていた。
憂「もういなくなったみたい」
梓「ふぅー……よかった……」ペタッ
全身の力が抜けたのか、梓は大きく息を吐きながら、その場に座り込んだ。そんな梓を純が支えて立ち上がらせた。
純「梓、大丈夫?」
梓「うん……」
憂がふと前を見ると、見たことのない女性が立っていた。金髪のその女性は憂と目が合うと前に進み出た。
紬「初めまして、唯ちゃんと一緒に助手をしている琴吹紬です」
憂「あっ! ひょっとして、ムギさんですか?」
憂「お姉ちゃんから話は聞いてます」
紬「そうなんだ」ニコッ
紬は微笑んでから唯の方を見た。唯は澪の横で気まずそうにもじもじしていた。
紬「唯ちゃん?」
澪「ほら、唯」
澪は唯の背中を押して前に差し出した。唯は転びそうになりながら憂の目の前で立ち止まった。憂が唯を見つめると、唯は上目遣いになった。
唯「憂……大丈夫……?」
憂「大丈夫だよ、お姉ちゃん」
憂が唯を安心させるために微笑んでみせた。唯は上目遣いのままそれを見ると目を伏せた。
唯「よかった……」
唯の肩が震えだした。
唯「よかったよぉ~!」
唯は大声で泣き始めた。それを見た憂と澪はたじろいだ。
憂「お、お姉ちゃん……! どうしたの!?」
唯「憂に何かあったらと思うと……グスッ……心配で……」
憂「…………」
憂「ごめんね……お姉ちゃん……」
憂は笑顔で手を差し出した。唯はきょとんとしてその手を見た。
憂「家に帰ろっか!」
唯「……うん!」
唯は服の袖で涙を拭ってから笑った。
平沢家
唯「はぁー……もうお腹一杯だよー……」
唯は満腹になり、膨れた腹をポンポン叩いた。
紬「おいしかった~……」
澪「ごめんね、また急に押しかけて」
憂「私もご迷惑をおかけしましたから」
そう言って憂は食器を台所へと運んで行った。
あの後、澪と唯と紬は平沢家を訪れ、夕飯をご馳走になった。梓は力が抜けたせいなのか、純に肩を支えられながら帰宅した。
憂「ふぅー……」
しばらくして一段落着いたのか、憂はリビングにやってきた。
澪「憂ちゃん、さっきの事……いいかな……?」
憂「はい」
澪はテーブルに近づいて両腕を置いた。紬は崩していた姿勢を正し、寝そべっていた唯も起き上がり、憂の顔を見つめた。
澪「ストーカー被害は今日が初めてなの?」
憂「…………」
澪が尋ねた瞬間、憂は唯の顔をちらりと見てから俯いた。そして、数秒の間を空けた後に決意を固めたように顔を上げた。
憂「実は、一週間ぐらい前から毎日……」
澪「その間はどうしてたの? 今日みたいなのは無かった?」
憂「気にしないようにしてたんですけど、今日は今までで一番強い視線を感じて……」
澪「他の人には相談しなかったの……?」
憂「視線を感じるようになって三日目の日に一度警察署に行きました」
憂「けど、梓ちゃんの時みたいにあまり取り合ってくれなくて……」
憂「一人だけ協力してくれるって言ってくれた人がいたんですけど、それだけです……」
憂はテーブルの上に視線を落とした。すると、唯が憂に近づいた。
唯「憂」
唯が呼びかけると憂は唯の方を見た。唯は強い眼差しで憂を見つめた。その様子を見て紬はまるで二人が双子のように見えた。
唯「どうして私たちに相談してくれなかったの?」
憂「…………」
憂は唯の眼差しに押されて目を逸らした。しかし、唯の眼差しは変わらなかった。
憂「お姉ちゃんに心配かけたくなかったから……」
憂は絞り出すように声を発した。唯は一瞬目を丸くしてから、優しい表情になった。そして、憂に近づいて顔を覗き込んだ。
唯「そんなこと気にしなくていいよ」
唯「悩みごとがあるなら遠慮せずに何でも話してくれればいいんだよ……」
唯「私はいつだって憂の味方だから」
唯「ね……?」
唯は満面の笑みを憂に向けた。憂は驚いたように唯の顔を見たかと思うと、ポロポロと涙をこぼし始めた。
憂「ウッ……グスッ……ごめんね……お姉ちゃん……」
唯「ううん……私も毎日一緒にいるのに気づいてあげられなくてごめんね……」
唯「よしよし……」
唯は目を瞑って憂の頭を撫でた。憂は安心したのか唯に抱きつきながら、しばらく泣き続けた。
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憂「すいません……突然泣きだしたりして……」
澪「ううん、気にしなくていいよ」
憂は目元を赤らめて頭を下げた。
澪「さて、これからどうしようか……」
澪は腕を組んで考え込んだ。澪はこの間の梓の事件を思い出していた。こちらを目掛けて駆けるストーカー。思い出しただけで背筋がぞっとした。
紬「あの……ちょっといいかな……」
最終更新:2012年07月14日 16:20