〇  ○  ○


 なにやら話し声が聞こえて、わたしは目を覚ました。

 いつの間に寝てしまったのだろう。

 わたしは寝る前の記憶を呼び起こそうとした。

 けれど、頭が上手く回らない。

 眠っていた意識が徐々に回復しようとする中、馴染みのある光景が視界にあることに気付いた。

 軽音部のみんなが目の前でお茶をしていたのだ。

 眼前に現れた思わぬ光景に、わたしの意識がたちまち覚醒する。

「まさか、澪がイヤな顔一つせずに引き受けるとはおもわなかったなぁ」

「さっきも言ったけど、最後の学園祭だからな。それにクラスのみんなにあんな風に言われたら断れないだろ」

 律に勝手に言葉を返す自分。

 わたしは悪夢の真っ只中にいることを瞬時に思い出した。

 そうだ、わたしは操られているんだ。

 朝起きたら化物に乗っ取られていた。

 一階でママと言葉を交わして、洗面所の鏡で自分の顔を見た。

 記憶がないのはそれからだ。

 どうやら眠っている間に、わたしに潜む化物は律儀にも学校に来たらしい。

 それとも学校になにか用があるのだろうか。

 いや、学校に用があるからこそ、この身体を操っているんだろう。

 じゃなかったら、一介の女子高生であるわたしの身体を使う必然性を感じない。

 もしや、わたしの身近にいる人が目標なのだろうか。

 もしそうだとしたら、律たちが危険だ。

 どうにかしてこの化物を止めないといけない。

「やけにポジティブだなぁ。いつもだったら気絶とかしてそうじゃんか」

「わ、わたしだってやる時はやるんだぞ」

「澪もこの三年で変わったってことか」

 繰り広げられる律との会話から得られる情報は断片的で、なんの話をしているのか正確に把握することは難しい。

 律はわたしがいつもと違うことに気付いていないのだろうか。

 反応を見るかぎり、気付いていないのだろう。

 ママも気付かなかったし、律が気付く可能性は低い。

 律だけじゃない、ムギや唯、梓だって気付かないだろう。

 わたしを操作するこの化物は、完璧にわたしになりきれるのだから。

 逆に言えば、律たちがわたしの異変に気付くときは、化物が正体を現したときとも言える。

 とにかくいまは化物を追い出すことを第一に考えよう。

 たとえ可能性が限りなくゼロであっても、いまできることはそれぐらいしかない。


 しかし、いざ化物を追い出す方策を考えようとしても、現実味のない、おそらくは世界初の現象に対する策はそう簡単には思いつかない。

 女子高生が化物に乗っ取られるなんてこと、常識的に考えたらありえない。

 頭を悩ますわたしをよそに、化物は悠々と紅茶を口にしていた。

 口の中にレモンの香りが広がるのがわかる。

「それにしても澪せんぱいがロミオなのはともかく、律せんぱいがジュリエット……ぷぷっ!」

「くらぁっ!」

 日常茶飯事になりつつある梓と律のじゃれあい。

 いや、そんなことはいい。いま梓はなんと言った? わたしがロミオ? 律がジュリエット?

 律の魔の手からなんとか逃れた梓が、期待に満ちた目をしながら言う。

「み、澪せんぱいのロミオ楽しみにしてます! 劇、ぜったいに見に行きますね!」


 梓の何気ない言葉に戦慄した。

 後悔しても遅い。

 絡まった糸がほどけたかのように、これまでの会話の意味を完全に理解してしまった。

 いまのわたしにとって、そのことは決して喜ばしいものではなかった。

 謎の闖入者のせいで忘れていたのだ。

 わたしたちのクラスは学園祭の出し物で演劇をやることになり、今日のHRではその配役を決めることになっていた。

 しかし、わたしはこのとおり朝から訳のわからないことに巻き込まれてしまっていて、そんなことはすっぽり頭から抜け落ちていた。

 しかも気がついたときには部室にいたので、HRでなにがあったのか知る由もない。

 梓の言うとおりであれば、ロミオとジュリエットの主役であるロミオを、わたしがやることになったと見ていいだろう。

 最悪だった。

 わたしがロミオ? 主役? そんなの無理に決まってる。

 わたしに誰かを演じるなんてことできるはずがないし、それも舞台上で演技するなんて、想像しただけでも恐ろしい。

 バンドの演奏とは訳が違う。

 いまからでも他の役、裏方にでも代わってもらおう。

 でも、どうやって?

 拒否しようにもいまのわたしには意志を伝達する手段がない。

 化物が居座るかぎり、わたしはロミオ役を降りることはできないんだ。

 化物を追い出すしかない。

 化物を追い出しさえすれば、全てが解決するんだ。

 わたしは化物を追い出す方法を編み出すために、再び考えをめぐらせた。

 それは迷路の出口を探すというよりも、迷路の入口から出口までを自ら創造するような作業だった。

 アイデアが出てこなくて挫けそうになる度に、絶対になにか方法があるはずだと自分を奮い立たせながら、思いついたアイデアは片っ端から実行に移した。

 しかし、それらの場当たり的なアイデアが成功することは一度もなかった。

 結局、解決の糸口すらつかめないまま、いつしかわたしは諦念を抱きながら帰途についていた。

 隣を歩く律が声を出して笑っている。

 化物も同様にくすくすと笑っている。

 なぜだか、わたしも笑っている。

 笑いたくなんてないのに、顔の筋肉が勝手に動いてしまう。

 その事実にわたしの心はチクチクと痛んだ。

 わたしはただの操り人形だった。

 わたしは感情を表現することさえも満足にできない。

 どんなに悔しくても表情が変わることはないし、声を出して泣きたくても一粒の涙すら流せない。

 いまのわたしは玩ばれるだけの存在でしかなかった。

 別れ際になって、律の曇りのない声が「また明日」と告げた。

 毎日と言っていいほど耳にするその日常的なフレーズは、いまのわたしには特別な意味を持って聞こえた。

 それから家に着くまでの間、わたしは明日について考えた。

 わたしに明日があるんだろうか、明日になれば元通りになるだろうかと、頭の中で様々な明日を想像した。

 思い通りの明日が来る保証がないのにも関わらず、考えれば考えるほど、気付けば自分に都合の良い明日を作り上げていた。

 でも、もしも明日、すべてが元通りになったとしら、わたしは笑うだろうか、それとも泣くだろうか。

 自問するも、答えは出なかった。 



 結論から言えば、一週間が経過した現在も事態は一向に好転する兆しを見せていない。

 逆にこの一週間を経たことで、わたしには明るい未来は永遠にやって来ないのだと確信した。

 根拠がないわけではないけれど、決定的と言えるわけでもない。

 でもなぜだかわたしは、そのネガティブなイメージを捨て去ることができない。

 この一週間、わたしは自身に起った超常現象について考えに考えた。それも飽きるほどに。

 その過程で、一つの新たな解釈が生まれた。

 少しばかし立ち位置を変えるだけで、物の見方は大きく変わった。

 その新たな解釈に至るまで、わたしは自分の側から超常現象について解釈を試みていた。

 それもそのはず、事故にあった当事者は大抵自分中心に物事を理解しようと無意識にしてしまうものだから、その行為自体はおかしいわけではない。

 では、相手側から理解しようとすればどうなるか。たちまち物事はまた違った姿を見せるはずだ。

 「また明日」という言葉がいまのわたしと律では感じ方が違うのと同じで、立場が違えば見ている物も違うし、考えることも違う。

 当たり前のことだ。

 そんな当たり前のことから新たな解釈は生まれた。

 つまり、化物側から今回の超常現象について考えてみたのだ。


 そもそも化物という認識が間違っていたんじゃないかと思った。

 一週間もありながら、この間に非人間的というか化物めいた行動、他人に危害を加えるということは一切なかった。

 それどころか、学校ではクラスメイトの前で堂々とロミオを演じ、放課後には律の家で一緒に練習をしたりと、極めて真面目な生活を送ってさえいる。

 本物の女子高生みたいにその生活ぶりは自然体で、とても演技のようには見えない。

 では、もしも、化物が化物じゃないとしたら。

 化物と思っていたものが本物の秋山澪であり、このわたしが偽物の秋山澪だとしたら、この偽物のわたしこそが化物なんじゃないか。

 そう考えた。

 たとえ、わたしが化物ではなかったとしても、わたしの存在意義というものがわからない。

 わたしが本物の秋山澪であったとしたら、今度は表のわたしの存在意義がわからない。

 どちらかが本物であれば、一方は偽物になる。

 それとも両方とも本物? 両方とも偽物?

 どこに帰結しようと理解不能な部分が出てきてしまう。

 結局、答えを断定することはできていない。


 洗顔を終えたわたしの顔が鏡に映っていた。

 わたしの視線が勝手に口から鼻へ、鼻から目へと辿っていく。鏡に映る自分の目と目が合った。

 鏡を通して、わたしの存在を確かめるように、わたしの目がわたしを見ている。

 この身体から脱け出すために試したアイデアの中で、化物と対話をするというのがあった。

 頭の中で言葉を組み立て、化物に念じるだけ。

 我ながら、馬鹿みたいだなと思うけど、試したときはとにかく必死だった。

 結果は現状が物語っている。

 そのアイデアをもう一度試してみようと思った。

 別に成功する気がしたわけじゃないし、成功するとも思っていない。

 ただ、話し掛けたくなったのだ。鏡に映る自分に。


 頭の中でイメージする。


 ――あなたは誰?


 当然だけど、わたしの口から声は出ないし返事もない。

 鏡に映るわたしが誰なのか、わたしにはわからない。


 ――わたしは誰?


 わたしは自分が誰なのかを知らない。

 秋山澪のはずではあるけど、もう確証はない。

 自分が本物なのか偽物なのかわからない。

 本物ってなんだ? 偽物ってなんだ? みんなどうやって見分けるんだ?

 目に映る人間が本物かどうかなんて、結局は誰にもわからないじゃないか。


 ――わたしはどこにいるんだろう?


 意識だけが身体の中に存在している。

 でも、五感を受動的に感じることはできる。

 あやふな存在、曖昧な存在、中途半端な存在。

 肉体がなければ死んでるも同じ? 

 肉体こそが本物? 

 肉体こそが生きている証しなの?


 ――ねえ、教えてよ。あなたは誰? わたしは誰? ここはどこ? わたしが偽物だったらどうして生きてるんだ?


 ねえ、教えてよ。誰でもいいから教えて。

 本物か偽物か教えてよ。お願いだから、教えてよ。

 返事はない。

 完全な静寂。

 わたしの視線が動く。

 鏡に映る自分の口元が、ゆるりと変化する。



 わたしが――笑った!?





          〇  ○  ○


 目覚まし時計が鳴っている。

 どうやら今日も同じみたいだ。

 日が変わっても、この身体はわたしのものではないらしい。

 わたしが勝手に目覚し時計を止めて、勝手にベッドから抜け出した。

 わたしはこの状況にいい加減にうんざりしていた。

 このもう一人のわたしが、人の身体を勝手に動かしているのが我慢ならない。

 それに加え、ロミオ役を頑なに拒否する後ろ向きな性格と来たら、見ていてイライラした。

 こんなうじうじしたわたしは、わたしじゃない。

 いつになったらわたしは元通りになるんだろうか。

 このままじゃ、ロミオは演じられそうにない。

 もうじき学園祭が始まってしまうというのに。

 とは言ったものの、いまのわたしにできることはなにもない。

 暇つぶしにロミオとジュリエットの台詞を暗誦するぐらいだ。


 ――ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?


 その名台詞の続きは思い出せない。

 ロミオの台詞なら覚えているけれど、ジュリエットの台詞は覚えていなかった。

 ロミオの最後の台詞はよく覚えている。


 ――地上での最後のキスだ、お休みジュリエット。


 この後のキスシーンを想像する度に、やっぱりロミオ役は恥ずかしいかもしれないと思ってしまう。


        お  わ  り