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 四方が真っ白の空間にわたしは立っている。

 壁があるのかないのか、天井があるのかないのかはっきりしない、そんな空間だ。

 目の前には二つの赤いドアがあった。

 ドアの手前には一匹の羊がいて、じっとわたしを見つめている。

 どうしてこんなところに羊がいるんだろう。

 わたしは羊に近づくと身を屈めるようにして羊の顔を覗き込んだ。

 羊はまるで置物のように微動だにしなかった。

 もしかしたら死んでいるのかもしれなかった。

 でも、立ったまま死ぬというのもおかしいし、動くのを我慢しているのかもしれない。

 そんなことを思っていると、我慢の限界だったのか羊がまばたきをした。

 わたしもつられてまばたきをした。

「こんにちは」

 どこからか声が聞こえた。

「こんにちは」

 また同じ声が聞こえた。

 その声は目の前にいる羊から聞こえたような気がした。

「こんにちは」

 間違いない、この羊がしゃべったのだ。

 わたしは驚いて固まってしまった。

 羊もこちらを見たまま固まった。

 まるでにらめっこのようにわたしと羊はお互いの顔を見合っていた。


「こんにちは」と、羊が四度目のあいさつをした。

「こんにちは」と、わたしもあいさつをした。

 羊はそれからこちらを見つめたまま、また口を噤んでしまった。

 わたしはなにを話していいのかわからなかった。

 喋る羊と会うのは初めてだったのだ。

 わたしたちの間に沈黙が訪れた。

 沈黙はわたしが話し出さないかぎり破られそうになかったので、適当な質問をしてみることにした。

「ここはどこ?」

「ここは夢の中だよ」と羊は無表情で言った。

 なぜだかわたしはそう言われても驚きはしなかった。


 羊は再び黙ってしまったので、わたしはまた話題を考えなくちゃならなかった。

 それにしても無口な羊だ。

 今度は目の前の赤いドアについて聞いてみることにした。

「このドアはなに?」

「君のドアだよ」

「わたしのドア?」

「うん。君だけが開けられるドアだよ。試しに開けてごらんよ」

 わたしは首を傾げながら、ドアに近づく。

「どっちのドアを開ければいいんだろう」

「両方開けていいんだよ」と羊が言った。

 特に考えもせずに右のドアを開けてみた。

 ドアの向こうには見たこともないほど広大な草原が地平線の彼方まで広がっていた。

 草花が風に揺らめき、青空では雲が気持ちよさそうに泳いでいる。

 素敵なところだと思った。

 人の手が加えられていない、ありのままの世界だ。

 でも、ここはどこだろう。

 わたしは疑問を持ちながら、左のドアも開けてみることにした。

 左のドアを開けて、わたしはまた首を傾げた。

 おかしなことに左のドアの先にも、右のドアとまったく同一の草原があったのだ。

 草原に足を踏み入れ、ドアの方を振り返ってみる。

 ドアはいま入ってきたものしかなく、右のドアは見当たらない。

 もう一度、右の草原へ行って同じように見てみると、左の草原と同じでドアは一つしかなかった。

 わたしは白一色の空間へ戻って羊に聞いてみることにした。

「どっちも同じ草原なのに、どうして向こうにはドアが一つしかないんだ?」

「同じじゃないからだよ。違う草原なんだ」

「違う? わたしには同じに見えるけど」

「違うよ。よく見てごらん」

 羊に言われて、わたしは右の草原と左の草原を間違い探しみたいに見比べてみることにした。

 右の草原と左の草原を行ったり来たりしていると、いつの間にか羊もわたしと一緒に草原へ足を踏み入れていた。

「どこが違うんだ? 同じじゃないか」

 わたしが聞くと羊は面倒くさそうに口をあけた。

「め~」

 答えは教えてくれないらしい。

 何度も何度も右の草原と左の草原を行き来したものの、結局わたしには違いがわからなかった。

「ねえ、あの草原はなに?」

「あの草原は君の草原だよ」

「わたしの? わたしは草原は持ってないけど」

 そう、家に小さな庭はあっても草原は持っていない。

 羊はわたしの言ったことが聞こえなかったのか、それとも無視しているのか口を閉ざしてしまった。

 わたしは膝をかかえてその場に座り、白一色の空間からドアの向こうにある草原を眺めることにした。

 草原には表情があるような気がした。

 言うなれば、微笑しているような草原だった。

 わたしは時間を忘れて草原をぼんやりと見つづけた。

 草原に強い興味があるわけではなかったけれど、夢の中だから時間を気にする必要なんてなかったのだ。


 いつか隣を見たとき、羊はうつろな目で草原を見ていた。

 きっと草原で遊びたいんだろう、単純にそう思った。

 わたしは羊にもう一つだけ質問をしてみた。

「ねえ、君はここでなにをしてるの? 向こうで遊べばいいのに」

 羊はまばたきをすると、ゆっくりとこちらに視線を向けた。

「僕はなにをしているんだろう」

 その呟きはわたしへと向けられたものではないように感じられた。

 わたしは羊に返事を返さなかった。

 それからというもの羊は黙ってしまい、二度と喋ることはなかった。

 話し相手を失ったわたしは、いつしか眠ってしまった。



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