どこかで目覚まし時計が鳴っていた。

 この世のあらゆる生物が起きだしそうな、不快な音の連続。

 その音は段々と鮮明になって、わたしの耳に流れ込んでくる。

 わたしは布団から腕を出して、頭上をまさぐる。

 目覚まし時計は中々つかまらない。

 そんなわたしを嘲笑うように、目覚まし時計は騒々しい音を鳴らしつづけている。

 わたしは瞼を押しあげ、ベッドから身体を起こす。

 違和感。

 目覚まし時計は鳴りつづける。

 目覚まし時計を探す。

 見つけた。

 目覚まし時計を止める。

 ……いや、止めようとする。

 いや、それも違う。

 目覚まし時計を止めようとした。

 目覚まし時計は鳴りつづける。

 わたしは目覚まし時計を見つめまま動かない。

 なぜ?

 動かない。

 わたしは動かない。

 わたしが動かない。

 いや、わたしは――。


 ――動けない!?


 目覚まし時計は鳴りつづける。


 目覚まし時計が止まった。

 いや、違う。


 ――目覚まし時計は止められたんだ!


 誰に? わたしにだ。わたしが止めた。わたしが目覚まし時計を止めた。

 でも、それも違う。

 わたしは止めようとしたけど、止めてない。

 だって、わたしは動けなかったんだ。

 止めようがない。

 じゃあ、誰が止めたんだ?

 わたしはベッドから抜け出す。

 またもや違和感。


 ――わたしがベッドから“勝手に”抜け出した?



 目が覚めたときから感じてきた違和感の正体がわかったような気がした。

 でもそれは荒唐無稽という言葉がぴたりとあてはまるもので、とてもじゃないけどまともな答えじゃなかった。

 そう、まともじゃない。

 だけど、現実はあっさりとわたしの答えを肯定し、答えを拒否しようとするわたしを否定した。

 ベッドから抜け出したわたしが勝手に動き、携帯電話を手に取ったのだ。

 ありえない。ありえないだろ、こんなことって。

 朝起きてみたら自分の身体が見ず知らずの何者かに乗っ取られてるなんて話、現実にあるはずがない。

 きっとこれは夢であって現実じゃない。

 悪夢だと、そう思いたかった。

 けれど携帯電話のテンキーを打つ親指は、まるで「これは現実なんだよ」とわたしに突きつけるようにひとりでに動いていた。



 こんな馬鹿げた現実なんて見たくはなかった。

 わたしはなんとか自分の意志で身体を動かそうと、必死に頭の中でもがいた。

 しかし、現実はあくまで非情らしい。

 いまのわたしには身体どころか視線をコントロールすることさえできなかったのだ。

 つまり、わたしがいま見ているものは自分ではない誰かが見ているものでしかないのだ。

 現実から顔を背けようとしても、わたしを操る奴が目を閉じないかぎり、わたしは直視せざるをえない。


 どうしてこんなことになったんだ。

 そんな単純な疑問がわきでてきて、原因はなにかと記憶を寝る前まで遡ってみる。

 携帯電話の着信をチェックして、目覚まし時計をセットした。

 部屋の明かりを消して布団を被って、明日のことを考えながら目を瞑ると、すぐに眠りにつくことができた。

 なんらおかしなところはない。

 なにかがわたしの中に入ってきたとか、なにか怪しいものを見たとか、そういったことは一切なかった。

 それは断言してもいい。

 部屋に来る前のことを思い出してみても不可解なことはない。

 ということは就寝後だろうか。

 目覚まし時計の音で目を覚ましたときには、既に身体は乗っ取られていたはず。

 起きてすぐに違和感があったのだから、そう考えるのが筋だろう。

 となると眠ってから起きるまでの間が怪しいか。

 睡眠中になにかが起ったのであれば記憶になくてもおかしくはない。

 ……そういえば夢を見た。

 どんな夢だったか。

 夢の内容はノイズがかかったように、よく思い出せない。

 もしかしたらその夢が関係しているのかもしれない。

 漫画じみた発想かもしれないけど、現状を鑑みればその考えはさして突飛なものでもないはず。

 なんとか夢の内容を思い出そうとする。

 が、操られているわたしが携帯電話を机に置いたので作業を中断した。


 わたしは窓辺に寄ってカーテンを開けた。もちろん操られて勝手にだ。

 見慣れた町並みが窓を通して目に入る。

 あまり興味がないのか、すぐさま踵を返して部屋を出た。

 廊下に出ると、足裏を通して床のひんやりとした感触が伝わってきた。

 さながら自分の家のように自然な足どりで、階段へ向かって歩いて行く。

 階段を下りる時になって、新たな疑問がうかんだ。

 わたしを操っているのは誰なのか。

 目覚まし時計を止めて、携帯電話をチェックし、カーテンを開ける。

 それらの一連の行動は、常日頃から同じことをやっているかのように手慣れていてスムーズだった。

 それにやけにのんびりとしているのが気になる。

 慎重というよりは余裕があるといった感じだ。

 時間が充分にあるということか。

 そこまでは考えられたものの、具体的にわたしの身体を操ってなにをしようとしているのかは皆目見当がつかない。


 一階に下りたわたしがダイニングに通じたドアを開ける。

 ダイニングからは誰かがなにかを……ママだ! ママがお弁当を作ってる音だ。

 わたしの足が音の聞こえてくるキッチンへと向かっていき、視界にママの顔をとらえた。

 嫌な予感がした。まさかママになにかするんじゃ。

 わたしはいまにもこの身体から抜け出したい衝動に駆られた。

 ところが、その予感は幸いにも当たらなかった。

「ママ、おはよぅ……」

 わたしが勝手に喋った。それもわたしの声そのままで。

 ママはわたしが操られてることに気付いていないのか、いつものように口元に笑みを浮かべながら「おはよう。まだ眠そうね」とわたしの顔を見て言った。

「うん……かおあらってくる」

 なんの戸惑いも見せず眠たげに返事をして、ママに背を向ける。

 どうやら、いまのところはママに危害を加えるつもりはないらしい。

 洗面所のある方へ歩き出す。

 と、わたしは急に恐くなった。

 なぜだかはわからないけど、もう二度とママと会えないような、そんな気がした。

 わたしはママに助けを求めようとした。

 いまじゃないと手遅れになると思ったから。


 ――ママ、わたしはここだよ。ママ、助けて! ママ! ママ! ママッ!


 マイクに向かって声を張り上げるように、わたしはとにかく必死に声を出そうとした。

 どうしても、ママに気付いて欲しかった。

 ママに気付いてもらえれば、たとえ声が嗄れようともかまわなかった。

 しかし、聞こえるのは自分の足音と衣擦れの音だけだった。

 どれだけ頭の中で言葉を唱えようと、わたしの口が動くことは決してなかった。

 わたしの中には怒りではなく、失望と恐怖だけが残った。

 暗澹とした気持ちでいると、わたしの目の前に自分の顔が映りハッとした。

 どうやら洗面所の鏡を見ているらしい。

 鏡に映る自分は寝起きということもあって眠たそうな目をしていたけど、いつもとなんら変わりのない正真正銘の自分の顔だ。

 ふと思う。この身体を操るのは彼なのか、それとも彼女なのか、そもそも人間なのか。

 気味が悪いくらいに違和感なくわたしを演じる正体不明の闖入者は、一体何者なんだろう。

 わたしの身体を使ってなにをするつもりなんだろう。

 どうしてわたしがこんな目に遭わなきゃいけないないんだろう。

 きっとこれらの答えは誰も教えてくれないだろうし、誰も知らない。

 おそらく答えを知っているのはこの闖入者――化物だけだ。

 鏡に映る自分。

 それはいまや、化物なんだろうか。




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