無表情のままの悪罵。

私がその発言の意図を推測しようとする前に、
文章の意味を理解する前に、
いや、発声の認識さえし終えないうちに、
秋山さんは布団を掛ける体勢から、そのまま馬乗りになってきた。

危機を感じて反射的に身をよじるが、布団が邪魔で身動きができない。

叫ぼうにも、驚愕と恐怖に支配されて、酸欠気味の水槽の中にいる金魚のように、
私はただ間抜けに口をぱくぱくと動かすのがやっとだった。


 「安心してくれ。静かにすれば危害は加えない。高橋さんに傷を付けると私も困るからな」


そう言って、秋山さんはポケットから紙片を取り出す。
秋山さんの長い髪が私の周囲の視界を薄暗く遮る中、紙片のみに意識が集中する。


 「さて、さっきの廊下での質問の続きだけど、この手紙に見覚えはないか?」


手紙にはこう書いてある。


 『明日の朝早く、誰もいないうちに教室に来て。
  理由は聞かないで。詳しくはそのとき話します。』


私は、手紙を回すときには、中身は決して見ないことにしている。

見たいという好奇心などないといえば嘘になるが、それ以上に、
盗み見たとか見ないとかのくだらない諍いに巻き込まれたくはない。
第一、こんな手紙に大して重要なことは書いていないのだから。

しかし、その一方で、私の記憶には、この文言がはっきりとあった。


 「どうだ?実は今朝早く高橋さんのポケットから拝借したんだけど」

 「え……私が持ってたの?でも秋山さん宛てだったんでしょ……?」


ようやく機能しはじめた脳をフル回転させて私は答える。


 「しらを切っている訳じゃなさそうだけどまだ記憶が曖昧か…でも見覚えはあるな?」


私は、小さく頷いた。
冷や汗とも脂汗ともつかない汗が額に浮かび、前髪が張り付く。


 「よく正直に答えてくれた。これは、高橋さん、君が書いたんだ。
  筆跡まで琴吹さんに、いや、ムギに似せて、ご丁寧なことだ」

 「私は、そんな手紙なんか書いたことは…」


私が否定しようとすると、秋山さんが薄く嗤笑しながらささやく。


 「『日頃、手紙を回さない自分の名前で渡すのでは不自然だ。軽音部員の名を借りよう。
   しかし、唯や律はメモで相談を切り出すようなガラではなさそうだ。
   だから、ムギの名を騙ろう。』

  高橋さんは、そう考えた。…違うか?」


私は答えない。

大脳どころか脳幹までまさぐられるような不快感。

これまでの人生でそんな手紙など書いたことなどないという確信はある。
しかし、一方でこの手紙を書いた記憶も確かにあった。


 「じゃ、もう少し種明かしをしようかな。いま、高橋さんはこう思っている。
  『仮に、そうだとして、なぜ秋山澪宛ての手紙を、書いた本人でもある高橋風子が持っていたのか』と」


秋山さんは、私が思っていたことを寸分違わず言い当てる。
気色悪さを通り越して感心している自分に気付く。無言のまま、再び私は小さく頷く。

ベッド脇のサイドテーブルの上にある目覚し時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。


秋山さんは、幼稚園児に手ほどきするように鷹揚な態度で、語り続ける。


 「簡単なことだよ。これは、君が書いて、君が受け取ったんだぞ。
  正確には、高橋風子の人格たる君が書き、秋山澪の肉体たる君が受け取ったとでも言おうかな」

 「…ごめんなさい。秋山さんの言っている意味が全然分からないの」


なんとか平静を取り戻しつつあった脳が再び混乱し始める。
心胆寒からしめられるとはこういうことか。

秋山さんはそんな私を意に介さず、話を続ける。


 「今朝、君は時間割変更の連絡のとき、一瞬、左手でペンを持ったろ?
  そして“左手で書けるわけないじゃない”と呟いた。
  私も、違和感を持ってはいたんだけれど、それで確信してしまったんだよ。

  ……入れ替わる前の記憶が残っていることに」

 「入れ…替わる…?」

 「もしかしたら君にも、“それ以前”の記憶が残っているんじゃないか、と思ってね。
  それで『私が左利きだったな』って、カマをかけたんだ。
  案の定、君は取り乱した。“左利きだったとき”の記憶が頭の片隅に残っていたんだ」

 「…入れ替わるって、何と…何が…?」


私は、その答えが何であるかを認識しつつあった。
しかし、認容したくはなかったのだ。

そして、秋山さんは事も無げにさらりと断言する。


 「『何と何が』だって?『誰と誰が』の間違いだろ。
  野暮なことを質問するんじゃない。君も分かっているはずだぞ。


  ……秋山澪と、高橋風子が、入れ替わったんだよ」



髄液に液体窒素を流し込まれたかのように慄然とする。


 「非科学的な…ありえない…」

 「信じたくなければそれも結構。が、記憶は嘘をつけない。思い出せ。
  ……高橋家の裏庭の土蔵。二階の左から四列目最奥の書棚。上から三段目。
  堅牢な赤茶色い背表紙。羊皮紙製の古びた分厚い洋書。第五章第七節」


秋山さんは淡々と説明する。
言われた通りに記憶をたどると、幻灯のように滑らかに脳裏に再現される。
カビ臭い土蔵の臭い、古書の重量感、羊皮紙の手触りさえ思い起こされる。


 「…さて、その内容も思い出してくれたか、な?」


私は秋山さんの問いに吸い込まれるようにして答える。


 「他者と心身を入れ替える秘儀…」

 「ご・名・答。ただ、残念ながら、秘儀は不完全だったみたいだな。
  文書の手順通りにしたはずだが、お互いの記憶と人格は共有され混在したままだ。
  秘儀に関する知識も消えるはずなのに残ってる。君も分かっているだろ?」

 「そんな!」


秋山さんは、したり顔で私に同意を求めるが、私は受け入れない。
しかし、なおも私の意思を無視して、秋山さんは私を求めようとする。


 「このままでは、お互いに社会生活に、ひいては今後の人生に支障を来たす。
  だから、完全に入れ替わるために秘儀を完遂させねばならない。血を、交わすぞ」

 「……ふ、ふざけるなっ! 何故こんなことを!?」


私は、出しうる限りの気力と声量で問うた。


すると、目の前の“秋山さん”の表情が、険しく、しかし悲しげに崩れる。


 「…羨ましかったんだ」

 「それは、秋山澪の、ことが、か?」


私が『秋山澪』の名を出して問うと、
“秋山さん”のこれまでの余裕に満ちた冷笑的な態度が一変し、
感情を露わにしてまくし立てる。


 「なんでなのよ!?引っ込み思案で恥ずかしがり屋で人付き合いも苦手なクセに、
  愚昧極まる軽音部のやつらに囲まれてヘラヘラヘラヘラ楽しそうにして!
  私だって、私だって、共に語らう友達が、心開ける仲間が欲しかったのに!!」


呆気にとられた私は、思わず聞き返す。


 「…たった、それだけのことで?」

 「何がそれだけなもんか!ふざけないでよ!私の気持ちも知らないで!」



…そうか、そうだったのだ。


今、私の目の前にいるのは、まさしくもう一人の“私”。

もう一人の哀れで寂しく滑稽で孤独な秋山澪、澪2号だ。

周囲が自分を拒絶しているのではなく、自分が周囲を拒絶しているだけなのに。
自分が幸福になるための術を、他人の幸福を奪い取る以外に知らない。

他人を否定することでしか、自分を肯定することができなかったのだ。

結局、この“私”は、私以上に人との関わり方を知らず、
周囲を軽んじ、ないがしろにしながら、そのまま自分の世界に沈潜してしまったのだ。

私の肩口を抑えつけながら、“私”はまくしたてる。


 「文学少女なんて聞こえはいいけど、ガリ勉で根暗で勉強以外に取り柄がなくて!
  人間関係の構築もできない社会不適合者!どうせあなたもそう思ってるんでしょ!?
  現に一生懸命気を遣ってるのに、嫌われないだけで全然好かれないじゃない!
  テスト前くらいしか頼りにされない虚しさがあなたに分かるの!?」


私も人付き合いは苦手だ。
よくよく考えてもみれば、いや、考えるまでもなく、
これまで作ってきたような歌詞を考えつく人間は世間から相当逸脱していると思う。

だが、私の周りには受け入れてくれる人々が居た。
幼馴染みの律、軽音部の仲間、和やさわ子先生、他のいろいろな人たち、
誰かが欠けていたら、私も“私”のようになっていたのかもしれない。

それらの人々の優しさ、暖かさ、心地良さ、ありがたさ、

目の前の“私”の幼稚さ、嘆かわしさ、愚かさ、哀しさ、

そして、私が“私”のようになったときの恐ろしさ、寂しさ、虚しさ、

そんなことに思いが致り、視界が涙で滲んでくる。

そして、そんな私の顔を見た“私”が、苛立ちを私にぶつける。


 「そんな目で見ないでよ!どいつもこいつも私のことを馬鹿にして!」

 「……もう、やめよう、こんなこと。今なら間に合うよ。“高橋さ…」

 「…その名で呼ぶな!私は、私はッ、“秋山澪”だッッッ!!!!!」


『高橋』と呼び掛けた瞬間、目の前の“私”の顔が憤怒と恐怖で醜く歪んだ。
激昂した“私”は全体重をその両腕に掛けて、私の頚を絞め上げてくる。

途端に鼓動が高鳴り、顔面が鬱血していく。
眼圧が高まり、目が充血していくような感覚に襲われる。


 「か…はっ」


私の吐いた唾液の飛沫が、“私”の顔に張り付く。
驚いて我に返ったのか、私の頚を絞める“私”の手が弛み、離れる。



むせ込むのを必死に抑えて視覚に意識を集中すると、
眼鏡越しに見た“私”も、顔をくしゃくしゃにして呆然と涕泣していた。

涙とも洟とも唾ともつかない粘性のある“私”の体液が一滴、左のレンズに滴る。



僅かばかりの沈黙があった。

そして、“私”は嗚咽しながら、寂しげに、しかしはっきりと、こう言った。


「………ごめん。ごめんなさい。でも、もう、後には退けないんだ。
 わかってくれ、わかってくれよ、“高橋さん”…」

「…嫌!嫌だッ!私は! 私が!!!“秋山────


続く言葉が紡がれることはなかった。
私の唇は“私”の唇によって奪われ、意識は暗転する。



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