――このような事件を元にして、私はいくつかの記事を書いた。
しかし、やはり当時の私は血気盛んで、人道と社会正義を前面に押し出しがちであった。
前述の『桜が丘製糸気質』の記事も、そのうちの一つである。
しかし、こうして徐々に激越に走る筆が、官憲の目にとまってしまう。
“記者ノ真鍋某ハ労働争議ヲ煽動シ、秩序安寧ヲ破壊スル虞アル不穏分子ナリ”と。
私は退職を余儀なくされ、信州を離れて上京し、他の新聞社に就職した。
しかし自然と、信州桜が丘のことには疎くなってしまった。
ではその後、彼女たちはどうなったのだろうか。
リツは、その後も工女として桜が丘の製糸工場を転々とし、しばらく働いていたが、
戦前、東京府下の某拘置所でたまたま出くわしたことがある。
私も、自分の書いた記事が検閲にひっかかり逮捕されることが何度かあったが、
彼女も某製糸工場での労働争議中に検束されたそうだ。
その後、刑場の露となったという噂もあり、戦後には釈放されたという噂もあった。
だが八方手を尽くしても、弟もいまだ知らないというその消息はつかめない。
「どこかにいるさ。姉ちゃんは殺しても死なないよ」
と、寂しげに笑った聡の顔が思い出される。
ミヲは、のちに長野県知事から奨励賞を貰うほど優秀な、
いわゆる“百円工女”になったが、
その美貌がかえって仇となってしまったのか、
琴吹製糸場の商売敵に身売り同然で強引に引き抜かれ、ついにはその社長の妾にされた。
時代は移り、昭和恐慌、続いて、生糸の主要輸出先であったアメリカとの戦争。
経営不振に陥った桜が丘の製糸工場群は、タダ同然で次々に軍需工場に接収されていった。
混乱の中、商売敵ともども夜逃げしたミヲの行方は、現在に至るも毫も知れない。
彼女は戦争を生き抜いたのか、あるいは人知れず野末の土となっているのか。
あの澄んだ歌声を聞けることは、もうあるまい。
そして、ようやく戦争が終わったあとは、
化学繊維のナイロンが生糸に取って代わっていた。
幾多の危機を乗り越えてきた琴吹製糸場も時代の波には抗えず、ついに倒産。
社長であった紬女史も、借金取りから逃げ回っていた。
やっと捜し当てた彼女の住まいは、寂しいものであった。
荒ムシロが一枚下がっている侘びしいあばら屋。
それは北関東のとある小都市の片隅。
「ごらんの通りで、今さら何も申し上げることもございません。お引き取り下さい」
ただ一言きっぱり言って瞑目した紬女史の、その間一言の乱れもない毅然たる態度に、
かつての大製糸家の威厳が残っているのみだった。
日を改めて訪ねたときにはすでに、そのあばら屋もろとも、彼女の姿はなくなっていた。
栄光と悲惨──今にして思えば工女も哀史であったが、製糸経営者もまた哀史ではなかったか。
あらゆる悪条件の中、世界経済のまっただ中に飛び込んでいった後進国の日本は、
情け無用の国際競争の荒波を、尋常の手段で乗り切れるはずはなかった。
資源、資本、技術。全てが「無い無い尽くし」。
それを補うのも“月月火水木金金”の「無理無理尽くし」。
これを否定しては明治の近代化はあり得なかった。
こういう事を念頭に置いて『桜が丘製糸気質』を論ずるのでなければ、やはり片手落ちである。
これは従来の“女工哀史”と言われるものにも言えることだが、
青臭いセンチメンタルでは解決しない。
実際、私が長年かかって数百人の元工女と話して考え続けたが、
そのような画一的な“女工哀史”とはよほど違っていた。
例えば、粗末な食事、長時間労働、低賃金といった定説だが、
ウヰやヂュンの話のように「それでも、家の農作業より楽だった」という答えが大部分である。
しかし、これこそがまた、工女の“哀史”の根深さであった。
それは同時に、貧村の“哀史”であり、
資本家の“哀史”であり、近代日本の“哀史”でもある。
工女が、日本社会という濁流逆巻く大河の中のひと雫のように儚いものであったとすれば、
製糸経営者もまた、世界経済という嵐の大海の中の笹舟のように力無いものであったのだ。
かくして、隆盛を極めた製糸王国「桜が丘千本」の煙突の火は消えた。
まさに、製糸業は『生死業』だったのである───
【あとがき】
私の取材メモから、本書の上梓にあたって───
現在は都心から特急列車で3時間余り、
私は本書の執筆取材のため、幾度も信州桜が丘に降り立った。
本書は、私が信濃毎日新聞退職後に上京してから長年、
いわばライフワークとして温めていたものである。
この日、新宿駅の改修工事で中野駅始発となっていた特急「あずさ」は、
桜が丘で私が下車すると、製糸工場の始業を知らせるような汽笛一声を響かせて、
松本方面へと下っていった。
私は思わずつぶやく。
「中野、あずさ、ね。不思議な宿縁だわ……」
この特急列車の名は、一般的には信州を流れる梓川にちなんだものとされている。
しかし、私は聞いたことがある。
「その短い一生を、哀しくも懸命に生きた、
ある若き製糸工女の名にちなむのだ」と、地元の古老が語るのを。
明くる日、私は野ムギ峠に向かう。
飛騨側まで抜けて、数日掛けて各地を巡りながら、
再びウヰやヂュンらの話を聞きに行くつもりだ。
元工女たちは、糸引きの話になると、まるで少女のように目を輝かせる。
春のスズメのように、かまびすしく思い出話を語りあい、糸引き唄を歌う。
“♪君を見てゐるとォ~ いつも心臓 動悸 動悸ィ~。次、ヂュンちゃん!”
“♪揺れる想いは……えぇと、ウヰ、次は何だっけ。「綿アメみたいに」だっけ?”
“んー、お姉ちゃんは「淡雪みたいに」って歌ってたよ?”
“あぁ、そうだ!あのころは綿アメなんか食べられなかったもんね~!”
つらかったはずの桜が丘の工女生活。だが、それが彼女らの唯一の青春だったのだ。
しかしながら、元工女たちも老い、あるいは鬼籍に入った。私もまた老いた。
野ムギ峠に来ることができるのも、あと何回だろうか。
新緑の季節、峠に立って乗鞍岳を眺めると、
緑のじゅうたんの中に蒼くそびえる美しい姿を見ることが出来る。
しかし、この峻険な野ムギ峠を、粗末なワラジと薄い羽織で越えた工女たちの中で、
このような美しい景色を目にする暇のあった者は、ごく僅かであっただろう。
ましてや、厳冬の吹雪のさなかの峠越えでは一寸先さえも目にすることは……
私は、幾度と無くここに来たが、来るたびに、感慨を新たにする。
近代における我が国の勃興と隆盛は
、無数の工女たちと製糸家たちの血と汗と涙との上に成立したものなのだ、と。
“♪もしすんなり話せればその後は…どうにかなるよね”
「話せば分かる」。
戦前、そんな最期の言葉を遺して青年将校に暗殺された首相がいたが、
彼女たちは、糸引き唄に託す以外に、声を上げる術はなかったのだ。
しかし当時、もし、万が一にも、
あらゆる階層の人々がすんなり話しあえる機会があったとしても、
そして、もし分かりあえたとしても、
それだけでは誰の暮らしも成り立たず、国家さえも成り立たなかった。
工女たちの「どうにかなるよね」という淡い願いのみでは、どうにもならなかったのだ。
それが我が国の近代の蹉跌であり、桎梏であった。
そして、我が国は、かつてに比べれば、確かに豊かになった。
だが、昔と変わらず経済成長にひた走り、
「もはや戦後ではない」と物的享楽にのみ身を委ねる、戦後日本。
この「すんなり話せる」はずの民主主義国家の「その後」は
「どうにかなる」と胸を張って言えるであろうか。
ささやかな甘い想いの込められた糸引き唄は、そんな問いを今もなお発し続けている。
「夏草や つわものどもが 夢のあと……か」
私は、長年の風雨にさらされ摩滅した地蔵に手を合わせ、しばし瞑目する。
今やお助け茶屋もなく、往還する工女の足取りも絶えた峠のお地蔵様。
唯独り、峠の、そして近代日本の哀話を見守り続けた物言わぬ語り部。
野ムギ峠には、クマザサが初夏の涼風に揺れる音だけが、ただ、静かに響いていた。
『あゝ野ムギ峠 ある製糸工女哀史』真鍋和 著(初版あとがき) より
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最終更新:2011年12月15日 00:12