――ところで私は、後年、外国商人の専横に関連して、

紬社長の日本人離れした容姿について、
その生い立ちに絡めて次のような噂を聞いたことがある。


『横浜には開港以来、外商が数多く出入りしている。
  琴吹紬も、そんな外商と、それに遊ばれた町娘の間にできた私生児である』

そして、

  『その容姿や血筋から、
   汚い裏取引やコネでで外商の後ろ盾を得て、勢力を伸ばしたのだ』

あるいは、

  『不遇な少女時代を過ごしたが、刻苦勉励して、
   その身一つから大製糸家に成り上がったのだ』と。


あくまでうわさ話に過ぎない聞き取りであり、

まだ外国人への風当たりが強かった当時、
琴吹の商売敵が流したデマだったのかもしれない。

しかし、仮に後者の噂が真実とすればの話だが、

「生糸のせいで辛酸を極めた自らの生い立ちに重ねて、
 せめて生糸で稼いだ金で、工女たちには白いご飯を……」

ひょっとすると、そんな思いやりがあったのではないか。


こんなエピソードもある。


  「私は、琴吹で検番をしていたけれど、

   工女にだけは賃金不払いはしなかったわね。

    『それをしたら、次の年は工女が集まらなくて製糸ができなくなるから』って。

    理由はそれだけじゃなかったと思うけれど、ね。

    だから、紬社長は、影ではムギちゃんってあだ名だったけど、

    どんな苦労をしても工女には給金を出したわよ」


琴吹製糸場で検番をしていた山中さわ子が述懐する。


    「その分、私たちや出入りの業者が泣くわけだけど。フフフ……。

    そうそう。

    資金繰りに窮して、ムギちゃんがその長い金髪をかつら屋に売ったこともあったわね。

    ある朝、いきなりバッサリ髪を切って

    『今年は暑くなりそうだから、ちょうどいいでしょ?』なんて。

    女の命である髪を切っても涼しい顔をしていたけれど、製糸の経営者は偉いものね……」



――しかし、そのようなことは所詮、すべて後知恵である。

当時の若かった私は、製糸資本家の親玉、琴吹紬の立場を一顧だにしなかった。


  「では、“生糸王の夢”とやらのために、

   工女が死んでも構わないと?正義や人道など無視してもいいんですか?」

  「“暴れ馬”相手に正義や人道を振りかざしても何の意味もない。それが資本主義よ。

    真鍋さんの頭の中は、野ムギ峠の雪よりも赤く染まってるわね。真っ赤だわ」


溜め息混じりに、哀れむような目さえ投げかけてくる紬社長と、
私は全くかみ合わない問答を続けた。


  「……質問を変えましょう。

   投機的な製糸業でなく堅実な事業をしようとは考えないのですか?」

  「堅実な事業? そんなものが今の日本のどこにあるの?

    あるとしてそれで外貨を稼げる?

    工女たちに、故郷に帰って地道に農作業をして

    小作料を払って雑穀を食えとでも言うの?

    だいたい、投機で損をしても、他のことを考えるくらいなら、

    早く次の手を考えねばならないもの」


戦後になって、「貧乏人はムギを食え」と言って大臣の席を逐われた政治家がいたが、
それを先取りして、地で行くような紬社長の言葉だった。


猛烈な怒りがふつふつと、とめどもなく私の体内にわき起こる。


  「わかりました。“工女は投機の種銭、

   工女は事業の奴隷”と言いたいわけですね?」

  「それはちょっと訂正してもらいたいわね。
    工女だけでなく、製糸家自身もまた、投機の種銭、事業の奴隷なのだから。

    それとも、真鍋さんが工女たちに白米を食べさせてくれるの?

    私たちの生糸を買ってくれるの?

    製糸業は、ただの商売じゃない。欧米列強との闘いなの。世界との戦争なの。

    ……だから桜が丘では、製糸業のことを『生死業』というのよ」


冷たく輝く瑠璃のような瞳。

射抜くような視線を私に向ける紬社長に、
私は手帳を手汗で湿らせながら、憤懣を込めて睨み返した。


  「……そうなんだ、じゃあ私、社に戻るね!
   このことはしっかり記事にさせてもらうわ!」

  「なら、これ以上話すことはないわね。
   私も仕事に戻るわ。せいぜい頑張って、ブン屋さん」




ごう、ごう…、ごう……。


不意に、すぐ近くの作業場から響いていた機械の音が止まった。

そして工女たちのざわめき。

いぶかしげな表情で作業場の様子を見ようと歩き出した紬社長を、呼ぶ声がする。


  「社長、社長っ!水車が!天竜川の水車が!」


斎藤氏が、息を切らせてこちらに走ってくる。


  「どうしたの?早く案内なさい!」


そう叫ぶよりも早く駆け出した紬社長の後ろを、私もまた追いかけた。




───天竜川河畔、琴吹製糸場の水車場


紬社長、斎藤氏、そして私が駆けつけると、

工場の男衆が数名、冷たい天竜川に入り、

水車に引っかかった“物”を取り去る作業をしている。

しかしこれは、作業員も巻き込まれる危険のある恐ろしい作業だった。

川沿いには工女らがすでにぎっしり集まっている。


  「また身投げか、クソっ」

  「ええぃ、髪が引っかかって……髪を切るか?」


川に入った男衆が凍えながら相談していると、


  「髪を切ってはなりませんっ!」


そう叫ぶが早いか、一糸まとわぬ姿になった紬社長は、

身を切るような晩秋の天竜川に飛び込んだ。

紬社長自ら、水車にからんだ髪をほどいていく。

ほどき終えると、その“物”を抱いてかかえ上げる。

そして、川面へ。


まず、赤い着物が目に入った。

乱れた長い黒髪の間から、女の白い顔が浮かび上がった。

紬社長は、その女のなきがらを抱き上げながら、

額にかかった黒髪をかき分け、その顔を見つめる。

紬社長の眼差しは、

天竜川の深みの水よりも、青く、そして深く、沈んでいた。


  「……あ!あの黒髪!」

  「ア、アヅサだ!アヅサだッ!」


そう叫んで、リツとミヲが泣き崩れた。

どこかよその工場の者であってくれと

見守っていた彼女たちの願いは、完全に裏切られた。

叫びは他の工女たちに広がり、

そのまま名状しがたい嗚咽に変わって、天竜河畔をゆさぶった。



しかし、男衆たちは、


  「厄介をかける女だ。何も水車に飛び込まなくても。まったく大損だ!」

  「さあ、仕事に戻るんだ!早く工場へ入れ!」


ところが誰一人、工場に戻る者はいなかった。

そして返事の代わりに、どこからともなく怒号が上がる。


  「人殺し!人殺しぃッ!」


リツだ。


  「アヅサはお前が殺したんだ!ユヰだってお前が殺したんだ!この金髪鬼!」


紬社長は、浅瀬でアヅサの骸を抱きあげたまま鋭くリツを睨み返すが、

リツは河原の石を投げつけながら、あらん限りの罵声を紬社長に浴びせる。


  「二人を返せ!ゲジマユの毛唐もどきが!

   人の皮を被った沢庵め!血も涙もねえのかよ!何とか言えっ!」


他の工女たちも、怒号を上げ、あるいは小石を投げ始める。

そしてリツの投げた石ころが、紬社長の額を打ちかすめる。

身じろぎどころか、まばたきさえせず受け止めた紬社長の額から、

つう、と一筋の血が流れる。


  「……社長が危ない!仕方ない、取り抑えなさい!」


斎藤の号令一下、男衆や検番たちが工女たちを追い立てる。

工女たちの怒号は悲鳴に変わる。

中には、張り倒される者、足蹴にされる者。河原は騒然とした。



  ………♪君を見てゐるとォ~ 何時も心臓 動悸 動悸ィ~」



逃げ惑う工女たちと、追いたてる工場の男衆たちの修羅場の中から、

不意に澄んだ糸引き唄が聞こえてきた。

工女たちは逃げ回る足を止め、工場の男衆たちは振り上げた拳を止める。


  「♪揺れる想いは 淡雪みたいに 浮惑 浮惑ァ~」


工女たちも、工場の社員たちも、そして私も、

歌声の出どころを探し、その視線が一点に集まる。

ミヲだ。ミヲが肩を震わせつつ、目を閉じて天を仰ぎながら歌っている。


  「♪何時も頑張るゥ~」 「♪何時も頑張るゥ~~」

  「♪君の横顔ォ~」 「♪君の横顔ォ~~」


拍子を合わせて声が重なる。リツだ。

たった今、工場の男衆に殴られて唇の端が切れているが、お構いなしに声を張り上げる。


  「「♪ずっと見てゐてもォ~ 気付かないでねェ~」」

  「「♪夢の中ならァ~」」  『♪夢の中ならァ~』


  『「「♪二人の距離ィ~ 縮められるのになァ~」」』


工女たちの群れの中から、にわかに糸引き唄の合いの手がわき起こり、

そして、徐々に数を増やし、勢いを得ていく。


  『『♪あぁ 神様お願いィ~ 二人だけのォ~ 夢見心地下さいィ~』』


  『『『♪お気に入りのうさちゃん抱いてェ~ 今夜もお休みィ~』』』


  『『『『♪浮惑浮惑待務 浮惑浮惑待務 浮惑浮惑待務…………』』』』


私は、いや、工場の社員も、紬社長も含めて皆、

ただただ呆然と、その歌に耳を傾けていた。


鎮魂歌とも抵抗歌とも知れぬ、数百の工女たちの哀しき糸引き唄は、

天竜川の流れに乗って、また諏訪湖の湖面に染み渡って、桜が丘の村中に響いた。



その時、私は見た。

凍るような浅瀬に足を浸し、

アヅサの骸を抱き上げたままの紬社長の目から、一筋の雫がこぼれるのを。

そして、紬社長の口が、工女たちの糸引き唄にあわせて、かすかに動くのを。


当時は思いもよらなかったが、紬社長のその姿を今になって回顧すれば、

ただ睫毛に含まれた川水が滴っただけだったのだろうか。

ただ唇が寒さに震えただけだったのだろうか。

現在の私にはそうは思えない。

しかし、もはや紬社長の胸中を知る術はない……



『シャッ金ガマダオワラズ  申シワケアリマセン  オヤ不孝ヲオユルシ下サイ

  ミヲネエサン  リツネエサン  ヨクシテクレテ  アリガトウゴザイマシタ

  オ先ニ  ユヰネエサンニ  会ツテキマス

  ワタシノカラダハ  モウダメデス  サヨウナラ         アヅサ 』


アヅサの行李の中には、稚拙なカタカナの遺書が、一通残っていた――――


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