――その数日後


青白い月が諏訪湖の湖面にその姿を映している。

八ヶ岳から寒風が吹き下ろし、女が咳き込む。

湖のほとりに立つ女の顔は、月よりもさらに蒼白で、そして痩せ衰えている。


  「ケホッ、ケホッ」


口元を押さえた袖口に、赤い血が染みる。


アヅサは、心身共に疲弊しきっていた。


親の薬代のためとはいえ、昼は工女の重労働、
夜は女郎というような生活が、成り立つわけがない。

過労と睡眠不足で糸引きの能率はガタ落ち、
年末に貰えるはずの給金は減らされ、罰金まで取られる。

そして焦って、夜中に抜け出して女郎屋に転がり込み、
寝る間もなく客を取る。さらに疲労する。

結局、その身を売ってまで稼いだ金よりも、
工場の減給と罰金のほうが多くなる、という悪循環。

体調まで崩して病気になり、この喀血。おそらく結核であろう。


  「私も、ユヰねえさんみたいになっちゃうんだろうなぁ……」


ふところに入れた紙包みから、
鯛焼きを取り出すと、まだほんのりと温かい。

なけなしの小銭で、生まれて初めて買った鯛焼きは、
こんなものがこの世にあるのかというほど、甘く、旨かった。


  「ああ、おいしかった……」


その甘みの余韻を噛みしめ終わると、
アヅサは、しずしずと諏訪湖に映る月影に分け入ってゆく。




そのころ、東京の帝国ホテルでは、
各界名士を招いて「生糸輸出世界一大祝賀会」が盛大に催され、

我が国の蚕糸業界の前途を称える祝辞が述べられ、
絹の衣をひるがえして華やかな舞踏会も開かれていた。


この年、わが国の生糸生産高は、
実に8,372トンと先進国イタリア、
中国をはるかに引き離して世界総生産高の34%を記録。

輸出金額も1億3,300万円と、
これまた我が国輸出総額の約1/3を占め、
明治政府の基礎はもはや揺るぎないものになっていた。


また、横須賀では国産戦艦第一号「薩摩」が完成。

巷では女子学生の派手なリボンとハイカラ節が流行、
また、浅草へ行けば活動写真が人気に湧いていた。


どれもこれも、野ムギ峠や桜が丘とは、あまりにも遠い国の出来事であった。




――同時期、長野県下のある新聞が、
  「桜が丘製糸気質(かたぎ)」と題して次のような記事を載せたことがある。


  『桜が丘製糸の歴史は古く、幾多の経営難を切り抜け、今日の繁栄に及んだ経営者は、

    実際に我が身の肉をそぎ、骨を削り、そしてそれを製糸業という祭壇に供えたであろう。

    彼ら自身でさえ奴隷の如く事業にひざまづいてきたのだから、

    工女を人身御供とすることなどは、彼らには事業への忠誠心の発露でしかない。

    この特殊化された「桜が丘製糸気質」の人間性を、彼らは死守せんとしている』

そして、

  『目覚めよ!製糸業は、人道と社会正義に基づく事業として更生せよ!』と結んでいる。


この正論には、おそらく誰も異論を挟む余地はない。

ただ、当時そんな「人道と社会正義に基づく製糸業」というものが企業として成立し得たか疑問が湧く。

また、「企業として成り立つか否かは問題ではない。人道に基づかないものは成り立たなくてもよい」
という意見だとすれば、ますます疑問が湧く。

これらの疑問に答えるためには、どうしても、製糸業とはどういうものか、

また、当時製糸業がどんな環境下にあったか、そんな環境下での「桜が丘製糸気質」とは何であったか、

“女工哀史”とは何であったか、それらのことをなるべく客観的に把握することが先決である。




――信州桜が丘、琴吹製糸場、ある朝。


  「あっ……糸が、切れた」


この日、ミヲの糸引きは絶不調だった。山中検番からも目を付けられっぱなしである。
無理もない。昨晩から朝になってもアヅサが工場に帰ってこないのだ。

それでもお構いなしに一日の作業が始まる。
心配ばかりする余裕はないが、心配するなというほうが難しい。

見かねたリツがミヲを気遣う。


  「おいミヲ、気持ちはわかるけど、集中しろ。私はお前のことも心配なんだ……」

  「ごめん、わかってる。でも、ユヰに続いてアヅサまで何かあったら……」


ごう、ごう…、ごう……。



と、その時突然、工場のシャフトが止まった。工女たちは思わず辺りを見回す。


  「どうしたんだ?リツは今日、機械の点検するとかって話、聞いてる?」

  「そんな話、私が聞いてるわけないじゃんか!」


すると、廊下から検番頭と山中検番の大声が聞こえてきた。


  「おい!水車!水車が!山中も早く来い!」

  「何ですって?すぐに行きます!」


リツがミヲを促し、他の工女もつられて作業場の外に走り出て水車場に向かう。


  「……行こう!」

  「うん!」

  「あ、こら!工女は出ちゃダメよ!」


工女たちの人波は、山中検番たちの止める声でも制止できない。




――同日、やはり信州桜が丘、琴吹製糸場。


当時、新米の新聞記者だった私は、琴吹製糸場に赴いていた。

若かった私は、工女たちの窮状を取材して
製糸資本家を糾弾すべく、意欲に燃えていたのだ。


製糸場敷地の入口近くで、素ワラジに法被、手拭いでほおかぶりをした人足が、
重さ十貫目はあろうかという繰糸釜を、右へ左へ汗一つかかずに運んでいる。


  「すみません、紬社長にお会いしたいのですが」


他に工場の人間らしき人もいなかったので、私が人足に声を掛けると、
予想に反して、うぐいすの鳴くような声が返ってきた。


  「社長は私ですが、何か用かしら?」


人足がほおかぶりを外すと、
金色の長い髪が日の光を受けながらこぼれ落ち、青い瞳が私を見返した。


明治の頃には、幾千幾万の工女を抱えた大工場の社長であっても、
社長室で葉巻をくわえて座っているのではなく、
桜が丘のリーダー格の琴吹紬以下誰もが、自ら工女の先頭に立って働いた。

工女より早く起きて、
水車に事故が起これば凍った天竜川に飛び込んで修理し、
釜に火を焚き、真っ黒になって煙突掃除もした。


思いがけず紬社長に遭遇した私は面食らった。


  「……これは失礼しました。私はこういう者です」

  「ふぅん、信濃毎日新聞の真鍋さん、ね。で、何の用、ブン屋さん?」


しかし、気を取り直して名刺を渡すと、
悪の権化と対峙するかのように、質問の矢を発した。


  「毎日朝も早くから夜更けまで、若い工女たちを酷使して暴利を得る。
   人の生き血をするるような所業に、良心は痛まないのですか?」

  「そんなことは、よそ者には理解できることじゃないわ。
   製糸業というものは、企業というよりも相場師だから。

    ……私、生糸王になるのが夢だったの」


私の、単刀直入を通り越して無礼ですらある質問を、紬社長は一笑に付して切り捨てた。


――開国以来、生糸は我が国随一の輸出品だった。

しかし、生糸相場は乱高下する“暴れ馬”で、これを乗りこなせる者はいなかった。

生糸王と呼ばれた琴吹紬でさえ、かつてこの“暴れ馬”のため破産に瀕し、
自らの身を質に入れて融資を受け、ようやく危機を切り抜けた話は、その筋では有名である。


信州の生糸の値段は、横浜市場に振り回され、
その横浜市場は、ニューヨーク市場に振り回されたのである。


特にひどい例を挙げよう。
大正八(1919)年から大正九(1920)年の“暴れ馬”。(出典:参考文献313頁)


 <大正八(1919)年>

  1月 : 1,270円
  3月 : 1,490円
  5月 : 1,900円
  9月 : 2,200円
  12月 : 3,400円

空前の好況。林立する製糸工場の煙突からの黒煙が、
桜が丘の空を覆い、「桜が丘のスズメは黒い」と言われた。
翌年の正月に入ると、ついに史上最高の4,370円に達した。


 <大正九(1920)年>

  1月 : 4,370円
  2月 : ニューヨーク株式市場の大暴落。市場休止
  3月 : 沈滞混乱
  4月 : 3,300円
  5月 : 1,800円
  6月 : 1,300円
  7月 : 1,000円
  8月 : **900円
  9月 : 帝国蚕糸会社が保証買い上げ開始(1,500円)
  10月 : 1,000円~1,200円での投げ売り続出


しかし2月、ニューヨーク株式市場は大暴落。
これをきっかけに、生糸も記録的大暴落が始まった。

生糸の値段はたちまち1,000円台さえ割ってたったの900円。

9月1日、政府は帝国蚕糸会社を設立、1,500円を保証買い上げと決定。

しかしニューヨーク市場は依然沈滞し、帝国蚕糸会社も政府の資金不足で買い上げが進まず、
堪えきれずに安値で投げ売りするものが続出した。

しばらく待てば帝国蚕糸会社が1,500円で必ず買い上げてくれるのに、
資金繰りが苦しくて待てないのである。



――さらに、この“暴れ馬”には、もうひとつ厄介なオマケがついていた。

それは、威嚇と奸智で取引を進める外商(外国商人)の専横である。


不平等条約下の明治の貿易というものが、どれほど残酷で非人道的であったか。

目方を測る手数料は負担せず、そのうえ目方をごまかす。
また、あらゆる難癖をつけて、送料も払わず返品、
そして代金の踏み倒し、一方的な契約破棄……

西欧人はヒューマニズムを持ち込んだが、
その西欧人本人は、およそヒューマニズムとはかけ離れている者が多かった。

明治四十三年の条約改正まで、この屈辱的、
植民地的外商支配は、半世紀にわたって続いたのである。



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