―――五月。

春びきが終わって夏びきに入る前、
田植えの頃、就寝前の僅かな息抜きのときである。

リツ、ミヲ、ユヰ、アヅサの四人が、着物に繕い物をしながら話している。


  「ミヲ、今年の田植えはどうする?私は飛騨に帰るけど」

  「ごめん、帰りたいのはやまやまだけど、
   お前は糸引きで稼いでくれってオッカ……お母さんから手紙が」

  「そっか……。ミヲは腕が良いから、
   そのうち“百円工女”になれるかもなぁ。ユヰはどうすんの?」

  「私は帰るよ~。ウヰにも会いたいし!」


  「……あ、私、今年は田植えに帰ります」

アヅサが言うと、ユヰが驚く。

  「アヅにゃん、田植えするの?去年は帰らなかったのに?」

  「へぇ~、新工だったくせして去年の稼ぎで田んぼでも買ったか?」

リツが冷やかし半分で茶化すと、アヅサが溜め息まじりに返す。

  「えぇ、まあ、そんなところです。
   リツねえさんは茶化してる余裕があるんですか?」

  「何だと中野ぉ!こうしてやる~!」

  「あ、リッちゃんズルい!私もアヅにゃん分補給!」

  「や、やめてください!」

リツとユヰがアヅサにじゃれつくが、ミヲは不穏な空気を感じ取った。

  (新工の稼ぎなんかで、田んぼを買えるのか……?) 

以前に、アヅサから
「金を飛騨の親元に送るにはどうすればいいか」と相談を受けていたからである。

ひとまず「為替を使えばいいのではないか」と教えたものの、
為替で送るほどの大金を、
年の瀬の給金以外にどうやって年浅いアヅサが工面する気だろう。

アヅサが夜中に便所と称して
寝床をしばしば抜け出すことも考えると、行き当たる結論は……




――飛騨のとある貧村、平沢家


  「ウヰ~、ごはん~」

  「ごはんなんか食べられるわけないでしょ。今日もヒエ粉だよっ」


あばら屋の軒下でノビているユヰを、
ウヰが額の汗を泥だらけの手で拭いながら叱る。

やはり、米の飯など当時の小作農にとっては贅沢なことなのだ。


  「おなかすいた~、だるい~、暑い~」

  「めっ!お姉ちゃん、
   早く田植え終わらせないとダメだよ!日が暮れるよ!」

  「わかったよぉ。あうぅ~……」


ようやく重い腰を上げたユヰに、しかし、ウヰは優しい眼差しを送る。


  (でも、家でゴロゴロしてるお姉ちゃん、かわいい!)




――また別の山村、田井中家


  「あーあ、朝から晩までキツい野良仕事。
   姉ちゃん、オレも工女で糸引きに行きてぇよ~」

  「お前は男だろ!
   アホな愚痴言わないでちゃっちゃと田んぼをやってろっつーの」


こちらの村でも、リツと聡が田植えをしている。

口を動かす以上に体を動かしているのはさすがであるが、
そうでもしないと田植えが終わらないのだ。


  「せめて米のメシを食わしてくれればなぁ」

  「軍隊行けばもうちょいマシなもん食わしてもらえるぞ。
   それまで我慢しろって」



――後年、聡がリツに宛てた手紙に、こんな一節があった。


  『軍隊へ来ては気楽なものです。

    忙しいときもあるけど、

    それでも家の忙しさに比べたらはるかに楽です。

    朝の起床は六時で、多忙な農村のことを思うと

    恥ずかしくて人様には言えません。…(略)…』




―――その数日前、野ムギ峠。

ユヰやリツに気付かれないように、
アヅサは何喰わぬ顔で桜が丘の工場を発ったが、険しい野ムギ峠だけはごまかせなかった。

すぐ後から行くと偽り、二人には先を急いでもらうと、彼女は一人峠にさしかかった。

もう、三ヶ月も“おりもの”がないのだ。

怪しい闇医者から貰った薬を、ヒマシ油で一気に飲み下す。

しばらくして突然、激しい腹痛が彼女を襲って、その場にしゃがみこませた。

アヅサは本能的によろよろと立ち上がり、
深いクマザサの中に分け入り、そこにうずくまったが、
引き続いて起こった激しい苦悶に失神した。

それからどれだけの時がたったか、
ふと彼女は朦朧とした意識の中で誰か人の声を聞いた。

体は血によごれていた。

苦悶の声に気付いた、峠のお助け茶屋のとみ婆さんは、
クマザサの中に入って仰天した。


  「お、いたわしや、いたわしや……娘こ、
   このババが来たからにゃもう心配するな……
    ワシは誰にも言わぬ、誰にも話さぬ、心配するな。
    さ、ババにおぶされ、さあ、さあ」


アヅサを見つめたとみ婆さんのやさしい目は、
女の悲しみ、世間の苦悩を何もかも知り尽くしているような深い愛情に満ちていた。


  「……うぅ、うわああぁぁぁっっ!」


アヅサは思わずとみ婆さんの胸にしがみついて泣いた。




お助け茶屋で一夜を明かしたアヅサは、
飛騨ではなく信州桜が丘へ、とぼとぼと戻っていった。

親元へ帰ったところで、どのように言いつくろえばよいのか。


  「ミヲねえさん……」

  「おかえり、アヅサ。明日も早いからな。早く寝るんだぞ……」

  「……はい」


ミヲは、アヅサが田植えをせず戻ってきた理由を訊かなかった。

その様子から察して訊くまでもなかったし、

訊いたところでアヅサが答えはするまい。

ましてや止めることなど、寒村の恐るべき貧しさに対しては無力すぎた。



そして、アヅサは、夏が過ぎ……


  「アヅにゃんにゃん!アヅにゃんにゃん!」

  (ああ……これでお金が……)


秋が深まり、冬の気配がしはじめても……


  「アヅにゃんペロペロ!ペロペロ!」

  (親に送るお金が……手に入る……)


昼は工場で働き、晩は宿舎を抜け出して夜鷹に身をやつす、
そんな工女もいたのである―――




―――晩秋。


  『ユヰビョウキスグヒキトレ』


ウヰは、琴吹製糸場からの電報を受け取ると、
休み無しに歩き通して、たった二日で桜が丘にたどり着いた。

病室へ入ったウヰは、はっとして立ちすくんだ。

天真爛漫で明るかった姉ユヰの面影は、やつれはてて見る影もなかった。
どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。

病名は腹膜炎、重態であった。

田植えで帰郷したときも妙にだるそうにしていたが、
糸引きで疲れているのだろうと思っていた。

「家でゴロゴロしてるお姉ちゃんかわいい!」
などと思っていた自らの浅はかさを、悔やんでも悔やみきれない。

もっとも、病気とわかったところで、医者にかかる金もなかった。


工場の事務員がウヰを呼んで十円札一枚を握らせると、
「早くここを出してくれ」とせき立てた。
工場内から死人を出したくないからである。

ウヰは憤激して何か言い返そうとしたが、ユヰが制した。


 「ウヰ、もういいよ……早く帰ろう?」


ウヰは、ユヰが静かに飛騨に帰りたがっているのだと、すぐに察した。


作業時間中で、仲間の見送りもなく、
ウヰは痩せ衰えて軽くなったユヰを背負うと、ひっそりと裏門から出た。

ウヰは悲しさ、くやしさに泣き叫びたい気持ちをこらえて、ただ下を向いて歩いた。


松本の病院へ入院させるつもりだったが、
「飛騨へ帰る」というユヰの気持ちは変わらなかった。
しかたなしに、ウヰは野ムギ街道を幾夜も重ねて歩いた。

その間、かつていくら食べても太らないと豪語していたユヰは、
ほとんど何も食べなかった。


ウヰは、姉ユヰを元気づけるため、
声が詰まりそうになりつつも、教えてもらった糸引き唄を歌う。


  「♪君を見てゐるとォ~ 何時も心臓 動悸 動悸ィ~」

  「うん……たん……うん……たん……」


するとユヰは、ウヰの肩に掛けた手で力無く拍子を取るのだった。

不意に、ユヰが弱々しく歌い出す。


  「♪君が居ないと何も出来ないよ~……君のヒエ粉が食べたいよ~……」

  「お姉ちゃん……。帰ったらヒエ粉じゃなくて
   ご飯をたくさん食べさせてあげるよ。栄養付けよう?」

  「♪もし飛騨に帰ってきたら とびっきりの笑顔で抱きつくよ~……」

  「大丈夫だよ、私はここにいるから……っ」


ウヰの胸は張り裂けんばかりであった。




こうして、野ムギ峠の頂上にたどり着いたのが
十一月二十日の午後であった。

ウヰが峠のお助け茶屋に休んでソバがゆと甘酒を買って、
ユヰの手に持たせると、細い声で、しかしはっきりと、


  「ありがとぉ、ウヰ」


とユヰは微笑みかけた。

が、それきり食べ物に口を付けず、


  「ああ、飛騨が見えるぅ、飛騨が見えるぅ~……」


と喜んでいたと思ったら、
まもなく持っていたソバがゆの茶碗を落として、力無く崩れ落ちた。


  「お姉ちゃん!どうしたの!?しっかりしてッ!!」


ウヰが驚いてユヰを抱き起こしたときには、すでに事切れていた。


――明治四十二年十一月二十日午後二時、
  野ムギ峠の頂上で、一人の飛騨の工女がこうして息を引き取った。



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