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┃諸注意┃
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『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』(山本茂実 著 1968年初版)の内容を元にしている
- なお、上記原著を知らなくとも読みうるよう、最低限配慮したつもりである
全体的に(特に後半は)重く暗い話であるから、苦手な人は読まないこと
【まえがき】
───明治から大正にかけて、
これは飛騨と信州を結ぶ、野ムギ峠にまつわる哀話である。
もうだいぶ古い話になるが、私は死んだバア様からよくこの野ムギ峠の話を聞いた。
もっとも、バア様はこれを“ノムギ”と発音せず、
いつも“ノウミ”と言っていたから、
後で日本アルプスの地図を広げていくら探しても、
どこにもそんな名の峠は見つからず閉口したことを覚えている。
何でも、バア様の話によると、そのクマザサにおおわれた峠を、
幾千幾万とも知れないおびただしい数の製糸工女たちが下って、
そこから信州(現在の長野県)桜が丘方面の工場へ向かった。
若い娘たちのこととて、その賑やかさは、
騒がしくも華やかにも見える行列が、幾日も幾日も峠から桜が丘へ続いた。
五月、春びき(春の糸引き作業)が終わると田植えに帰り、
またすぐに夏びき(夏~冬の糸引き作業)に出かけ、
暮れ迫る十二月末には吹雪の峠道を
飛騨(ひだ。現在の岐阜県北部)へと帰っていったという。
しかし、避妊具も普及していなかった当時のことで、
数多い女たちの中には、身籠もって帰る女も少なくなかったらしい。
彼女らは誰にもそれを打ち明けられず、
小さな胸を痛めながら、みんなの後に続いていくが、
険しいアルプスの峠道はあくまで非情にこれを阻み、
脂汗をにじませ、よろよろと列を抜けてササ藪にうずくまり、そこに肉塊を産み落とした。
さいわい丈余のクマザサはこの女の苦悶をやさしく抱擁してくれたが……
やがて肉塊は赤い腰巻きに包まれたままササの根元に葬られた。
来る年も、来る年も……
そして誰がいつごろ建てたものか知るすべもないが、そこに小さな地蔵様が建ち、
誰とはなく“野産み峠”と言うようになった、と、これはバア様の話である───
(まえがき 終) [註:原著10~11頁を一部改めた]
――工女の朝は早い。
時は明治、信州は諏訪湖の近く、
天竜川沿いの桜が丘村、午前四時半。まだ外は暗い。
起床の汽笛が鳴り響く。そして検番たちの怒声。
六百釜を擁する琴吹製糸場第一工場のボイラーに火が入る。
熱湯の煮えたぎる釜からは、蚕繭がむせ返るような臭いを立て始める。
前日の延長夜業の疲れも取れぬ工女の一人がワラ布団に顔をうずめたまま呟く。
「ああ、また一日が始まる…」
少女の名は、中野アヅサ。
彼女はこの年初めて飛騨から桜が丘に来た、いわゆる新工である。
親元を離れ、野ムギ峠を越えて、この信州の製糸場に出稼ぎに来ている。
そして、この製糸場、いや、桜が丘には、同じような工女が何百、何千といた。
「アヅサ!早く起きないと検番さんにどやされるぞ!」
「は、はい!すみません!」
素早くワラ布団から飛び起きた先輩工女が、
つややかな長い黒髪を後頭部で束ねながら叫ぶ。
彼女は、秋山ミヲという。同じく飛騨の出身。
すでに周囲は蜂の巣をつついたように、工女たちが走り回っている。
無理もない。始業に遅れれば、
たちまち検番(=工場の作業場の監督)の罵声が容赦なく飛んでくるのだ。
「こら!起きろ!ユヰ!」
「リッちゃ~ん、眠いよぉ~」
すぐそばで、先輩工女同士の似たような問答が繰り広げられているが、
これも毎朝のこと。
一人は田井中リツという。
額の前髪をかき上げて櫛歯の髪留めで留めた小柄な工女が、ユヰを揺さぶる。
もう一人は、平沢ユヰという。寝床の中で髪挿しを前髪に差して留めている。
いづれもやはり飛騨からの出稼ぎ工女である。
起床の汽笛からわずか十分後。製糸場のとある作業場。
「お前らが来るのを待っていたぁ~!!さっさと持ち場に着けぇ~!!」
“死の悪魔”と恐れられた山中検番である。
検番の怒鳴る大声が響きわたる。
というよりもむしろ製糸工場の朝はこの検番の怒号に始まるといったほうがいい。
ここのところ毎晩十時まで作業が続いたため工女の疲れはとれず、
生産能率はガタ落ちしていた。
「リッちゃん、さわちゃんがまた朝から荒れてるよ?」
「あの日なんじゃん?いや、いつものことか」
「おいおい、口よりも手を動かせ。また怒られたらたまらないぞ!」
「はい、やってやるです!」
また今日も死闘する工場内の一日が始まったのである。
八ヶ岳が暗紫色から橙色に変わり、諏訪湖の湖面は白みかけても、
そんな窓外の景色に気付く工女はもちろん一人もいなかった。
――やがて誰からともなく、糸ひき唄が始まる。
この糸ひき唄が彼女たちなりの、ささやかな反抗であり、楽しみでもあった。
「♪君を見てゐるとォ~ いつも心臓 動悸 動悸ィ~」
(筆者註:“君”は作業場を巡回する検番を指し、
その一挙一動に心臓が動悸をするほど工女は戦々恐々としたという。
厳しい叱責は日常茶飯事で、
罰金も検番のさじ加減一つだったから、それは切実な気持ちであった)
「♪揺れる想いは 淡雪みたいに 浮惑 浮惑ァ~」
(筆者註:前述の検番に対するおののきと、故郷への郷愁に心揺れる様を表す。
桜が丘には、飛騨の他、甲斐、越後、
もちろん信州内の各地からの出稼ぎ者も多かった)
「♪いつも頑張るゥ~ 君の横顔ォ~」
(筆者註:検番や検糸係が、工女の仕事ぶりや紡いだ糸のあら探しに精を出す様子を、
“頑張る”と皮肉を込め慇懃に揶揄している。
しかし、検番や検糸係も、手落ちがあれば社長に叱責されるし、
自分たちの首がかかっているから必死であった)
「♪ずっと見てゐてもォ~ 気付かないでねェ~」
(筆者註:ずっと続く厳しい見張りや検査に対して、
どうか私の手落ちに気付かないでくれ、という工女たちの思い。
細い糸ほど高級とされたが、切れやすくて紡ぐのが難しく、
工場からの相反する要求に工女たちは四苦八苦した)
「♪夢の中ならァ~ 二人の距離ィ~ 縮められるのになァ~」
(筆者註:“二人”とは、それぞれ、歌い手の工女と、
各作業場に一人はいた、男顔負けに稼ぐ「百円工女」とを表す。
工女同士の賃金格差つまり”二人の距離”も極めて大きくて縮めようもなく、
まさに嫉妬と羨望の混じる夢物語であった)
「♪あぁ 神様お願いィ~ 二人だけのォ~ 夢見心地下さいィ~」
(筆者註:「百円工女」に比肩するような稼ぎ、
つまり二人目の「百円工女」になりたいという夢のような願望である。
工女の娘が持ち帰る出稼ぎ代で何とか暮らす貧農も多かったから、
神様にもすがる願いを抱いても無理はない)
「♪お気に入りのうさちゃん抱いてェ~ 今夜もお休みィ~」
(筆者註:だが、ほとんどの工女たちにとっては、
その願いが叶うことはあり得ず、糸検査の厳しさに泣いて、
寸暇を惜しんでボロの端切れで作ったウサギのぬいぐるみを涙に濡らしながら、
寝床に就くのが常だったのである)
「♪浮惑浮惑待務 浮惑浮惑待務 浮惑浮惑待務…………」
(筆者註:翌日の務めに備えて、ワラ布団の中で、
帰郷する日を夢見ながらまどろむことだけが、彼女らの唯一の慰めであった)
これは、俗に『浮惑浮惑待務(ふわふわたいむ)』と称される糸引き唄である。
元工女の方々に吹き込んでもらったカセットテープから、その一部を抜粋した。
他にも多くの糸引き唄があるが、紙幅の都合で全てを紹介出来ないことが悔やまれる。
もっとも、ボイラーの燃えたぎる音、繰糸鍋の湯が煮え立つ音、
糸繰り機や糸巻きの、小枠、滑車、シャフトの機械音。
これらに妨げられて、隣の工女同士でもやっと聞こえるかどうかの歌声だったそうだが……
最終更新:2011年12月15日 00:00