唯「おかえりー」
憂「“ただいま”だよ、お姉ちゃん」
唯「そっかそっか、ただいまー」
和「ていうか、トイレ行ってきただけでしょ」
笑う二人に、私は心の中でにんまりとした。
唯「ね、憂ー、はちみつってうちにあったかなぁ」
憂「え、多分あると思うけど……」
唯「えー? でもさっきキッチン探したけどなかったんだよー」
和「紅茶に入れるの?」
唯「うん、こないだムギちゃんが出してくれたお茶に入っててね、おいしかったんだぁ」
唯「でも、見つからないんだよー」
憂「あ、じゃあ私とってこようか?」
唯「悪いね憂ー」
憂「いいよー。今度はわかりやすい場所に置いておくね」
憂はぱたぱたと出て行った。
ここまでは作戦どおりだ。
和「憂はほんとに働き者ね」
唯「うん。んー? あれ、なんだかこの部屋暑いねー」
和「そう?」
唯「そうだよ」
にこにこ頷きながら、私はTシャツを脱いだ。
和「な、なにやってるのよ」
唯「あっついんだもん」
和「だからって……」
私はブラジャーのホックにも手をかけた。
和「ちょっと唯……!」
唯「女の子同士なんだし、だいじょうぶだよー」
和ちゃんは目をそらしている。
けいおん部のみんなとは合宿のお風呂を一緒に入ったりするけど、和ちゃんに裸見られるなんてものすごい久しぶり。
でも別に恥ずかしいという感情もなかった。
ただ、和ちゃんの反応が面白い。
唯「へへ~、和ちゃーん」
和「ちょ、ちょっと……」
笑いながら抱きつくと、和ちゃんはもっと顔を赤くした。
憂「お姉ちゃん!?」
はちみつの小瓶を持った憂が固まった。
憂「な、なにやってるの」
唯「ん? べつに、ちょっと暑いだけだよ」
憂「の、和ちゃん……」
和ちゃんは憂の声なんて聞こえてないみたいに、顔を真っ赤にして、抱きつく私を押し返していた。
もうひとおし。
もうちょっとからかってみよう。
私は和ちゃんに軽くキスをした。
和「!」
その瞬間、世界が反転した。
唯「え?」
和「唯……」
カーペットに押しつけられた腕が痛い。
唯「和ちゃん?」
覆い被さってくる和ちゃんは、私の知ってる和ちゃんじゃなかった。
唯「ちょ、ちょっとー」
和ちゃんの顔が近づいてくる。
唯「え? ほんとに……え?」
体格差のせいなのか、動揺のせいなのか、身動きが取れない。
和「ゆい……ゆいっ、私は……っ」
首筋を生温かいものが伝う。
唯「や、やめて……」
こわい。
こわいこわいこわい。
遊び半分だった。ただふざけたかっただけなのに。
ちょっとした嫉妬だったのに。
唯「う、ういっ……」
助けを求めようと憂のほうを見た瞬間、私はぞっとした。
――憂は、まったくの無表情で、私たちを見下ろしていた。
――いや、“私たち”じゃない。“私”を、だ。
和ちゃんの気持ちと、そして憂の気持ちをもてあそんだ私に、怒るでもなく、悲しむでもない。
和ちゃんを止めもしない。
ただただ傍観していた。
自業自得。
軽率。
無神経。
『裏切り者』
全く動いていないはずの憂の口が、目が、語っているような気がした。
唯「……っ」
さぁっと血の気がひいた。
抵抗を試みていた腕も足もなにもかも、力が抜けた。
すると、ハッとしたように和ちゃんが目を見開いた。
和「あ……、わ、私……っ」
蒼白の顔で和ちゃんがずれ下がった眼鏡を正す。
そしてさっき私を力一杯押さえつけていたのが嘘のように、素早く立ち上がった。
和「ごめんなさい、帰る」
床に仰向けで放心する私を見ないまま、和ちゃんはバタバタと出て行った。
バタンと閉められたドアの音だけが、部屋に残る。
その間も、憂はちっとも動かなかった。
唯「あ……」
起き上がろうとしたら、手首がズキンと痛んだ。
いまさらながらに怖くなった。
あのままだったら私はどうなっていたんだろう。
でも、それよりも、憂の視線が怖い。
唯「あの、憂」
下着を着けて、Tシャツを着て、私はずっと同じ場所に立ったままの憂に声をかけた。
唯「あの、わたし」
憂「お姉ちゃん」
憂「片付けようか」
唯「う、ん」
頷いた私のほうをチラリとも見ずに、憂はいつものとおりに手際よく食器や残りのケーキをを片付けた。
表情は無かった。
そのあいだ私はなにも言えなかった。
ただ憂が働いているのをまごまごしながら見ているだけ。
憂「お姉ちゃん」
唯「え?」
憂「なんでもないよ」
憂は口の端だけ引き上げて、笑ったように見せた。
憂がいまどんな気持ちでいるのか、わからないし、わかるのが怖い、
結局、私のした悪戯は、後悔しか残さなかった。
おわり
最終更新:2011年11月13日 00:20