唯「どうしよう~。道、わかんなくなっちゃったよ」
ある日、学校帰りの唯は「たまには趣向を変えてみよう!」
といつもとは違う道で家に帰ろうと試みたところ、道に迷ってしまった。
憂『お姉ちゃんはすぐに道に迷うから、一人のときはまっすぐ帰ってこないと駄目だよ?』
妹の忠告を思い出すが、今となってはもう遅い。
唯「こんなことなら、澪ちゃん達や和ちゃんと一緒に帰ってくるんだったよ~」
わからないながらも勘を頼りに歩を進めた唯は、やがて大きな十字路に行きついた。
唯「あれ?」
唯「う~、怖いよ~……。ギー太……」
唯は恐怖心を紛らわすかのように背負ったソフトケースの中のギターに語りかけた。
勿論、返事などかえってくるはずもないが、その時であった。
?『お前、ギターを弾くのかい?』
唯「えっ」
突然、聞こえた声に唯は身を固くした。周囲には人の姿など見えない。
?『お前だよ、お前。そこのちょっと抜けてそうなお嬢ちゃん』
唯「え、えーっ!?」
そして突如目の前に陽炎のように現れた人影に、唯は思わず絶叫した。
?『いきなり叫ぶなんて失礼だな』
唯「う、う、う、う……浮いてる……」
?『浮いてるってそりゃ当り前だろ。俺は悪魔なんだから』
唯「あ、あ、あ、あくま?」
?『そうだよ。この姿のどこが悪魔以外に見えるって言うんだい?』
とは言え、唯にとって目の前の存在は、ぱっと見にはただのどこにでもいそうな少年にしか見えない。
ただ、空中に浮遊していることを除いては。
唯「ひ、ひっ! 私は食べても美味しくないですよ!?」
悪魔「はぁ?」
唯「だ、だって、アクマっていったら、私のような可憐な美少女を頭からパクって……!」
悪魔「別に取って食いやしないから安心しな。
それに俺はお前みたいなつるぺったんよりもボンキュッポンの大人のオンナの方が好みだ」
唯「そ、それはそれでひどいかも……」
悪魔「時にお前、名前は何と言う」
唯「平沢唯です」
悪魔「ユイ……か。人間がココに迷い込むなんて相当久しぶりだな」
唯「迷い込む?」
悪魔「ああ。この十字路はユイが元いた世界とは別の、俺のような悪魔の住む世界さ」
唯「そ、そんな……。どおりで誰も人がいないと……」
悪魔「ま、心配するなや。時がたてばすぐに元の世界に戻れる。それよりも……」
そう言って悪魔は唯が背負っているギターケースに目をやった。
悪魔「ユイはギターを弾くんだろ?」
唯「う、うん。高校で軽音部に入ってるからね。このギターはギー太って言って……」
悪魔「どれくらいギターをやってるんだ?」
唯「まだ初めて1年ちょっとだから全然弾けなくて……えへへ」
悪魔「初心者ってわけか」
すると悪魔の瞳が初めて悪魔らしく妖しく光った。
悪魔「ユイはギターが上手くなりたいとは思わないか?」
唯「えっ」
悪魔「俺にはギタリストと契約することで、そいつのギターの腕前を上げることのできる能力があるんだ」
唯「ずいぶんピンポイントな能力だね……」
悪魔「ほっとけ。それより、今の話はマジだぜ。
俺と契約すれば初心者の唯でもあっという間にパガニーニのカプリースだって弾けるようになる」
唯「えっと……」
明らかに妖しい悪魔の提案に、いくら天然の唯とはいえ、不信感は拭えなかった。
唯「遠慮しておきます……」
悪魔「そうか。もったいねえな。しかし、俺はお前のことを気に入ったぞ」
唯「気に入った?」
悪魔「男ならともかく、女のくせにココに辿り着ける『素質』を持った奴なんて、
この100年間、一人もいなかったからな。
ま、気が変わったらいつでもこの十字路にこいよ。すぐに契約してやるから」
唯「別にいいです……って、え?」
瞬間、唯の目の前がまばゆい光に包まれる。思わず目を閉じ、数秒後に開けると、
唯「あれ……?」
見覚えのあるいつもの通学路に戻っていた。
唯「夢だったのかな……」
その翌日。
学園祭が近いということで、珍しく音楽室では軽音部の練習が行われていた。
澪「よし。それじゃあ全員でもう一度『私の恋はホッチキス』を合わせてみよう」
律「ミドルテンポの曲は退屈なんだよな~。走りたくなっちゃって」
紬「ふふっ。律ちゃんらしいですね」
梓「唯先輩、出だしのフレーズ大丈夫ですか?」
唯「……うん」
律「それじゃあいくぞー。わん・つー・すりー!」
演奏終了後――。
澪「唯、また出だしのフレーズミスってたな」
律「まったく、相変わらずだなぁ」
澪「そう言う律も曲の後半になるにつれリズムがグダグダだったけどな」
律「ハハハ……しっかし唯のミスはちょっと深刻だったな」
梓「唯先輩……」
紬「あんなに練習してたのに……」
唯「…………」
ここのところ、ギターに関して唯は深刻なスランプに陥っていた。
もともと初心者だった唯はその分吸収がよく、新しいコードやフレーズをどんどん覚えていた。
その証拠に1年時の学園祭や2年時の新入生歓迎会では、
とても初心者とは思えない演奏を見せたものだった。しかし、
澪「ここにきて、壁にぶつかってるのかもな」
紬「この1年というもの、すごい上達でしたからね……」
律「その反動ってやつか?」
梓「文化祭まで残り少ないですし……どうしましょう」
唯「みんなごめんね……」
澪「仕方ない。難しいフレーズはなるべく梓に弾いてもらうようにして、
唯にはリズムに専念してもらうということで……」
梓「えっ……でもそれは……」
思わず唯の表情を窺う梓。
律「まぁ仕方ないさ。その分唯にはボーカルで頑張ってもらえばいいし」
紬「リズムギター専門なら、ボーカルも取りやすいですしね」
唯「……うん」
帰り道。
唯は鬱々とした気持ちで背負ったギターに語りかけていた。
愛機のギー太でカッコよくソロを取って声援を浴びてみたかったが、それも今は叶わない。
しかもよりによって、ギター歴は自分より長いとはいえ、後輩の梓に自分のパートを奪われてしまった。
これで気にするなという方が無理である。
唯「私の演奏がもっと上手ければ……」
もともと高校入学まで、何かに打ち込むことがなかった唯が初めて打ち込んだのがギターだった。
日に日に新しいことを学んでいき、バンドでそれを演奏することが、
最近になって本当に楽しくなってきていたのだ。
唯「どうやったらギターが上手くなれるんだろう?」
ひたすら練習するしかないというのはわかっているものの、文化祭はもう目の前である。
練習してまた数年後などというのは、今の唯にはとてもではないが待っていられる話ではない。
悪魔『俺はギタリストと契約することで、そいつのギターの腕前を上げることのできる能力があるんだ』
唯「!!」
瞬間、唯は昨日の悪魔のことを思い出した。
唯「でも、あれは夢だったんだし……。悪魔なんて本当にいるわけないよね」
そう自分に言い聞かせたものの、帰途を辿る足は無意識のうちにあの十字路へ向かっていた。
悪魔「なんだ、結局来たじゃないか」
そして件の十字路には、本当に昨日の悪魔がふわふわ浮いたまま、唯のことを見下ろしていた。
あれは夢などではなかったのだ。
唯「……どうしてもギターが上手くなりたくて」
悪魔「そうかい、そうかい。いい心がけだ」
唯「でも本当にあなたと契約したらギターが上手くなるんですか?」
悪魔「おいおい、疑ってるというのかい?
だったら今まで俺のとこにやってきたギタリストの話をしてやるよ」
唯「今までにも私と同じようにここに来た人がいるの?」
悪魔「ああ、勿論、それに足りるだけの『素質』がある人間だけだがな。
最初にココに人間が来たのは、70年くらい前だったかな。ロバートっていう名前の黒人だったよ」
悪魔「次はその20年後、これもジミっていう名前の黒人だったな」
悪魔「その後にもデュアンっていう典型的なアメリカ南部男、ランディっていう小柄な白人の金髪男――」
悪魔「スティーヴィーっていう帽子の良く似合う、これもアメリカの白人。
あとはダイムバッグっていうあだ名のあごひげが特徴的だった地獄から来たカウボーイ男」
悪魔「あとユイと同じ日本人ならアベっていう背の高い男もいたな……。
ま、いろんなのが来たけど、どいつもこいつも俺と契約した後はギタリストとして成功してるぜ?」
唯「名前は聞いたことないけど、なんかすごそうですね……」
悪魔「当たり前だろ? 悪魔を舐めてもらっちゃ困るぜ? それでユイも契約するんだろ?」
唯「…………」
ここに来て唯は迷った。本当にこの胡散臭い悪魔と契約などしてもいいものか。
しかし、その瞬間、最悪の想像が唯の脳裏をよぎる。
澪『唯は駄目だなぁ~。いつになってもマトモにギターが弾けやしない』
梓『後輩の私の方が全然上手いですもんね』
律『唯を軽音部に引き入れたのは失敗だったかなあ』
紬『ギターをまけてあげたのも失敗でしたね』
憂『私が3日練習しただけで、お姉ちゃんより上手く弾けるよ。おっぱいも私の方が大きいよ』
和『せっかく打ち込めるものを見つけたと思っていたのに、やっぱり相変わらずだったのね』
さわ子『もう唯ちゃんにギターを教えても仕方ないわね』
唯「ひっ!」
澪『これじゃ唯が居ない方が演奏はまとまるよな』
梓『寧ろギターは私さえいればいいと思います』
律『やっぱり唯を入れたのは間違いだったなあ』
紬『紅茶とお菓子返してください』
唯「そ、そんな……」
澪『ま、なんというか……』
唯「や、やめて……」
澪梓律紬『唯が居なくても別に構わないよね~』
唯「いやっ!!!」
悪魔「おいおい……。いきなり叫び出してどうしたんだ」
唯「……します」
悪魔「?」
唯「私、あなたと契約します!」
悪魔「本当か?」
唯「ギター、もっと上手くなりたいから!」
悪魔「ククク……そうかそうか。いい心がけだぜ」
こうして唯は十字路の悪魔と契約し、ギターの技術を手に入れることとなった。
唯「これで本当にギターが上手くなったの?」
悪魔「不安なら後で実際に弾いてみればいい。そうすればすぐにわかるさ」
唯「わかった! ありがとう、アクマさん!」
喜んで十字路から走り去って行った唯。
しかし、唯は忘れていた。
契約とは常にそれ相応の対価をもってなされるものであるということを。
そして『悪魔』などとそれを交わすということは、
それ相応の『代償』があってしかるべきだということを。
悪魔「ククク……これでしばらくは退屈しないで済みそうだな……」
最終更新:2011年10月23日 00:49