いちごと紬は、それ程親しかった訳では無い。
故に、この別荘へと招いた事が無かった。
そのいちごが、果たして今回の計画を思い付くだろうか。
別荘の構造さえ知らないいちごに、考え付けるだろうか。
少なくとも、エレベーターの存在を知らない限り、
その中に注水するなど考え付けるはずもない。
また、いちごは梓とは殆ど面識が無かった。
面識のある唯や紬とさえ、電話番号の交換をしていない。
いちごが黒幕だと言うのなら、どうやって梓とコンタクトを取ったのだろうか。
疑念を深めた紬は、今まで見落としていた問題にも気付いた。
それはいちごに限った話では無く、紬をすら含めた話だった。
もし黒幕が律の浮気相手の中に居るのならば、
自身と律の場面をどうやって撮影したと言うのだろうか。
リスクを冒して、誰かに頼んだのだろうか。
疑念の中で紬は、別の可能性に思い至った。
──黒幕は律の浮気相手の中には居ない──
「いちごは私とそれ程親しく無かったから、裏切られたって感じはあまりしなかった。
だから、自転車に細工する程度で許してあげたよ」
その時、後ろから低い声が聞こえた。
紬が反射的に振り返ると、
立ち上がった澪が勝ち誇った笑みを浮かべて見下ろしている。
足など始めから捻っていないような、自然な姿勢だった。
実際、歩みを進めてくる澪には、
足を庇うような仕草は一切見受けられない。
裸体を恥じる事の無い、堂々とした闊歩だった。
悠然と澪は、続けて言い放つ。
「律との絆を確かめる事ができたよ」
途端、紬の脳裏に記憶の奔流が押し寄せた。
それらは全て、澪の発言だった。
『律だけ愛してきた。律だけ愛してる。律だけ愛していく』
──律に対する凄まじい執念。
『律の言う通り、企画した奴はきっとすぐ側でゲームを見てるんだろう』
──澪は律の最も側に居た。
『お前が誰かと浮気しているんじゃないかって、疑ってたんだ』
──澪は律の浮気に気付いていた。
『律の事、ずっと見てきたから』
──だから澪は律の浮気を撮影できた。
『夜も眠れず……精神科にだって通ったくらいなんだ』
──紬に届けられた睡眠薬の入手経路。
『律は怪我してるし……それも私のせいで』
──文字通りの意味。
『確かに来た事のある場所だな』
──エレベーターの存在を知っていた者。
『律との絆を確かめる事ができたよ』
──ゲームのテーマは絆。ゲームの目的は二人の絆を確かめる事。
その必要に最も迫られていた者とは──
「いやあああああっ」
紬の口から絶叫が漏れた。
発作的に唯の手から金槌を引っ手繰って、澪へと向ける。
協力者の正体に気付いた衝撃を、口から迸らせたまま。
黒幕は、ゲームをコントロールできる位置にずっと居た。
姿を見せなかったのでは無い、見せられなかったのだ。
澪は事も無げに紬の手を払い、金槌を叩き落して言う。
「律が私から離れて、浮気相手の所に行くんじゃないかと不安だった。
気が狂いそうだった。
でも、今回の件で、私達の結び付きは強くなった。
これでもう、律は浮気しない」
言葉を放ちながらゆっくりと迫ってくる澪に合わせて、
紬は腰を地に付けて後退する。
「あ……ああ……全部……演技だったの?」
恐怖を隠せず、紬の問う声が震えた。
「ほとんど本音だったよ。
実際、律が私を信じさせてくれないなら、一緒に死のうと考えていた。
私は律の為に大切な何物をも、例えば自分の親友でさえ犠牲にできる。
そして今回、犠牲にした。
律がそれに値するやり方で私を信じさせてくれないなら、
あのまま一緒に死んだ方が良かった。
でも、顔を犠牲にしてくれた。その後、親友までも。
ああ、足を捻ったのは演技だけどね」
後退していた紬の指が、縁に触れた。
それは、エレベーターの縁だった。
「言ってやるっ。りっちゃんに、言ってやるんだからっ」
追い詰められた紬は、恐怖と怒りを織り交ぜて叫んだ。
しかし、澪は全く動じなかった。
「それは名案かもな。ムギの眼前で律に打ち明けてみようか」
紬は咄嗟に叫ぶ。
「嫌っ。見たくないっ」
真実を知った今、澪に律を渡したくは無かった。
だが律は、澪の為に顔を傷つけ、大切な友人であり嘗て愛した唯を傷つけた。
それら犠牲を正当化する為には、もう澪を愛し続けるしかない。
澪の悪辣な部分を今更見た所で、もう引き返せない所まで来ている。
だから律はきっと、澪を愛し続けるだろう。
それは紬にとって、絶対に見たくない場面だった。
紬は話題を変えようと、続け様に叫ぶ。
「澪ちゃんっ。唯ちゃんや梓ちゃんが可哀想だと思わないのっ?
りっちゃんを騙して、悪いと思わないのっ?」
「唯と梓は、親友や妹だと思っていたのに、私を裏切った。
その罰だよ。お前がゲームの規定から外れて、
私達を救助しない時の保険でもあったけど。
律に付いては……そうだな、確かに騙していた事は悪いかもな。
だからやっぱり、打ち明けよう。勿論、お前の眼前で」
再び戻ってきた話題に、紬は激しく首を振って返す。
「嫌っ嫌っ嫌っ」
「提案したのはお前だよ。
それに、見続ける事が、私を裏切り律に手を出したムギへの罰だしね。
だから、大人しくしてな」
澪の足が蹴るような勢いで、紬を強く押した。
紬の後方は、エレベーターの籠へと落ちる空間だった。
「あっ」
紬は身体が宙に浮く感覚を味わった。
その感覚は長く続かず、水面を破る音と共に水の感覚へと変わる。
飛沫の向こうに、縄梯子を引っ張り上げる澪の姿。
紬は慌てて手を伸ばすが、間に合わなかった。
呆然と上を見上げる紬に対し、澪の冷たい声が降ってくる。
「絆を深めた私と律の関係は、幸せなものになるだろう。
生きている事に感謝できるくらい、幸せなものにな。
お前は律を誑かし、幸せから遠ざけていた。
その自分の罰から逃げるなよ、ムギ」
紬は見ていた。
両腕を広げ、左右の扉を掴む澪を。
紬は見ていた。
抱くような動作で、勢い激しく扉を閉める澪を。
.
.
律と澪を左右半々に模して作った人形が、ディスプレイの端に映っている。
監視に使っていた部屋から、澪がライブ映像の送信を始めたのだろう。
紬がゲームの開催を告げる時に、そうしたように。
絶望が届けられるライブ映像を、紬は見ていた。
律に全てを打ち明ける、澪の姿を。
その後に裸のまま抱き合う、律と澪の姿を。
律の顔の傷痕を愛しそうに舐める、澪の姿を。
真相を語った澪を受け入れる、律の姿を。
そして律の放つ言葉が、スピーカーを通じてエレベーター内に響く。
『ムギより澪の方が好きだよ』
「やめてえぇっ」
紬は耳を塞ぎ叫んだ。
それでも、目を閉じる事はできなかった。
絶望から目を逸らす事ができなかった。
澪の放った罰という言葉に、精神が拘束されていたから。
だから、紬は見続けた。
自分よりも澪を選ぶ律を──
幸せそうな澪の笑みを──
律の顔の傷を──
二人の絆を──
紬はそう、見ていた。
<FIN>
>>5-248
以上で完結です。
改行の件で指摘を受けましたが、
文量の関係上ご要望に添えなかった事、
お詫びします。
最後までご閲覧頂き、ありがとうございました。
支援頂いた事と合わせて、お礼申しあげます。
それでは。
最終更新:2011年10月23日 00:46