ゲーム参加者である律と澪、進行役を務めた紬、そして黒幕と思しき梓。
これで全ての役者は出揃ったはずだと、紬は疑っていなかった。
だからこそ梓の意識を断った段階で、安堵していた。
だが今更になって、見落としていた可能性に思い至る。
それは協力者が一人とは限らない、という事だった。

「まだ誰か、居る」

 紬が確認するように呟いた時だった。
足音の主が、壁の影から姿を現した。

「唯ちゃん……」

 紬は呻くように、その名を呼んだ。

「何で澪ちゃん、裸なのかなぁ?
ショーツ一枚のりっちゃんに、何をする気なのかなぁ?」

 唯は顔を俯かせたまま、視線だけこちらに向けてきた。
その視線も声も、酷く暗い。
そして、唯が握っている木製の長い棒に、紬の警戒心はいや増した。

「こんな所に居たんだね。一つ下の階に行っちゃってたよ。

エレベーターの中に居ると思っていたら、中から物音がしなくなって。
代わりに、上から騒々しい物音や声が聞こえてきて、ね。
来てみたら、りっちゃんがショーツ一枚で……」

 話す唯の瞳が薄暗さと険しさを増した。
梓と紬の騒動の音を聞いて、
一階エレベーター前から唯は移動してきたらしかった。
手に持っている棒も、その過程で手に入れたのだろう。
実務スペースであるが故、凶器に代用できる道具の入手も難しくは無い。

「ねぇ、ムギちゃん、澪ちゃん。りっちゃんは、私のものなんだよ?
分かってる?ねぇ?分かってる?分かってないよね?」

 壊れたように言葉を放ちながら、唯はゆっくりと近付いて来た。
唯が梓と協力していたのか、それとも唯こそが黒幕なのか、紬には断じかねた。
だが、自分達に危害を加えようとしている事くらい、
梓の時と同じく容易に理解できる。
だから紬は制止の声を上げた。

「唯ちゃん……もう、止めましょう?
二人は勝ったの。私達は負けたの。
りっちゃんには、澪ちゃんが居るんだから」

「駄目。りっちゃん、言ってたもん。
私の事、捨てないって。私の事、特別だって。
そうだよね?りっちゃんっ」

 唯は表情を明るく転じ、律に視線を向けた。

「唯……」

 唯の視線を受けた律は苦しそうに呟き、俯き加減に目を逸らしていた。

「どうして目を逸らすの?りっちゃん、嘘だったの?
捨てないよね……私の事。
だって、りっちゃんって本当は、私に未練あるんでしょ?」

 縋るような声で問いかけながら、唯が一歩また一歩と迫って来る。
言葉を返せず黙りこくる律に代わって、紬が答える。

「あのね、唯ちゃん。りっちゃんにとって特別な存在は、澪ちゃんなの。
残念ながら、私も唯ちゃんも、りっちゃんを射止める事はできなかった。
そういった意味では、私も唯ちゃんと同じ仲間よ。
澪ちゃんだけがり」

「うるさいっ」

 棒を乱暴に振り回しながら、唯は激しく叫んで紬の言葉を遮った。

「っ」

 振り回された棒が腕に当たり、紬は痛み故の絶句を漏らした。
唐突な攻撃だったとはいえ、紬は己の油断を悔いた。
既に棒が当たる位置まで、唯は近付いて来ているのだ。
いつ攻撃を浴びてもおかしくない、という認識が必要だったはずだ。

「あのね、ムギちゃん、あんまり調子のいい事言わないでもらえるかな?
仲間?笑わせないでよ。んーん、違うね、これ以上怒らせないでよ。
仲間だと言うのなら、ムギちゃんは裏切ってる。
ムギちゃんは澪ちゃんと同じで、りっちゃんを誑かす悪女だもん」

 唯の言う裏切りとは、律と澪を助けた事を指しているのだろうか。
それとも、梓を斥けた事を指しているのだろうか。
或いは、律と澪の仲を認めた事を指しているのかもしれなかった。

 だが紬は、裏切ったのは寧ろ唯達の側だと思った。
律と澪の二人は定められた条件通りに、ゲームをクリアしている。
にも関わらず襲撃するなど、信義に悖っているとしか感じられなかった。
クリア直後とあれば尚更の事だ。

 尤も、今その事を指摘しようとは思わなかった。
感情が昂ぶっている唯に対し、論理が通用するとは思えない。
逆に正論であるからこそ、唯の言葉を封じて暴力を誘発する危険があった。
極度に感情的になった人間が、言い返せない時に用いる手段など決まっている。
勿論、誘発せずとも唯は暴力を用いるだろう。
だが、説得の最中に再び不意を衝かれる事は避けたかった。
だから紬は、唯の話を無視して警告のみ口にする。

「唯ちゃん、これ以上近づかないで、足を止めて。
それ以上近づいたら、実力で排除するから」

 唯は紬の警告を受けて尚、歩みを進めてきた。

「唯ちゃんっ」

 紬の叫喚など聞こえないかのように、唯は棒を持つ腕を振り上げた。
構えた棒の先には、目を見開く澪の姿があった。
その澪に向けて、唯の口から言葉が放たれる。

「りっちゃん、ずっと一緒だよ。澪ちゃんはバイバイ」

 物理的な排除を躊躇う事は、既に限界に達している。
紬は警告を実行に移すべく、梓から奪った金槌を振り上げた。



「その前に、お邪魔な裏切り者は黙っててね」

 唯の振り上げた棒は澪へと打ち下ろされず、
方向を変えて紬の頭部へと打ち下ろされてきた。
咄嗟に腕で頭を庇うが、痛みと衝撃で金槌が手から離れて床へと落ちる。
金槌が床に転がる音を響かせる頃には、
既に唯は次の攻撃を繰り出す体勢を取っていた。
それは両腕を引き、棒を水平に寝かせる姿勢だった。
避ける暇も無く、その攻撃が放たれる。
両腕が伸ばされ、棒の先端が紬の鳩尾へとめり込んだ。

「ぐぇっ」

 紬は無様な呻き声を上げて、腹部を抑えて蹲った。
早く体勢を立て直さなければ、上から滅多打ちにされる。
紬はそう思い、必死に立ち上がろうとした。
だが、押し寄せる痛みによって、立ち上がる事さえままならない。
歯痒い思いと恐怖を抱えながら、紬は唯を見上げた。
想像に反して、唯は紬に追い討ちをかける体勢を取ってはいなかった。
それどころか、唯は既に紬など見てさえいない。
怨嗟と敵意が篭った唯の眼差しは、澪へと向けられている。

「澪……ちゃん……逃げて」

 叫びたかったが、痛みに阻まれ小さく断続的な声しか出せなかった。

「逃がさないよ」

 唯は棒を振り上げて、澪を目掛けて打ち下ろした。
鈍い音が響き、澪が床に転がった。
それでも紬は安堵していた。
対照的に、唯は不機嫌そうな表情を浮かべ、舌打ちをしている。
唯の放った一撃は空振り、棒は床を打ちつけていたのだ。
避ける際に勢い余って転びはしたが、
運動神経の良い澪ならすぐに体勢を立て直すだろうと紬は考えていた。

 しかし、澪は起き上がろうとはしなかった。
紬はその原因に気付き、青褪めた。
唯も気付いたのか、不機嫌そうな表情が上機嫌なものへと転じている。

「つぅっ」

 転んだ際に捻ったのか、澪は足首を抑えて呻き声を上げていた。

「ほらね?神様も澪ちゃんを罰したがってるんだよ」

 唯は再度、棒を振り上げた。
それが振り下ろされた時、澪が避けられるとは思えなかった。
とは言え、紬の鳩尾には未だ痛みが疼いており、
立ち上がって妨害する事は困難である。

 だが、痛みが緩和してきている今なら、全く動けない訳では無い。
紬は屈んだ姿勢のまま、転がるように唯の足へと飛び込んだ。
今度は唯が不意を衝かれる恰好となった。

「えっ?」

 驚愕の声を上げながら、唯は姿勢を崩して床へと倒れ込む。
その際に唯の手から離れた棒も、鈍い音を響かせて床に転がった。
そして紬は転んだ姿勢のまま、立ち上がらせないよう唯の両脚を抱え込む。

「邪魔しないでよ、ムギちゃん」

「言ったでしょ?近づいたら実力で排除するって」

 苛立たしげな唯の声にそう返したものの、紬の身体とて万全では無い。
鳩尾への一撃のみならず、梓に打たれた部位も痛みを訴えている。
それでも自由にはさせまいと、唯の足を抱き続ける。

「あー、もうっ」

 唯は焦れたように声を上げると、右手を床に這わせた。
紬が意図を察した時には、唯の右手に金槌が握られていた。
先程、紬が落とした金槌だった。

「邪魔っ」

 頭部を金槌で打たれて、紬は再び蹲った。
唯の足に密着した体勢では、避ける事も防ぐ事もできなかった。

「手間取らせないでよ」

 紬の拘束を脱した唯は一言呟くと、上半身だけ起こした。
そして、床に転がっている棒へと腕を伸ばした。
金槌よりも長い分、棒の方が澪を攻撃し易いと判断したのだろう。
紬は蹲った姿勢のまま、唯の動作を見ていた。

 だが、唯の手が棒を掴む事は無かった。
唯の手が棒に触れる寸前に、律が棒を取り上げていたのだ。
唯は一瞬、驚愕を表情に浮かべたが、すぐに納得したように頷いていた。

「あ、そっか。そうだよね。
りっちゃんも漸く気付いてくれたんだね。誑かされていた事に。
自分で始末付けたいんでしょ?いいよ、譲ってあげる。
どうぞ、思う存分、悪女の澪ちゃんを打ちのめしてよ」

 律は何かを逡巡しているかのような、煩悶の表情を浮かべている。
勿論、澪を打つか打つまいかを迷っている訳では無いと、紬には分かっていた。
一方で唯は、律の表情を澪への攻撃に対する逡巡と解しているらしかった。

「あ、最初の一撃躊躇ってる?
そうだよね、付き合ってたもんね。躊躇うのも無理は無いよ。
だから、私から打とうか?順番で澪ちゃんやっつけようか。
その次は、ムギちゃんだね」

 言い終えた唯は律の返事を待たずに、金槌を手に立ち上がろうとする。
その姿に向けて、律の口から苦しげな声が放たれた。



「ごめん……唯……」



 続いて響く、低く鈍い音。

「え?」

 唯は立ち上がる事無く、額を手で押さえて訝しげな声を上げていた。
その口は呆けたように開かれ、目も大きく見開かれている。
律から打たれた事に、認識が追い付いていないのだろう。

「本当にごめんな、唯」

 再び律が棒を振り上げ、唯の華奢な肢体へと打ち下ろした。

「痛い……痛いよ、りっちゃん。何するの?どうしちゃったの?
私じゃないよ?澪ちゃんをやっつけるんだよ?」

 二度目の打擲を受け、漸く打たれた認識が芽生えたようだった。
だが、どうして打たれたのか、その理解まではできていないらしい。

「私は澪を打てないよ。だって、澪の事が好きなんだ」

「そっか。まだ澪ちゃんから誑かされてるんだね。
早く澪ちゃんをやっつけないと」

「駄目なんだよっ、唯っ」

 再び立ち上がろうとする唯に、律はまたも棒を打ち下ろした。
臀部を地に付ける唯に対し、律は縋るような声で言葉を放つ。

「頼むから、放っといてくれ。私の事なんか構わずに、幸せになってくれ。
なぁ、私は澪が好きなんだ。だから……危害を加える人間には、
防衛行為を取らざるを得ないんだよ。
嫌なんだ、これ以上は唯を傷付けたく無いんだよ。だから、頼むよ……」

 途端、唯の激した声が轟く。

「何それっ?そんなの、酷いもん。
それって、私より澪ちゃんを優先するって事でしょ?
そんなの、絶対許せないっ」

 唯の言う通りだった。
澪を守る為ならば、傷付けたくない対象である唯だろうと排除する。
それは即ち、澪が唯よりも大切な事を意味している。
律に恋情を抱く唯にとって、これ以上の屈辱は無いだろう。
唯は続けて言う。

「うん、絶対許せない。
だって、りっちゃん、私の事、特別だって言ったもん。
きっと澪ちゃんとムギちゃんに騙されてるんだ」

 尚も立ち上がろうとする唯に対して、律は棒を振り下ろした。

「頼むから止めてくれっ」

 唯は打たれた肩を抑えながら、律に向けて言う。

「無理だよ。りっちゃんを澪ちゃんから取り戻さないと」

 律の瞳から、涙が零れた。
覚悟が決まった瞬間なのだろう。

「本当にごめん、唯。私が悪いのは分かってる。
お前だけじゃない、色々な浮気相手を作って、お前達を苦しめてきた。
それでも私は……澪が一番大事だから。本当に、ごめん」

 律は涙ながらに、棒を振り下ろした。
唯の口から短い悲鳴が漏れたが、律は更に続けて棒を打ち下ろす。
そして、更に打擲、打擲、打擲。

「痛いよ、りっちゃん。止めてよ。
私はりっちゃんの事が好きなのに、
りっちゃんも私の事を好きだって言ってくれたのに、
どうしてこんな事するの?どうしてこんな事ができるの?」

 唯は痛みに喘ぎながら、言葉を紡いだ。
それでも律の打擲は止む事が無かった。

「ごめん、ごめん、ごめん」

 涙混じりに謝りながら、唯へと棒を打ち下ろし続けている。

「痛いよお、りっちゃん、痛いよう。
セックスの時とは違うもん、あの時は愛があったから、痛くても良かった。
でも、こんなの違うもん。こんなの、澪ちゃんの為だもん。
だから、止めてよ、痛いよ、痛いだけなんだよ。

りっちゃん、心も痛いんだよぉ……」

 唯は身体を丸めて蹲り、涙を溜めた瞳で律を見上げて言った。
それでも、律は打つ事を止めなかった。

「ごめんな、ごめんな、本当に……ごめん」

 澪の為に自身の顔を傷つけ、友人すら傷付ける律。
その姿に、紬は途轍もない悲しみを覚えた。
そして、今打たれ続ける唯の姿は、
もしかしたら自分がそうなっていたかもしれない姿でもあるのだ。
紬は戦慄と悲しみを抱きながら、ただ見ていた。

「りっちゃん、止めてよぅ……痛いよぅ……りっちゃん……。
痛いよぅ」

 唯は泣いていた。泣きながら、痛みを訴え続けていた。
律も泣いていた。泣きながら、痛みを与え続けている。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「痛いよぉ、痛いよぉ、痛いよぉ」

 打擲は、唯の口から言葉が途絶えるまで続いた。
 言葉を発しなくなった唯を、律は荒い吐息を繰り返しながら見つめた。

「本当にごめん、唯」

 律は涙混じりに呟くと、青褪めた顔を澪へと向けた。

「澪……私、私……」

 そこまで言って言葉に詰まった律は、澪の胸へと雪崩れ込んだ。
澪は優しく律を抱き止めて、頭を撫でていた。

「澪、私、私っ」

 尚も言葉を詰まらせる律に、澪は励ますように言葉を掛けている。

「大丈夫、大丈夫だから」

 その二人に言葉を挟む事が躊躇われたが、紬は結局言った。

「ごめんね、りっちゃん、澪ちゃん。
何時までもこうしている訳にはいかないわ。
取り敢えず、二人の服と、それと梓ちゃんと唯ちゃんを拘束しないと。
意識を取り戻した時、また暴れないとも限らないし」

 梓はともかく、唯に気力が残っているとは思えなかった。
だが、警戒は必要だろう。




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